房総の黒船
慶応四年の夏、房総半島の南端、館山。
かつてはうらぶれた漁村に過ぎなかったこの地は、今や「新・江戸街」と呼ばれる巨大な不夜城へと変貌を遂げていた。
海岸線に沿って整然と並ぶ黒塗りの蔵やバラック群、その間を縫うようにして、日本橋や神田から逃れてきた商人、大工、町火消たちが忙しなく行き交う。夜になれば、イギリスの商船から荷揚げされた無数のガス灯が港を青白く照らし、その光景は灰に埋もれた本家・江戸を遥かに凌ぐ活気に満ちあふれていた。
「おい、半次の兄貴! 沖合にまたでっけえのが見えましたぜ!」
見張りの若衆の叫び声に、半次は手にした鋸を置き、額の汗を拭いながら海を睨みつけた。
霧の立ち込める浦賀水道の向こうから現れたのは、巨大な二本煙突の蒸気船。だが、そのマストに翻っていたのは、お馴染みの英国旗ではなかった。赤、白、青の三色旗。フランス帝国の軍艦である。
「フランスだと……? イギリスの旦那方のナワバリに、何しに来やがった」
半次が眉をひそめたその時、背後から凛とした声が響いた。
「半次、慌てるんじゃないよ。勝の旦那が言ってた通りさ。お上がいなけりゃ、異国のタヌキどもが次から次へと甘い汁を吸いに集まってくる。それだけのことさね」
お蓮は、藍染めの前掛けをきつく結び直しながら歩み寄ってきた。彼女の懐には、今や新・江戸街の「通貨」となったメキシコドルがずっしりと詰まっている。
フランス軍艦から下ろされたカッターが浅橋に横付けされ、中から一人の小洒落たフランス人将校と、旧幕府の不満分子と思われる武士たちが降り立ってきた。
将校はブリュネ大尉の部下であり、北の蝦夷共和国から秘密裏に南下してきた密使であった。
「マダム・お蓮、そしてを組の頭」
通訳を介し、フランス人将校が慇懃無礼に頭を下げた。
「我がフランス帝国は、君たちがここで築いた『自由都市』の生命力に深く感銘を受けている。だが、イギリスだけに頼るのは危険だ。彼らは君たちの将軍をロンドンで飼い殺しにし、最終的にはこの日本を丸ごと貪るつもりだ。どうだろう、我がフランスの最新式の野砲と、榎本(武揚)総裁の無敵の艦隊と手を結ばないか? サツマやチョウシューを挟み撃ちにし、真の徳川の世を取り戻すのだ」
その提案は、あまりにも魅力的で、同時に猛毒を含んでいた。
半次は思わず腰の銃に手をかけ、お蓮の顔を盗み見た。新政府への復讐と、江戸の復興。榎本海軍とフランスが手を貸すというのなら、それは一気に歴史をひっくり返す好機に思えた。
しかし、お蓮はフッと鼻で笑った。
彼女は懐から一本のキセルを取り出し、ゆっくりと煙を吐き出す。
「お武家様、そいつはありがたいお話だねぇ」
お蓮の目は、冷徹なまでに据わっていた。
「だけどさ、あたしたち町民はね、お上の喧嘩にはもう飽き飽きしてんだよ。徳川が勝とうが、薩長が勝とうが、あたしたちの家を焼いたのはあんたたちお武家様だろ。イギリスだろうがフランスだろうが、金を払って品物を買う奴なら誰だって客だ。だけど、あたしたちの街を、あんたたちの戦争の『火床』にされるのだけは、真っ平御免なんだよ」
「何だと……? 貴様ら、将軍公への忠義を忘れたか!」
旧幕臣の武士が激昂して刀の柄に手をかける。
その瞬間、半次を筆頭とする「を組」の若衆数十人が、一斉にイギリス製のスナイドル銃を構え、武士たちの胸元へ銃口を突きつけた。カチャカチャという冷たい金属音が、浅橋の空気を氷結させる。
「すまねえな、お武家様」
半次は不敵に笑い、銃の遊底を引いた。
「俺たちは、火消しだ。火がつきそうな不穏な種は、身内だろうが異国だろうが、真っ先に消し止めるのが仕事なんでね。……長居するなら、そのフランスの綺麗な船ごと、房総の海に沈んでいただくぜ?」
フランスの将校は、目の前の「武装した町民」たちの放つ、凄まじい眼光と統率力に圧倒され、思わず一歩後退した。お上が消えたことで、日ノ本の民衆は、ただの守られる存在から、自らの力で牙を剥く「独立勢力」へと完全に覚醒していたのだ。
「……引き上げよう。彼らは、我々の手に負える存在ではない」
フランス人将校は忌々しそうに呟き、再びカッターへと乗り込んでいった。
遠ざかるフランス軍艦を見つめながら、半次はぽつりと言った。
「姉さん、これで良かったんだよな」
「ああ」お蓮はキセルの灰をトントンと落とした。「これでいいのさ。海の向こうで将軍様が化かし合いをやってる間、あたしたちはここで、誰にも文句を言わせない『最強の江戸』を建てる。それが、あたしたちの戦いさ」
房総の夜空に、再び建設の槌音が響き渡る。
新政府、ロンドン亡命政府、蝦夷共和国。そのいずれにも属さない、民衆による「第四の勢力」が、極東の海で急速にその質量を増していた。
(第16話へ続く)




