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西郷隆盛が江戸総攻撃を強行したので、勝は江戸を焼き払い、最後の将軍とイギリスへ亡命します  作者: ローナ


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霧の海のプロローグ

太平洋の怒涛が、アイロンジック号の黒い鉄腹を激しく叩く。

江戸湾を離れて数時間、ふねはすでに日本近海を抜け、漆黒の外洋へと突き進んでいた。背後にあった燃える江戸の紅蓮の光も、今や水平線の彼方へと沈み、ただ荒れ狂う波の音と、蒸気機関が吐き出す重い駆動音だけが夜の海に響いている。


甲板の突風に耐えかねた山岡鉄舟が、徳川慶喜の肩にそっと厚手の毛布をかけた。

「上様、夜風が冷うございます。そろそろ艦内の客室へお入りくだせえ。パークス公使が、極上のワインと暖炉を用意して待っております」


慶喜は毛布をまといながらも、視線は頑なに闇の海から外さなかった。

「鉄舟。開陽丸の姿は、もう見えぬな」


「はっ。榎本殿の艦隊は、我らを見送った後、針路を北へと変えやした。今頃は犬吠埼を越え、蝦夷地へと向かっているはず。……奴らもまた、命を賭して徳川の盾となる覚悟にございます」


慶喜は小さく頷いた。その表情には、品川の浜で見せた悲痛な揺らぎはもうなかった。代わりに宿っていたのは、冷徹なまでの静けさである。

「西郷は今頃、灰になった江戸の真ん中で立ち尽くしているだろう。彼は私を殺し、新政府の絶対的な権威を天下に知らしめるつもりだった。だが、私は生き延びた。イギリスという、世界最大の帝国の庇護を得てな」


慶喜は自嘲気味に、しかし確かな力強さを込めて言葉を続けた。

「私がロンドンにいる限り、京の朝廷も新政府も、私を『無きもの』としては扱えぬ。彼らが海外と条約を結ぼうとするたび、我が大英帝国はこう突きつけるのだ。『正統な日ノ本の元首は、我が国にいる徳川慶喜公である』と。……これが、私の残された戦いだ」


「上様……」

鉄舟は、その覚悟の重さに胸が熱くなるのを感じた。将軍としての栄華をすべて焼き尽くし、一人の亡命政治家として異国で生きる。それは死ぬことよりも遥かに険しい、泥水をすするような茨の道だった。


同じ頃、艦内のサロン。

勝海舟は、豪奢な革張りのソファに深く腰掛け、目の前に置かれたガラスのグラスを指先で弄んでいた。琥珀色の液体が、艦の揺れに合わせて小さく波打つ。


対面に座るハリー・パークスは、葉巻に火をつけ、満足げに煙をくゆらせていた。

「カツ、君の計略は見事だった。江戸を焼き、薩摩の足を止め、その隙にタイクーン(将軍)を我が艦へ乗せる。これほどスリリングな外交劇は、ヨーロッパでも滅多にお目にかかれない」


勝は、グラスの中身を一気に飲み干すと、不敵な笑みを浮かべた。

「へっ、公使。褒め言葉はありがたく頂戴しやすがね、そっちの計算通りに事が運んだだけでしょう。イギリスはこれで、新政府軍への絶対的な外交優位アドバンテージを手に入れた。西郷の野郎がいくら『御一新』だと吠えたところで、イギリスのへそを曲げにゃあ、一歩も前に進めねえんだから」


パークスは葉巻を灰皿に置き、身を乗り出した。

「だが、これで終わりではない。フランスのロッシュが黙っていないだろう。彼は燃え落ちた幕府の残骸から、何を拾い上げるつもりか……。カツ、君はこれからどうする? タイクーンとともにロンドンへ渡るかね?」


「まさか」

勝は立ち上がり、サロンの窓から外の闇を見据えた。

「俺の役目は、上様をあの地獄から引っ張り出すことまでだ。これから日ノ本は、薩長の新政府と、北へ向かった榎本の艦隊、そして房総に逃げた百万の民の執念が入り乱れる大乱世になる。俺は一度陸おかへ戻り、そのカオスの中で、誰も見たことのねえ『新しい仕組み』ってやつを仕込んでやらぁ」


勝の目は、すでにこの海の向こう、再び混迷へと突き進む祖国の未来を見据えていた。


明けて、慶応四年三月十六日。

房総の砂浜には、朝靄の中に無数の焚き火が揺らめいていた。


お蓮は、流木を集めて作った即席の炊き出し所で、大鍋の粥をかき混ぜていた。

「ほら、熱いうちに食べな! 腹が減っては、次の江戸は建てられやしないよ!」


彼女から粥の椀を受け取る町民たちの顔には、昨日の絶望の色は薄れ、どこか開き直ったような、江戸っ子特有の図太い活気が戻りつつあった。


「お蓮の姉さん!」

半次が、頭に新しい手拭いを巻き直して走ってきた。その手には、どこからか調達してきた大工道具ののこぎりのみが握られている。

「浅草と日本橋の大工や鳶の頭たちが集まりやした。みんな、いつでも動けるってよ。薩長の芋侍どもが火の後始末に追われてる間に、俺たちはこの房総の地で、新しい職人街の土台を作ってやります!」


お蓮は、眩しそうに昇る朝日を浴びながら、半次の顔を見てニッと笑った。

「いいねぇ、半次! お上が逃げようが、街が燃えようが、あたしたちの腕と意地までは焼き尽くせやしない。さあ、始めるよ! 芋侍どもの度肝を抜くような、新しい時代の幕開けさ!」


百万の民の声が、房総の海岸から青空へと響き渡る。

将軍を失い、首都を失った日本。しかし、その底辺に生きる民衆の生命力は、ここから歴史を全く新しい、誰の教科書にも載っていないパラレルワールドへと導いていく。


荒れ狂う太平洋を往くアイロンジック号の艦首は、霧の都・ロンドンを目指し、世界のうねりの中へと深く突き進んでいった。


(第1部・完 / 第2部『霧の都の亡命政府編』へ続く)

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