灰燼の残響
江戸が燃え落ちてから、三日の月日が流れた。
かつて百万の民が謳歌し、天下の台所と称された巨大都市は、今や見渡す限りの広大な黒い大地へと姿を変えていた。そこかしこから立ち上る不気味な白煙が、早春の冷たい風に吹かれて地を這っている。日本橋の袂も、浅草寺の門前も、すべては形を失い、炭化した柱が墓標のように突き出ているだけだった。
その灰の海の中心、辛うじて焼け残った江戸城の本丸へ、新政府軍の総大将たちが足を踏み入れた。
「……これが、勝の仕掛けた罠か」
大久保一蔵(利通)は、乗っていた馬の足元でパチパチと音を立てて燻る炭を、冷徹な目で見つめていた。衣服には容赦なく灰がまとわりつき、鼻を突く油と焦げた木の臭いが、彼の神経を逆なでさせていた。
背後からは、長州の木戸孝允(桂小五郎)が、信じられないものを見るような顔で歩み寄ってくる。
「一蔵、これは戦ではない。ただの狂気だ。我が軍の兵糧も、足場も、すべてこの煙の中に消えた。これでは、諸藩に対して『我らが天下の正統な新政府である』と示すどころか、ただ首都を焼き払った大悪党として、歴史に名を残すことになるぞ」
新政府軍は勝利した。徳川の本拠地を無血ならぬ「焦土」によって奪い取ったのだ。しかし、その勝利の味は、泥を噛むよりも苦かった。機能としての首都を失い、さらに「徳川慶喜」という討つべき首魁をイギリスに奪われた。新政府の権威は、発足と同時に完全に泥にまみれたのだ。
大久保は、本丸の奥で一人、大きな岩に腰掛けている西郷隆盛の元へ歩み寄った。
西郷は、じっと己の巨大な手のひらを見つめていた。その手は、焼け跡を検分した際についた煤で真っ黒に汚れている。
「西郷さぁ」
大久保の声は、怒りを通り越して冷徹な刃のようだった。
「京の岩倉(具視)様から、矢の催促じゃ。『慶喜の首はどこか。イギリス艦をなぜ沈めなかったのか』とな。朝廷はパニックになっちょる。英国が徳川を担いで、我らに宣戦布告してくるのではないかとな」
西郷はゆっくりと顔を上げた。その大きな瞳は、深く濁っていた。
「一蔵さぁ。おいどんは、あの夜、品川の海で火を噴いた英国の主砲を見た。……あれは、人間の撃つ大砲じゃなか。神か仏か、あるいは異国の悪鬼が放つ雷じゃ。我が軍の侍どもがどれだけ刀を振るおうが、あの鉄の船には一寸も届かん。……おいどんが江戸の総攻撃を叫んだせいで、日ノ本は、本物の化け物を叩き起こしちまった」
西郷は立ち上がり、黒く汚れた手を強く握りしめた。
「慶喜公は、生きて海を渡られた。あの御仁は、ただ逃げた国賊じゃなか。イギリスという巨大な後ろ盾を得て、世界の真ん中からおいどんたちの『御一新』を否定しにくる。……戦は、終わっちゃいらん。ここからが、本当の地獄じゃ」
大久保は何も言わず、ただ西郷の視線の先、遥か東の水平線を見つめた。
新政府という危うい器は、誕生した瞬間に、世界という底なしの荒波へと放り出されたのだ。
一方、房総の海岸。
新政府軍が灰の中で途方に暮れている頃、お蓮と半次たち江戸の庶民は、すでに「生きるための戦い」を爆発させていた。
「おい、そこは大工の棟梁たちに任せな! 雑魚は流木を運ぶんだよ!」
お蓮の怒号が、臨時のバラック街に響き渡る。
房総の砂浜には、勝海舟が残した洋銀を元手に買い叩いた木材や、近くの山から切り出された竹が次々と運び込まれていた。
武士たちが大義名分や外国の脅威に怯えている間、町民たちは「明日の飯」と「寝床」を確保するために、凄まじいスピードで動き出していた。
半次は、額に手拭いをきつく巻き、丸太に鋸を入れながら、隣にいる若衆に笑いかけた。
「おい、薩長の芋侍どもの面拝みが見てえな。江戸を乗っ取ったと思ったら、中は空っぽの灰だらけ。肝心の町民はみんなこっちに逃げて、新しい街を作り始めてるんだからな!」
「まったくだ、半次の兄貴! あいつら、米一粒、釘一本まともに作れねえお武家様だ。空っぽの江戸城で、今頃ひもじい思いをしてるに違いねえ!」
笑い声が、バラックのあちこちから沸き起こる。
お上から与えられた江戸は燃えた。ならば、自分たちの手で、お上の手の届かない「新しい江戸」を作ればいい。その開き直りとも言える不屈の生命力が、房総の海岸一帯を、驚異的な速度で「巨大な建設現場」へと変貌させていた。
お蓮は、粥の鍋を見つめながら、遠い海の向こうを思った。
「将軍様……。あんたが霧の都だかで泥水をすすってるなら、あたしたちもここで泥をすすって、もっとでっかい国を作って見せるよ。だから、負けるんじゃないよ」
数ヶ月後。
大西洋の激しい波濤を越え、アイロンジック号の艦首が、ついに世界最大の帝国の首都へと差し掛かろうとしていた。
冷たい、濃い霧が海面を覆っている。
甲板に立った徳川慶喜は、外套の襟を立て、前方の霧を睨みつけた。
霧の向こうから、徐々にその姿を現したのは、巨大な石造りの建築物と、天を突く時計台——ビッグベンであった。蒸気の煙と、石炭の煙が混ざり合う、世界経済の心臓部。
ロンドン。
「上様、到着いたしました」
山岡鉄舟が静かに告げる。
洋装に身を包んだパークス公使が、慶喜の横に並び、不敵な笑みを浮かべて言った。
「ようこそ、大英帝国の首都へ、徳川慶喜閣下。これより、貴方の『もう一つの戦い』が始まります」
征夷大将軍という地位を捨て、江戸を焼き払い、海を渡った最後の男。
徳川慶喜の、ロンドン亡命政府編が、今ここに幕を開ける。
(第12話へ続く)




