File.03 -side:しぐれ- 『揺らぎの境界線』
「ねえ、昨日の動画! 絶対バズるって! SNSに投稿していい!?」
昼休み。
お弁当を広げた私たちの机に、まつりがスマートフォンを掲げながら身を乗り出してきた。
画面には、昨日の放課後、街はずれの廃屋で撮影した『5秒間チャレンジ』の動画が映っている。
夕暮れに染まる古びた建物。剥がれかけた木造の外壁。二階にぽっかりと口を開けた黒い窓。
動画そのものは、どこにでもある高校生の肝試しの記録にすぎない。
けれど、私は画面を見るだけで、胸の奥が氷を押し当てられたように冷たくなるのを感じた。
「ダメに決まってるだろ」
すぐさま重い声を上げたのは、みとだった。
持っていた箸をカタンとお弁当箱の縁に置き、まつりをまっすぐ見つめる。
いつもなら冗談を交えて宥めてくれるみと。
けれど、その声にはいつもと違う、拒絶の響きが含まれていた。
「えー、なんでさ!?」
「勝手に私有地に入ったように見える。変な炎上でもしたらどうするんだ。それに……」
みとは、そこで言葉を切った。
膝の上で握り締めた彼女の拳に、ぎゅっと力が入る。
血の気が引いて白くなるほど強く握られた指先を見て、私の胸が嫌な音を立ててざわついた。
(みとも……私と同じものを見たの?)
脳裏に、昨日の光景が蘇る。
誰もいないはずの窓の奥。
不自然に歪んだ影。
そして——血に染まった床に倒れていた、4人の姿。
咀嚼していたお弁当の味が、一瞬で消え去った。
「えー、いいじゃん! バズったら有名人になれるかもしれないのに!」
まつりは頬を膨らませて不満を訴える。
いつもなら、その無邪気さに私も笑っていたはずだった。けれど今は、その明るささえ、遠い異国の出来事のように現実味がない。
「まつりちゃん、やめようよ……あんなの、SNSに載せない方がいいよ……」
ゆめが青ざめた顔で首を振った。
「私も……お願いだから、消してほしい」
ういの声も小さく震えていた。
ふたりの異様な反応を見て、まつりはようやく教室を包む歪な空気に気づいたらしい。
「……そんなに嫌なの?」
小さく呟き、私たちの顔を順番に見渡す。
そして、諦めたように肩を落とした。
「わかったよ。みんながそこまで言うなら、削除する」
まつりはスマートフォンを操作し、動画の削除ボタンを押した。
「ほら、これで満足?」
差し出された画面には、さっきまで表示されていたサムネイルが消えていた。
ただのホーム画面。何事もなかったかのような、いつものスマートフォン。
(よかった……)
私は胸に詰まっていた息をそっと吐き出した。
あの動画さえ消えてしまえば、昨日の出来事も少しずつ遠ざかってくれるかもしれない。そんな都合のいい期待を、心のどこかで抱いていた。
けれど——。
まつりがスマートフォンをしまったあとも、みとの表情は晴れなかった。
「……みと?」
声をかけようとして、私は思いとどまった。
彼女はお弁当箱の隅を見つめたまま、じっと固まっている。その横顔には、動画の投稿を心配するだけでは説明のつかない、深い怯えが凝り固まっていた。
(やっぱり、みとも見たんだ……)
そう確信した瞬間、心臓が跳ねた。
でも、何を?
私と同じように、みんなが倒れている光景を見たのだろうか。
それとも——。
私が、その惨劇の中心に立っているところまで。
(っ……)
背筋に氷水を流し込まれたような寒気が走る。
もし、みとが私を疑っているとしたら。あの一瞬の光景を、ただの幻覚ではないと考えていたら。
私は何を説明すればいいのだろう。
『ねえ、みと。昨日、何を見たの?』
そう尋ねてしまいたかった。
彼女の手を取って、同じものを見たのか確かめたかった。
けれど、その一言を口にする勇気はなかった。
もし、みとが私と違うものを見ていたら。
もし、私の見た光景が、私だけに向けられた呪いだったら。
「ねえ、しぐれ。聞いてる?」
不意に、目の前で手が振られた。
はっと顔を上げると、まつりが不満そうに頬を膨らませていた。
「もう、上の空じゃん! 今度みんなでパンケーキ食べに行こうって話してたの。しぐれは賛成? 反対?」
「え……あ、うん。いいと思う。おいしそうだね」
慌てて笑顔を作り、答えた。
「やった! じゃあ決まりね!」
まつりは嬉しそうに声を上げ、ゆめとういも小さくほっとした表情を見せた。
話題はいつの間にか、どこのお店がおいしいかという、他愛のない放課後の会話に変わっていた。
いつも通りの会話。いつも通りの笑い声。
その輪の中にいれば、昨日のことなどなかったことにできる気がした。
(よかった……みんな、いつも通りだ)
そう自分に言い聞かせようとした、その時だった。
視界の端で、みとがゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
彼女の瞳は、まっすぐ私を捉えていた。
いつものような、頼もしく穏やかな眼差しではない。
私の奥底を暴き立てるような、重く、冷たい視線。
私は息を呑んだ。
みとは何も言わなかった。ただ、じっと私を見つめている。
その目に浮かんでいるのは、恐怖なのか。疑念なのか。
わからない。
わからないからこそ、心臓が潰されるほど怖かった。
私は耐えきれず、そっと目を逸らした。
その瞬間、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
キーン、コーン、カーン、コーン——。
耳慣れた金属音が、今日はやけに冷たく、重く教室に響き渡る。
まるで、私たちが必死に繋ぎ止めていた日常の皮膜が、完全に破れ去ったことを告げるかのように。
私は空になりかけたお弁当箱へ視線を落とした。
みとの視線は、もう感じられない。
けれど、胸の奥に撃ち込まれた冷たい楔だけは、いつまでも消えてはくれなかった。
『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』をお読みいただきありがとうございます!
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