File.07 -side:しぐれ- 『雨の夜の断末魔と、残されたハサミ』
その夜、雨はすべてを押し流そうとするかのように激しく降り続いていた。
窓を打つ雨音が絶え間なく部屋に響いている。
ベッドの端に腰を下ろし、膝を抱えていた。目を閉じると、昼間のういの叫びが蘇る。
『見えなきゃいいんだ……目を閉じれば……』
あの言葉は、いったい何を意味していたのだろう。
まつりが消え、ういまでがあの黒い影に怯えている。私たちは、いったい何を見てしまったのだろう。
考えても答えは出ない。ただ、胸の奥に沈んだ不安だけが、少しずつ膨れ上がっていた。
その時だった。
枕元のスマホが、低く鋭く震えた。
グループチャットの通知。こんな時間に、誰が——。
画面を確認した瞬間、息が止まった。
送信者は、ういだった。
『ごめんなさい』
たった一言。メッセージが、まるで死を覚悟した別れの言葉のように浮かび上がっていた。
その下には、一枚の画像。
震える指で画像を開く。
暗い部屋。フラッシュの光に浮かび上がったのは、部屋の隅で頭を抱え、膝を折って丸まるういの姿だった。
視線の先には、カーテンの隙間から差し込む街灯の青白い光。
そして、その薄暗がりに溶け込むように、あの黒い女の影が立っていた。
異様に長い腕が伸びている。細い指先が、ういの背中へと迫っていた。
逃げることなど許さないと告げるように。
「……ういちゃん」
声が震えた。どうして。どうして、こんなことに。
画面から目を離せないでいると、グループチャットに新たなメッセージが乱打された。みとからだった。
『うい!! 逃げろ!!』
『今すぐその部屋から出ろ……!』
叫び声がそのまま文字になったかのようだった。
私は弾かれたように通話画面を開き、ういの番号を押した。
お願い。お願いだから、出て——。
コール音は一回しか鳴らなかった。
カチャリ。通話がつながる。
「ういちゃん!? 逃げて! 今すぐ部屋から出て!!」
必死に叫んだ。けれど、返ってきたのは私の言葉に応える声ではなかった。
激しい雨音の向こうで、ういが小さくつぶやいた。
『……痛いよ』
耳を疑った。
「ういちゃん……? 何が痛いの? どうしたの!?」
『……あいつが、来たの……だから……見ないように……見たくなくて……目を……したのに……』
途切れ途切れの声。苦しそうな浅い息が混じる。
『……まだ見えるの……痛いよ……っ』
「ういちゃん!? いったい何をしたの!?」
『……しぐれちゃん……私……怖かったんだ……ごめんね……っ』
その声はあまりにも弱々しく、すべてを諦めてしまったかのようだった。
「ういちゃん! お願い、返事して! ういちゃん!!」
直後、電話の向こうでバサリと何かが床に落ちる音がした。
続いて聞こえてきたのは、何かが底なしの水底へ沈んでいくような、ぬめりを帯びた重い音だった。
「うい!?」
スピーカーからみとの絶叫が響く。
『うい!? ういーーっ!!』
何度も名前を呼んだ。けれど、二度と返事はなかった。
ブツン。
冷たい音を残して通話が切れた。
◇
「……嘘」
手の中のスマホが、鉛のように重い。
ういが危ない。今すぐ行かなければ。
上着を掴み、玄関へ駆け出した。傘を手に取る余裕すらなかった。
外へ飛び出すと、冷たい雨が全身を打ち据えた。水たまりを蹴立て、ただひたすらに走る。
港から漂う生臭い潮の匂いが、雨の冷たさと混ざり合っていた。
息が切れ、足がもつれても、止まるわけにはいかなかった。
ういちゃん、お願いだから無事でいて——。
やがて辿り着いたういの家の玄関先には、みととゆめ、そして顔面蒼白のういのお母さんが立ち尽くしていた。
誰も何も言わない。激しい雨音だけがその場を支配していた。
「うい……っ!」
駆け寄る私にみとは返事もせず、家の中へ向かった。
階段を駆け上がり、昼間開けることのできなかったういの部屋の前へ立ちふさがる。
ドアの前でみとの足が止まった。
昼間、私たちはここにいた。向こうにういがいると知りながら、踏み込むことができなかった。
けれど——鍵は、かかっていなかった。
私たちが怯えていただけだったのだ。
みとが震える手でノブを押す。
ギィ……と軋んだ音を立ててドアが開いた。
その向こうには——誰もいなかった。
窓の隙間から吹き込む風が、カーテンを激しく揺らしている。
空っぽの部屋に、ただ雨音だけが虚しく響いていた。
「うい……? どこに行ったの……?」
お母さんの声が震える。
ベッド、机、閉じられたカーテン。昼間と変わらないはずの部屋なのに、ういの気配は綺麗に消え去っていた。
部屋の中央に残されていたのは、ういのスマホと、一丁のハサミ。
ハサミの刃先と、その下の絨毯には、生々しい赤黒い血の跡がこびりついていた。
息が止まる。
ういは、あの影を見たくなかった。目を閉じても消えなかったから——。
その先の想像に、頭が狂いそうになる。
「……そんな」
ゆめが口元を押さえて泣き崩れた。
みとは膝をつき、震える手でういのスマホを拾い上げた。画面を確認した彼女の顔から、血の気が完全に引いていく。
「……消えてる」
グループチャットに届いたあの写真。ういの部屋の隅に立つ黒い女の影。
それらは、どこにも残っていなかった。
画像だけではない。あの影に関するすべての痕跡が、最初から存在しなかったかのように削り取られていた。
「なんで……なんでなんだよ……!」
みとの声が激しく震えた。
「昼間……私たちが無理にでも部屋に入っていれば……っ!」
絞り出すような叫びを残し、みとは床に崩れ落ちた。
お母さんの悲鳴とゆめの泣き声が響く中、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
まつりに続いて、ういまで消えてしまった。
残されたのは、私とみと、ゆめの三人だけ。
胸の奥には、冷たい鉛のような後悔が沈んでいた。
昼間、ういは私を疑った。
『しぐれちゃんだけ平気な顔をしてた』
『何か隠してるんじゃないの……?』
あの言葉が頭の中で激しく渦巻く。
私はういに本当のことを話せなかった。拒絶されるのが怖くて、あの部屋の前で立ち尽くし、何もできないまま逃げ帰ってしまった。
もし、あの時。もう一歩だけ踏み込んでいたら、ういを救えたのだろうか。
答えはない。
目の前に広がるのは、誰もいない部屋と、床に残された血まみれのハサミだけ。
「……次は、誰なの?」
気づけば、掠れた呟きが漏れていた。
まつりが消えた。ういも消えた。
次はみとなのか、ゆめなのか。それとも——私なのか。
窓の外では、雨がどこまでも降り続いていた。
自分の肩を強く抱きしめる。雨音の向向こうから、あの女の気配が確実に近づいてくる気がした。
振り返ることはできなかった。
もう何も見たくなかった。けれど、目を閉じたところで、あの影から逃れられないことだけは分かっていた——。
『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』をお読みいただきありがとうございます!
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