File.09 -side:しぐれ- 『毛布のなかの空白と、剥き出しの疑心』
外は不気味なほど風のない、重苦しい静寂に包まれていた。
空には星一つ見えず、波須町の街並み全体が、巨大な墓場のような圧倒的な闇に呑み込まれている。自室のベッドで膝を抱え、這い寄る恐怖に必死で耐えていた。
いつ、あの静寂が破られるのか。
いつ、あのスマホが鳴るのか。
想像だけで心臓が引き裂かれそうだった。そして、最悪の予感は残酷なほど正確に現実となった。
静まり返った部屋で、スマホが低く、鋭く震えた。
見たくない。知るのが怖い。
脳裏で叫びながらも、抗えない引力に引き寄せられるように震える手で画面を点けた。
通知が表示されたのは、残り少なくなった三人だけが繋がっている、あの呪われたグループチャット。
送信者は——ゆめ。
『助けて』
一言だけが、冷たく画面に浮かんでいた。
メッセージに添えられていたのは、暗闇の中をフラッシュで無理やり焚いたような、一枚の異様な画像。
写っていたのは、ゆめの自室のベッド。
頭からすっぽりと毛布をかぶり、小さく身を縮こまらせて震えるゆめの姿。
そして……その毛布の上から。
暗闇から這い出てきたかのような、漆黒の女の細長い両腕が、まるでゆめを愛おしむように、逃れられない締め付けで包み込んでいた。
『ゆめ!? 今どこだ!? 家か!?』
みとの必死なメッセージが乱打される。
私は一秒たりとも待てず、ゆめの番号へ直通の電話をかけた。祈るような気持ちで、震える耳にスマホを強く当てる。
一秒が、永遠のように長く感じられた。
『……もしもし……しぐれちゃん……?』
スピーカーの向こうから、息絶え絶えのゆめの声が聞こえてきた。
「ゆめちゃん! 動かないで! 今すぐそっちに行くから……!」
上着を羽織り、夜の住宅街へ飛び出して自転車のペダルを全力で漕いだ。返事のないスピーカーからは不気味なノイズだけが響く。それでも通話を切ることができなかった。
『……あたたかいの』
「え……?」
耳を疑う言葉が返ってくる。
『……すごく……あたたかくて……気持ちいいの。もう……怖くないよ……』
「ゆめちゃん!? 一体何を言ってるの……! お願いだから逃げて!!」
『……ういちゃんも、まつりちゃんも……みんなここにいたんだね……。あぁ……みんな、待っててくれたんだ……』
恐怖に怯えていたはずの少女の声ではなかった。すべてを受け入れてしまったような、うっとりとした、夢見心地の声。
直後——電話の向こうから、ヌチョリ……と、湿った重い液体が蠢くような不気味な音が響いた。
『ゆめーーーっ!!』
ゆめの家の玄関ドアを突き破るような、みとの鬼気迫る叫び声が漏れ聞こえた。
けれど、ゆめの声は二度と返ってこなかった。
ブツン、と無機質な音を立てて通話が切れる。
「そんな……嘘でしょ……!」
頭が真っ白になりながら辿り着いたゆめの家は、玄関のドアが荒々しく開けて放たれていた。中からは、崩れ落ちる両親の悲痛な叫び声が響いている。
階段を駆け上がり、ゆめの部屋へ飛び込んだ。
そこには、立ち尽くすみとの背中があった。
「みと……! ゆめちゃんは……!?」
みとは返事をしない。動かない人形のように硬直したまま、ただ力なく、目の前のベッドの上を指さしていた。
そこにあったのは、静まり返った部屋。
けれど、ベッドの上には——頭まですっぽりと被せられていたはずの「毛布」だけが、中に人間が入っているかのようにふっくらと膨らんだ形のまま、ぽつんと残されていた。
中には——誰の姿もない。
みとが震える手で、ベッドの上のゆめのスマホを持ち上げた。
画面を開く。
あのグループチャットに送られてきた、毛布を抱きしめる黒い腕の写真。
そして、これまでまつりとういが送りつけてきた、すべての画像や動画の履歴——。
やっぱり、そこには何ひとつ残っていなかった。
最初から誰も消えていないかのように。
最初から、そんな恐ろしい写真は一枚も送られてきていなかったかのように。
「……ゆめまで……消えた……」
みとが、すがりつく場所のない擦り切れた声で呟いた。そして、耐えきれなくなったようにその場に崩れ落ちた。
「まつりも……ういも……ゆめも……! みんな、みんな消えちまった……!」
みとは両手で頭を抱え、絶望に身をよじらせた。
数日前まで笑い合っていた大切な友人たちが、この世界から跡形もなく消え去ってしまったという現実。そのあまりの残酷さに、部屋の空気が凍りついていく。
やがて、みとはゆっくりと顔を上げた。
その瞳に宿っていたのは、深く底知れぬ暗黒をたたえた憎悪と、剥き出しの恐怖。
その視線が、私の姿を真っ直ぐにとらえる。
「……おい、しぐれ」
みとの低く、湿った声が重く響いた。
「……なんで、お前なんだよ?」
「……え?」
喉がキュッと締め付けられる。
「なんでお前だけ……あいつの手が伸びてこないんだよ!? なんでお前だけが何食わぬ顔をして、最後までこうして残ってんだよ!!」
みとはよろめきながら立ち上がり、私の胸ぐらを力任せに掴み上げた。
「お前が……お前があの廃屋で、何かを呼び寄せたんじゃないのか!? お前が最初から全部知ってて、私たちを嵌めたんじゃないのかよ!!」
「違う……! 違うよ、みと! 私は何も知らない……!」
「じゃあ証明してみろよ!! 私たちがあんな目に遭って消えていく中で、なんでお前が無傷でいられるのか、説明してみろよ!!」
みとの絶叫が、狭い部屋に虚しく木霊した。
胸ぐらを掴む手は、怒りと恐怖で激しく震えている。仲間を全員失った極限の恐怖と、目の前にいる「自分だけが生き残っている存在」への疑念。その矛盾が、彼女の理性を完全に破壊していた。
残されたのは——私と、みとの二人だけ。
そして、その瞬間。
閉め切られた部屋の隅、私の背後にある暗闇から、生臭い潮の匂いとともに、あの忌まわしい「気配」が確かな足取りで近づいてきていた。
逃げ場は、もうどこにもなかった——。
『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』をお読みいただきありがとうございます!
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