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西郷隆盛が江戸総攻撃を強行したので、勝は江戸を焼き払い、最後の将軍とイギリスへ亡命します  作者: ローナ


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品川沖の相克

アイロンジック号の船尾が波を蹴り、次第に速度を上げていく。

黒い鉄の甲板の上で、徳川慶喜は彫像のように立ち尽くしていた。外套の裾が外洋の夜風に激しくなびく。その視線の先では、百万の民の命、三百年続いた徳川の栄華、そして己のすべてを呑み込んだ江戸の街が、赤黒い巨大な炎の塊となって夜空を焦がし続けていた。


「上様」

背後から、低く掠れた声がした。勝海舟である。

彼は品川の浜で民衆の避難を見届けた後、最後のボートでこの艦へと滑り込んできていた。その着物は火の粉で穴だらけになり、全身から焦げ臭い匂いを放っている。


慶喜は振り返らなかった。ただ、遠ざかる炎を見つめたまま、絞り出すように言った。

「海舟。私は、この炎を一生忘れることはないだろう。……私が大坂城から敵前逃亡し、寛永寺に籠り、最期は異国の船で国を捨てる。歴史は私を、徳川家を滅ぼした稀代の臆病者と記すに違いない」


勝は慶喜の横に並び、腕を組んで同じ炎を見つめた。その目は血走っていたが、驚くほど冷徹だった。

「臆病者で結構じゃございやせんか、上様。死んで『烈士』だの『英傑』だのともてはやされるのは、あっち側にいる西郷や薩長の田舎侍どもの仕事です。生き残らなきゃあ、弁明すらできねえ。いいですか、上様。あの炎は、江戸を滅ぼす火じゃねえ。西郷の描いた『御一新』という奇麗な絵図を、根底から焼き尽くすための火です」


勝は、品川の海岸線でなおも火を噴く大英帝国の主砲を顎でしゃくった。

「ご覧くだせえ。イギリスが動いた。これで京の朝廷も、薩長も、ただの国内の喧嘩じゃ済まなくなりやした。異国を巻き込んだ、底なしの泥沼だ。奴らは今頃、腰を抜かして震えていやがりますよ」


その時、ドォォォンという、これまでとは質の異なる重低音が響き、アイロンジック号の船体が微かに揺れた。

主砲の砲撃ではない。艦の左舷、数海里の闇の向こうから、一筋の曳光弾が夜空を切り裂いたのだ。


「敵襲か!?」

甲板のイギリス人水兵たちが一斉に蜂の巣をつついたような騒ぎになり、銃の遊底を引く金属音が緊迫感を跳ね上げる。


「いや、違う!」

勝の横から飛び出してきた山岡鉄舟が、目を剥いて闇を睨みつけた。

「あれは……幕府海軍のフラッグシップ(旗艦)、開陽丸かいようまるにございます! 榎本(武揚)殿の艦隊だ!」


闇の向こうから現れたのは、三本マストの巨大な木造蒸気フリゲート艦、開陽丸だった。そのマストには、誇らしげに徳川宗家の「三つ葉葵」の軍旗が翻っている。榎本武揚率いる幕府海軍の主力艦隊が、品川沖の異常事態を察知し、将軍の乗るイギリス艦を護衛するために、新政府軍の陣地へ向けて艦砲射撃を開始したのだ。


開陽丸の砲撃は、海岸線で立ち往生していた新政府軍の残党を容赦なく叩き潰していく。

「上様! 榎本海軍総裁より発光信号にございます!」

イギリス人通訳のサトウが、息を切らせて艦橋から駆け下りてきた。

「『我が艦隊は、これよりイギリス艦を護衛しつつ、回航して北方・蝦夷地(北海道)へ向かう。上様、どうか異国の地にてご健勝であれ。徳川の命脈は、我らが北の大地にて死守せん』……とのことです!」


慶喜の胸に、激しい衝撃が走った。

誰も、徳川を諦めてはいなかった。江戸を焼いた民も、海を駆ける武士たちも、この「生き恥」を晒して海を渡る将軍のために、それぞれの戦場で命を賭して戦っている。


「……榎本に伝えよ」

慶喜は三度笠を握りしめ、前を見据えた。その切れ長の目に、かつて「天下の英傑」と恐れられた時代の鋭い光が戻っていた。

「『必ずや、世界の都で徳川の正義を成す。それまで、北の地を断固として守り抜け』とな」


アイロンジック号と開陽丸。和洋二つの巨艦は、燃え盛る江戸の街を背に、黒煙を上げて外洋へと抜錨した。


一方、品川の対岸、房総の海岸。

命からがら避難船から這い上がった百万の江戸町民たちは、砂浜に座り込み、ただただ燃える故郷の空を眺めていた。


「終わっちまった……。俺たちの家も、店も、全部消えちまった……」

若い職人が、砂を掴んで男泣きに暮れている。

絶望が浜辺を支配しようとしたその時、お蓮が立ち上がった。濡れた髪を乱暴に結び直し、着物の裾をきつく縛る。


「何をしけた面してんだい、江戸っ子が!」

お蓮の声が、静まり返る砂浜に響き渡った。

「家が燃えたくらいで、命まで安売りするんじゃないよ! あたしたちは生きてる。半次も、を組の連中も、みんな生きてここにいる。だったらさぁ……!」


お蓮は、遠ざかるイギリス軍艦の影と、その横を並走する開陽丸の姿を指差した。

「将軍様が海の向こうで戦うってんなら、あたしたちはこの地べたで戦うんだよ。新政府だか薩長だか知らないがね、芋侍どもに、江戸の漢の、女の意地ってやつをたっぷりと見せてやろうじゃないの! 灰からだって、いくらでもでっけえ街を作ってやるさ!」


「そうだ……!」

半次が、傷だらけの拳を天に突き上げた。

「俺たちの江戸は、死んじゃいねえ! 人が生きてりゃ、そこが江戸だ!」


「うおおおおお!」

百万の難民たちの間から、地鳴りのような咆哮が沸き起こった。お上の庇護を失い、家を失った民衆が、ただ「生き抜く」という強烈なエゴイズムと生命力だけで、歴史の底から立ち上がった瞬間だった。


徳川慶喜を乗せたアイロンジック号は、荒れ狂う太平洋の波濤を越え、一路、霧の都・ロンドンへと向かう。

日ノ本の歴史は、もう二度と、元の軌道には戻らない。


(第10話へ続く)

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