File.08 -side:しぐれ- 『割れる教室と、疑心の影』
ういが姿を消してから、学校の空気はすっかり変わってしまった。
朝、登校しても、誰も笑顔を交わさない。
廊下ですれ違う生徒たちは、まるで生気を失った人形のように俯き、足早に通り過ぎていく。
短い間に、女子生徒が二人も行方不明になった。
その事実は、小さな港町である波須町を、底知れない恐怖に包み込んでいた。
警察の捜索は連日続けられているらしい。けれど、決定的な手がかりは見つかっていない。そんな噂ばかりが、学校の中にも広がっていた。
私たちは、目に見えない檻に閉じ込められてしまったようだった。
残されたのは、私とみと、ゆめの三人だけ。
かつて五人でお弁当を広げ、他愛のない話に笑い合った教室は、今では冷たい沈黙と疑念が澱のように溜まる場所になっていた。
放課後。
西側の窓から夕暮れの光が差し込んでいた。
オレンジ色の光に照らされた教室には、もう私たち以外の生徒はいない。
その片隅で、ゆめが自分の席にうずくまり、両手で頭を抱えて震えていた。
「ねえ……私、もう耐えられないよ……」
絞り出すような声だった。
「まつりちゃんも、ういちゃんも……あんなふうに消えちゃった……。次は……次は私の番なんだ……。絶対にそうなんだよ……!」
「落ち着け、ゆめ。深呼吸してくれ……」
みとはゆめのそばに歩み寄り、その肩を抱き寄せた。
「私が……私が絶対に守るから」
そう言うみとの顔も、血の気を失っていた。
声の震えを隠しきれていない。みと自身も、恐怖に耐えるのが限界なのだろう。
「守るって……どうやって守るっていうのよ!?」
ゆめが顔を上げた。
その目は赤く充血し、焦点が定まっていなかった。
「相手が何なのかすら分からないのに! ねえ……しぐれちゃん」
突然、ゆめの視線が私に向いた。
その瞳に宿る不信感に、私は息を呑んだ。
「……しぐれちゃん、本当は何か知ってるんじゃないの……?」
「え……?」
頭の中に、ういの最後の言葉が蘇った。
――しぐれちゃんだけ、何か隠してるんじゃないの?
ういも、消える直前に私を疑った。
そして今、追い詰められたゆめも、同じように私へ疑いの目を向けている。
「ういちゃんも、最後に言ってた……しぐれちゃんが何か隠してるって……!」
ゆめの声が、次第に大きくなっていく。
「まつりちゃんとういちゃんが消えた理由、本当は最初から知ってるんでしょ!? お願いだから教えてよ……! なんで私たちが、こんな目に遭わなきゃいけないの!?」
「私だって……何も分からないよ! そんなもの、隠してなんか――」
「嘘だ!!」
ゆめの叫びが、静まり返った教室に響き渡った。
窓ガラスが震えたように感じるほどの、鋭い声だった。
私は言葉を失った。
ゆめは私を見つめたまま、震える指をこちらへ向けた。
「さっきからずっと……しぐれちゃんのすぐ後ろに……何か立ってるよ……っ!!」
心臓が、激しく跳ね上がった。
全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
私は反射的に振り返った。
けれど、そこにあったのは、西日に照らされた誰もいない教室の風景だけだった。
机と椅子が並び、窓際のカーテンが風に揺れている。
何もいない。
誰も立っていない。
「誰も……いないよ……? ほら、何も……」
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
「嘘を言わないで……!」
ゆめが悲鳴のような声を上げた。
「立ってるのよ、そこに……! 真っ黒な影が……しぐれちゃんのすぐ後ろで、私を見て……笑ってる……!!」
「ゆめ……?」
私はもう一度、背後を見た。
やはり、誰もいない。
けれど、ゆめの顔には、作り話をしている人間の表情などなかった。
彼女は本当に、何かを見ている。
私には見えない何かを。
「いや……いやあああっ!!」
ゆめは両手で耳を塞ぎ、激しく首を振った。
ガタンッ!
彼女の机が倒れ、教室に大きな音が響く。
ゆめはそのまま、出口へ向かって駆け出した。
「ゆめ! 待て!」
みとが慌てて後を追う。
「待って、私も……!」
私も反射的に走り出そうとした。
けれど、足が床に縫いつけられたように動かなかった。
ドアの前で、みとが一度だけ振り返った。
その視線が、私を射抜く。
そこには、かつての温かな友人としての感情は残っていなかった。
あるのは、冷たい疑念と、言いようのない恐怖だけだった。
「……しぐれ」
みとの声は、ひどく冷たかった。
「お前はもう、これ以上ゆめに近づくな」
「みと……?」
何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
みとはそれ以上何も言わず、ゆめを追って廊下へと消えていった。
扉が閉まる。
静寂が戻った。
夕暮れの教室に、私だけが取り残された。
頭の中が真っ白だった。
自分の呼吸さえ、どこか遠くから聞こえてくるような気がする。
みんなを守りたかった。
あの温かい居場所を失いたくなかった。
転校してきた私を迎えてくれた四人との日々が、何よりも大切だったから。
だから、あの廃屋で見たおぞましい光景を打ち明けられなかった。
あれは、ただの悪夢だったのかもしれない。
自分が見間違えただけなのかもしれない。
そう思いたかった。
もし本当のことを話して、みんなに信じてもらえなかったら。
もし、頭がおかしくなったと思われたら。
そんなことばかり考えて、私は口を閉ざした。
けれど、その沈黙は、みんなを守るどころか、少しずつ絆を切り裂いていった。
私が「何も知らない」と言えば言うほど、みんなには「何かを隠している」としか聞こえなかったのだろう。
誰かを守るためについた嘘が、結果として、全員を追い詰めていく。
それが、私たちにかけられた呪いなのだろうか。
窓の外では、波須町の海に沈む夕日が、空を赤く染め上げていた。
血のような赤だった。
私は自分の両腕を強く抱きしめた。
ゆめは、私のすぐ後ろに何かが立っていると言った。
真っ黒な影が、私を見て笑っていると。
――本当に、何もいなかったのだろうか。
振り返った時には、確かに誰もいなかった。
けれど、私が気づかなかっただけだとしたら。
私の背中にぴったりと寄り添い、私に見えない場所から、ずっとこちらを見つめていたのだとしたら。
次の標的を定めるために、じっと笑っていたのだとしたら。
私は、誰もいなくなった教室の隅へ目を向けた。
そこには、夕日に伸びた自分の影があるだけだった。
けれど、その輪郭は、いつもより少しだけ濃く見えた。
私はただ、震えながら、自分の影を見つめることしかできなかった。
『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』をお読みいただきありがとうございます!
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