File.11 -side:しぐれ-『隠されたメモと、冷たい手の感触』
外は不気味なほど風のない、重苦しい静まり返った夜だった。
空には星一つ見えず、波須町の街並み全体が、巨大な墓場のような圧倒的な闇に呑み込まれている。
図書室から持ち出した郷土史や古新聞の縮刷版を広げ、私たちはみとの部屋で調査を続けていた。今夜は二人で同じ部屋に泊まり、片時も離れずに過ごすと決めていたのだ。窓の外では、行き場のない不気味な夜風がガラス戸をヒュウヒュウと叩いていた。
「……おかしい」
深夜2時を過ぎた頃、みとは積み上げられた資料の束を乱暴に押し除け、両頭を抱え込んだ。
「あの廃屋の住所を何十年遡っても、何の事件も事故も起きていない。過去のニュースにも、事故物件の情報にも、怪我人や死者が出た記録なんて……最初からどこにも存在しないんだ」
「えっ……? でも、あんなに不気味な廃屋なのに……」
「何もないんだよ! いくら探しても、理由なんてどこにも転がっていない……!」
血走ったみとの瞳には、血の気が完全に引いていた。
真相を掴み、解決の糸口が見つかると信じていた私たちは、その手掛かりのなさに、底なしの暗闇へと突き落とされるような絶望感を味わった。
何かが化けて出ているわけでもない。怨念の理由も、呪いの正体も分からない。
ただ、あの廃屋に足を踏み入れてから一人、また一人と仲間が消されていくという、理不尽で不条理な恐怖だけがそこにあった。
「とにかく、目に見える現実だけを信じるんだ。こんな変な幻覚や恐怖に呑まれたら……それこそあいつの思うツボだ。絶対に、絶対に負けない……!」
そう言い張るみとの額には、冷が汗が大量に滲み出ていた。
しかし、その必死な言葉とは裏腹に、みとの視線は私の顔ではなく、私のすぐ後ろの暗がりを、怯えた小動物のようにじっと見つめていた。
「……みと? どうしたの……?」
「……なんでもない。ちょっと疲れただけだ」
みとは引きつった笑いを作ろうとしたが、瞳は恐怖で泳いでいた。
実は、郷土史を調べている最中から、みとの視界は狂い始めていたのだ。
部屋の隅、タンスの陰、窓の外の暗闇の中に——あの細長く不気味な黒い女が立ち、じっとこちらを見つめながら音もなく微笑んでいるのが見えてしまっていた。
(違う……これは脳の錯覚だ……! 極限まで追い詰められているから見えているだけだ……!)
「私には見えている」なんて口にすれば、自分が完全に狂ったと認めることになる。みんなを引っ張る立場として、しぐれに弱音を吐くわけにはいかない。
みとは恐怖と妙なプライドから、自分に見えている幻影を必死に隠し通そうとしていたのだ。
「……しぐれ、ちょっと喉が渇いた。下に飲み物を取りに行ってくる」
「あ、私も行くよ! 一人にならないようにって——」
「いいんだ! すぐそこだから、ついてこなくていい!」
みとは思わず声を荒らげた。その刺々しく切実な拒絶に、私は思わず足をとめてしまった。
「……ごめん。ちょっと冷たい風に当たりたいだけだ。1分ですぐに戻るから」
みとは私の返事も待たずに部屋を出て、暗い階段を下りていった。
◇
一人残された部屋で、私は机の上に置かれたみとのノートを見つめていた。
ふと、ボールペンの横に、小さなメモ用紙が裏返しで落ちているのに気づく。嫌な予感がよぎり、そっと紙を手に取り、裏返した。
そこには、みとの乱れた筆跡で、震える文字がびっしりと書き殴られていた。
『見えている』
『私にも見えている』
『怖い』
『しぐれには言えなかった。ごめん』
「……嘘……でしょ……?」
血の気が一気に引く。心臓が凍りついたように動かなくなった。
みとは、最初から見えていたのだ。
私と同じように、いや、それ以上の恐怖を一人で抱え込み、「言えない」と必死に隠しながら隣にいてくれたのだ。
「みと……っ!!」
メモを握りしめ、パニックになりながら部屋を飛び出した。
薄暗い1階の廊下。台所の蛍光灯が、不気味な青白い光を投げかけている。
駆け寄った私の目に飛び込んできたのは、息を呑む光景だった。
静かに立ち尽くすみとの背後。
そのうごめく、底なしの暗闇。
「みと! なんで言わなかったの!? 見えてたんでしょ!?」
叫びながら近づこうとした、その瞬間。
静まり返った台所で、みとのスマホが、卓上で低く残酷に震えた。
受信を知らせる冷たい通知音。
みとはゆっくりと、操り人形のようにそのスマホを拾い上げ、震える手で画面を見つめた。
「……あはは」
乾いた自嘲の笑い声が漏れる。
「……送られてきたよ、しぐれ」
みとがゆっくりと振り返った。
その画面に映し出されていたのは——今まさに、台所にぽつんと立っているみとの背後と、その首筋に向かって、背後の闇からあの黒く細長い手が、逃れられない冷たさでゆっくりと伸ばされている写真だった。
「ダメ……! みと、そこから逃げて!!」
私が絶叫して駆け出そうとした瞬間、みとの背後の暗闇から漆黒の腕がにゅりと伸びた。
その異様に長い指先が、みとの肩にそっと、あまりにも優しく触れていた。
「……遅かったんだ」
みとは大粒の涙をボロボロとこぼし、すべてを諦めたような声で呟いた。
「言わなきゃって……ずっとと思ってたんだ……。でも……怖くて言えなくて……隠そうとしてる間に……もう私……あいつに触れられてしまっていたんだ……」
「みと……っ! やだ……そんなのやめて!!」
必死に手を伸ばそうと一歩を踏み出すと、みとは私の目をまっすぐに見つめ、最後の力を振り絞るように叫んだ。
「来ちゃダメだ、しぐれ!! ……私みたいになるな!!」
「みと……嫌だ、行かないで……!」
「私は……強がって……怖くて隠して……最低な奴だった……! でも……お前だけは……お前だけは絶対に生きてくれ!! 理由なんか分からなくてもいい……私たちがこの世界に生きていた事を忘れないで欲しい……! お願いだ、生き残ってくれ、しぐれーーっ!」
直後、バサリと、みとのスマホが冷たい床に落ちた。
「みとーーーーーっ!!」
台所の青白い明かりの下、みとの姿はまるで霧のように掻き消え、あとには床に転がるスマホだけが虚しく残されていた。
その場に膝をつき、泣き叫びながら這うようにしてスマホを拾い上げる。
震える指で画面を開いた。
グループチャットに送られてきたはずの写真も、メッセージも——まるで最初から彼女が存在していなかったかのように、綺麗さっぱり、跡形もなく消え去っていた。
外では冷たい雨が激しく窓ガラスを叩きつけていた。
友人の温もりも、名前も、記録すらもすべてを奪われた世界で、私はたった一人、凍てつく闇の中に立ち尽くすことしかできなかった——。
『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』をお読みいただきありがとうございます!
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『群青の嘘』とは一味違う、サクッと読めるホラーとなっておりますので、こちらもあわせてお楽しみいただけたら幸いです!
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