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西郷隆盛が江戸総攻撃を強行したので、勝は江戸を焼き払い、最後の将軍とイギリスへ亡命します  作者: ローナ


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12/20

霧の都の亡命政府

テムズ川を満たす冷たい泥水と、石炭の煤煙が混ざり合った濃い霧の向こうから、世界帝国の心臓部がその全貌を現した。


天を突くゴシック様式の時計台、ビッグベン。その巨大な文字盤が、ロンドンのどんよりとした午後の時間を刻んでいる。河畔には無数の蒸気船が行き交い、黒い煙を吐き出しながら近代文明の圧倒的な動力を誇示していた。


アイロンジック号が、タワーブリッジ近くの軍用ドックに静かに横付けされる。

甲板に立った徳川慶喜は、日ノ本のそれとは全く異なる、重厚で冷徹な灰色の街並みをじっと見つめていた。


「これが、世界を支配する大英帝国の首都ですか……」


背後に控える山岡鉄舟が、圧倒されるように呟いた。

慶喜は、新調された黒いフロックコートの襟を正し、静かに目を細めた。

「凄まじいな、鉄舟。西郷や大久保が目指そうとしている『近代化』の完成形がこれだ。奴らはこの巨獣の背中に追いつこうと躍起になっている。だが、その巨獣の手綱たづなを、今や私が握ることになるとはな」


タラップが下ろされると、ドックにはすでに数台の豪奢な黒塗りの馬車と、シルクハットを被ったイギリス外務省の役人たちが整列していた。


「ようこそ、ロンドンへ、徳川慶喜閣下」

先に下りていたハリー・パークスが、帽子を胸に当てて一礼する。

「これより貴方を、我が国の女王陛下が待つバッキンガム宮殿、そして外務大臣の元へとご案内いたします。貴方は今日から、ただの亡命者ではない。我が英国が公認する、日ノ本の『正統なる元首』です」


慶喜は馬車へと一歩を踏み出した。

その背中は、将軍職を辞した時の落胆を完全に脱ぎ捨て、世界を舞台にした新たなチェス盤に向かう、冷徹な政治家のそれであった。


同じ頃、フランス・パリ。

ナポレオン3世が君臨するチュイルリー宮殿の一室に、一人の男が怒号とともに飛び込んできた。


駐日フランス公使、レオン・ロッシュである。


「陛下! 英国に先を越されました!」

ロッシュは、豪華な絨毯の上に帽子を投げ捨て、皇帝の前に跪いた。

「パークスめ、勝海舟と結託して江戸を火の海にし、徳川慶喜をロンドンへと連れ去りました! 英国は慶喜を担ぎ、日ノ本における絶対的な宗主権を握る構えです。我がフランスが横須賀製鉄所や軍事顧問団に投資してきた巨額の資産が、すべて水泡に帰そうとしております!」


豪奢な椅子に座り、髭をいじりながら書類を見ていたナポレオン3世は、忌々しそうに目を細めた。

「パルマストン(英国首相)のやりそうなことだ。あの泥棒猫め、極東の黄金の島を丸ごと懐に入れる気か」


「陛下、このままでは新政府(薩長)も英国の軍門に降ります。フランスが巻き返す手立ては、ただ一つ」

ロッシュの目が、怪しく光った。

「榎本武揚率いる幕府海軍の残党、そして北へ逃れた旧幕臣たちです。彼らは蝦夷地(北海道)に独自の政権を立てようとしております。我がフランスの軍事顧問団シャノワールらを彼らに合流させ、蝦夷地に『フランス派の独立共和国』を築くのです。英国の慶喜、フランスの榎本。これで日ノ本を南北に分断し、英国の独占を阻止いたします!」


ナポレオン3世は、不敵な笑みを漏らした。

「面白い。極東の寒冷地に、我がフランスの不凍港を築くか。ロッシュ、すぐに動け。資金と武器は、裏からいくらでも流してやる」


燃え盛る江戸の灰の中から飛び散った火の粉は、ユーラシア大陸を越え、ロンドンとパリというヨーロッパの二大巨頭を巻き込む「世界大戦」の引き金へと形を変えつつあった。


一方、房総の海岸。

日本の歴史のもう一つの「バグ」が、急速に実体化していた。


「おい! 柱の水平が狂ってるぞ! 叩き直せ!」

半次の鋭い声が、連日連夜、建設の槌音が響く砂浜に轟く。


お蓮が買い集めた資材と、勝海舟が残したメキシコドルの力によって、房総の海岸線には、驚くべき規模の「仮設都市」が姿を現していた。ただのバラックではない。日本橋の商人たちの知恵と、町火消の統率力によって、碁盤の目のように区画整理された、極めて合理的な「新・江戸街」の土台である。


「お蓮の姉さん! 横浜の外国人居留地から、イギリスの商人が来ましたぜ!」

若衆が息を切らせて連れてきたのは、怪しげな日本語を話す英国人貿易商だった。


「お蓮さん、だね? 勝(海舟)から話は聞いている。灰になった江戸にはもう売るものがないが、君たちがここに集めた生糸や職人の工芸品なら、我が社がすべて洋銀で買い取ろう。新政府の許可? そんなものは関係ない。我が国は慶喜公を支持しているのだからね」


お蓮は、懐の洋銀の山をジャラリと鳴らし、不敵に微笑んだ。

「へえ、ありがたいねぇ。薩長の芋侍どもが江戸城の焼け跡で『おねいもねい(何もない)』と泣きついてる間に、あたしたちはこの房総の海から、世界と直接商売をさせてもらうよ」


お蓮の横で、半次が海の向こうを睨みつける。

「お上もいねえ、お武家様もいねえ。だけどよ、俺たちの腕と金がありゃあ、ここが新しい日ノ本の中心だ」


新政府が統治能力を失った旧首都の脇で、民衆の生命力と、英国の資本が結びついた「巨大な自由貿易都市」が、急速に産声を上げようとしていた。


ロンドン、ダウニング街10番地(首相官邸)。


暖炉の火が赤々と燃える部屋で、慶喜は英国首相、そして外務大臣と対峙していた。

テーブルの上に広げられたのは、日ノ本の白地図である。


「慶喜閣下」首相が冷徹な目で慶喜を見つめる。「我が国は貴方を全面支援する。だが、対価が必要だ。新政府を外交的に干上がらせる代わりに、貴方が日本に戻られた暁には、大坂、横浜、そして五つの港の永久租借、および関税自主権の完全な譲渡を要求する」


それは、日ノ本を英国の「植民地」へと引きずり込む、悪魔の契約書だった。


鉄舟が息を呑み、刀の柄に手をかけようとする。

しかし、徳川慶喜は、全く動じなかった。彼は紅茶のカップを静かに置き、英国の首脳陣を真っ向から見据えて言った。


「よかろう。その条件、すべて呑み込もうではないか」


(第13話へ続く)

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