ダウニング街の博打
「……上様! 本気でございますか!」
官邸の重い扉が閉まった直後、控室に響いたのは山岡鉄舟の裂けんばかりの低声だった。
英国首相が提示した条件——五港の永久租借、そして関税自主権の完全な譲渡。それは日ノ本を大英帝国の植民地へと突き落とす、あまりにも不平等で悪魔的な内容だったからだ。
鉄舟は、黒いフロックコートに身を包んだ徳川慶喜の前に膝をつき、絨毯に拳をめり込ませた。
「あの条件を呑めば、たとえ新政府を倒して徳川が復権したとしても、日ノ本は異国の操り人形、名ばかりの国に成り果ててしまいます! 朝廷へも、江戸を焼いた民へも、申し訳が立ちませぬ!」
慶喜は、英国外務省から提供された豪奢な椅子に深く腰掛け、窓の外を見つめていた。ロンドンの街を覆う濃い霧が、ガス灯の光を鈍く乱反射させている。
「鉄舟、落ち着け」
慶喜の声は、驚くほど冷静で、かつてないほどに冴え渡っていた。
「私が本気で大英帝国に国を売ると思うか」
「ならば、なぜ……」
「パークスや英国の首脳陣は、私を『都合のいい神輿』だと舐めているのだ」
慶喜は懐から、先ほど手渡された契約書の写しを取り出し、暖炉の炎にかざした。
「彼らは私を使い、薩長の新政府を外交的に干上がらせ、日本の利権を独占するつもりだ。だがな、鉄舟。外交とは化かし合いだ。条件を呑むと言わねば、彼らは今すぐ私をただの『用済みの亡命者』としてロンドン塔にでも幽閉するだろう」
慶喜の目が、怪しく光った。
「私は条件を受け入れたフリをする。そして、イギリスの金と武器、そして外交権という『牙』を徹底的に利用させてもらう。奴らが新政府を追い詰め、日本の利権を掴み取ろうとしたその瞬間、私はもう一つのカードを切る」
「もう一つのカード、にございますか」
「フランスだ。ロッシュが、北の榎本(武揚)と結んで動いていることは、パークスの密偵の動きで察しがついている。イギリスが私を縛ろうとすれば、私はフランスの榎本と手を結び、二大巨頭を日ノ本で正面衝突させる。列強同士が互いを牽制し合い、身動きが取れなくなったその隙に、私は徳川の、いや、日ノ本の真の独立を勝ち取る」
慶喜は契約書を机に叩きつけた。
「西郷に首を獲られて死ぬよりは、世界を相手に大博打を打つ方が、最後の将軍の生き様として相応しいとは思わぬか」
鉄舟は息を呑み、慶喜の顔を見上げた。そこにいたのは、かつて水戸烈公の血を引き、徳川の頂点に立った稀代の政治家・徳川慶喜の、真の恐るべき姿だった。
その頃、極東の日本・房総の海岸。
「おい! イギリスの船がまた入ってきたぞ!」
半次の叫び声とともに、建設中の新・江戸街の港に、巨大な英国の商船が接岸した。
船のハッチが開くと、中から現れたのは、見たこともない最新式の歩兵銃——スナイドル銃の詰まった木箱の山だった。
「お蓮さん、ロンドンからの直通便だ」
横浜からやってきた英国人貿易商が、不敵に笑いながら木箱を叩いた。
「タイクーン(慶喜)が我が国の首相と握手した。これより、我が社は君たち『房総の徳川民』を、正統な貿易相手として全面的にサポートする。新政府が文句を言おうが、我が国の軍艦がこの港を守るから安心するといい」
お蓮は、ピカピカに磨かれた銃を一挺手に取り、その冷たい鉄の感触を確かめた。
「へえ……これが世界の一等国の道具かい」
お蓮は銃を半次に投げ渡すと、集まった町火消や職人、そして旧幕臣の残党たちを振り返った。
「いいかい、みんな! 武士の時代は江戸の炎と一緒に消え失せた。だけどね、あたしたちがここに作った新しい街は、イギリスの金と銃を手に入れた。薩長の芋侍どもが、空っぽの江戸城で飢え死にしそうになりながらこっちを睨んでるが、いつでも来やがれってんだ! 街を焼かれた恨み、何倍にしてでも返してやるさ!」
「うおおおおお!」
半次を筆頭に、何万もの民衆の咆哮が房総の海に響き渡る。
江戸焦土作戦の灰の中から生まれた、お上のいない「巨大な自由貿易都市」。それは、新政府の統治を根底から揺るがす、もう一つの怪物へと成長しつつあった。
ロンドンで悪魔と踊る将軍。
房総で世界と繋がる民衆。
そして、北の大地でフランスと結ぶ幕府海軍。
歪みきった明治維新の歯車が、凄まじい轟音を立てて回り続ける。
(第14話へ続く)




