三極の盤面
慶応四年、初夏。
日ノ本の形は、誰もが知る歴史とは完全にかけ離れた、不気味なモザイク画へと変貌を遂げていた。
東京ならぬ「灰燼の都」と化した江戸城。
その冷たい焼け跡に拠点を置く新政府軍の本陣は、かつてない財政危機と、機能不全の泥沼に喘いでいた。百万の人口がそっくりそのまま東の房総へと流出したため、新政府は徴税する対象も、供給される物資も失っていたのだ。
「……また、房総への密航者が出たか」
大久保一蔵は、激しい頭痛を堪えるように額を押さえ、机の上の報告書を睨みつけていた。
新政府がどれだけ通行制限の関所を設けようとも、飢えに苦しむ下級武士や民衆は、夜闇に乗じて多摩川を越え、海を渡り、お蓮と半次が築いた「新・江戸街」へと逃げ込み続けている。
「一蔵さぁ、これを見てくいやんせ」
西郷隆盛が、沈痛な面持ちで一通の書状を差し出してきた。
「京の朝廷に、イギリスのパークスから正式な抗議文が届きもした。『ロンドンの徳川慶喜公こそが、我が英国の認める日本の正統なる元首である。新政府が房総の貿易を妨害するならば、大英帝国に対する敵対行為とみなす』……とな」
「ぬかせ!」
大久保は机を激しく叩きつけた。
「パークスの狐め、慶喜を文字通りの『生かさず殺さずの神輿』にして、我が国の外交権を丸ごと乗っ取る気だ。……だが、我らには長州の兵がいる。力ずくでも房総を叩き潰さねば、新政府の威信は完全に地に落ちるぞ!」
「じゃっどん、長州の連中もそれどころじゃなか」
西郷は首を振った。
「北の蝦夷地(北海道)で、榎本(武揚)の艦隊が、フランスの軍事顧問団と結んで『蝦夷共和国』の樹立を宣言しもした。フランス公使のロッシュが、裏から最新式の野砲と軍資金を湯水のように注ぎ込んじょる。……西からはイギリスの影、北からはフランスの牙。おいどんたちは、完全に二大国のはさみうちに遭うちょる」
大久保は、悔しさに唇から血を滲ませながら、窓の外の灰色の空を見つめた。
勝海舟が江戸を焼いた。あの瞬間、日ノ本という国は、欧州列強の貪欲な植民地支配のチェス盤へと、強制的に引きずり込まれたのだ。
同じ頃、フランス・パリを経由し、再びロンドンへと戻る外交通路の影。
バッキンガム宮殿近くの秘密の邸宅で、徳川慶喜は一人の男と対峙していた。
男の名は、ジュール・ブリュネ。フランス陸軍大尉であり、北の榎本艦隊に合流したフランス軍事顧問団のリーダー格であった。彼は主君であるナポレオン3世の密命を帯び、極秘裏にロンドンへと渡り、亡命中の慶喜に接触してきたのだ。
「徳川慶喜閣下」
ブリュネは、フランス軍人らしい洗練された仕草で一礼した。
「我がフランス帝国は、貴方が英国の『人形』になることを望んでいません。イギリス首相が貴方に突きつけた不平等な条件は、我が国の耳にも入っています。我がフランスは、北の榎本総裁の軍事力をもって、貴方のロンドンからの『脱出』と、日ノ本への帰還を全面的に支援する用意があります」
慶喜は、手にした紅茶の香りを静かに楽しみながら、ブリュネの言葉を吟味していた。
横に控える山岡鉄舟が、低く鋭い声で尋ねる。
「フランスの援助はありがたいが、その代償は何だ。榎本殿の蝦夷共和国を、独立国として認めろとでも言う気か」
「ノン(否)」
ブリュネは不敵に微笑んだ。
「我が国が求めるのは、イギリスの一国独占を阻むことです。貴方が日本に戻り、英国の契約を破棄するならば、我が国は横須賀製鉄所の利権と、東北諸藩における鉱山開発権の分配だけで満足いたしましょう。イギリスに国を丸ごと売るよりは、遥かに賢明な選択のはずだ」
慶喜はゆっくりとカップを置いた。その切れ長の目は、すでに霧の都の向こう、極東の三つ巴の戦場を完全に見通していた。
「ブリュネ大尉。榎本に、私の言葉を伝えよ」
慶喜の声は、冷徹な響きを帯びていた。
「『まだ動くな。イギリスが薩長を完全に締め上げ、新政府が外交的に死に体になるその瞬間まで、北の大地で力を蓄えよ』とな」
「……承知いたしました」
ブリュネは慶喜の底知れぬ政治力に冷や汗を覚えながら、深く頭を下げて部屋を去っていった。
慶喜は暖炉の炎を見つめ、ポツリと呟いた。
「イギリスの牙、フランスの盾……。勝海舟よ、お前が仕掛けたこの大博打、私は一寸の狂いもなく踊りきってみせるぞ」
世界最大の帝国を舞台に、最後の将軍の「裏の逆襲」が、静かに、しかし確実に牙を研ぎ始めていた。
(第15話へ続く)




