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西郷隆盛が江戸総攻撃を強行したので、勝は江戸を焼き払い、最後の将軍とイギリスへ亡命します  作者: ローナ


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8/20

二人の巨頭

品川沖に響き渡った大英帝国の艦砲射撃の重低音は、遥か数十里離れた新政府軍の本営にまで地響きとなって伝わっていた。


燃え盛る江戸の街を一望できる愛宕山の山頂。

赤黒い煙が天を覆い、火の粉が雪のように舞い散る中、西郷隆盛はただ一人、岩の上に立ち尽くしていた。その大きな瞳には、眼下に広がる紅蓮の地獄が、そして品川の海で火を噴く異国の黒い影が、克明に映し出されていた。


「西郷さぁ! 西郷さぁ!」


息を完全に切らせ、顔半分を爆風の煤で黒く染めた大久保一蔵(利通)が、数人の護衛を引き連れて山道を駆け登ってきた。普段の冷徹な官僚の面影はどこにもなく、その指先は激しく震えている。


「品川の前線が壊滅状態じゃ! 勝の狐め、町火消どもを総動員して街道を火の海にしおった! 我らの歩兵も大砲も、炎の壁に阻まれて一歩も動けん! それだけじゃなか……!」

大久保は品川沖を指差し、歯茎から血が出るほどに歯を食いしばった。

「イギリスじゃ! パークスの野郎、万国公法を盾に我が軍へ艦砲射撃を叩き込みおった! 慶喜は……慶喜の首魁は、すでにイギリスの軍艦に守られ、品川の海を離れつつある!」


西郷は、大久保の叫びを静かに聞いていた。その巨大な背中は、微動だにしない。

「……一蔵さぁ。おいどんは、間違っちょったとじゃろうか」


「何を言うちょるですか、西郷さぁ! 今は感傷に浸る時じゃなか!」

「いや、間違っちょった」

西郷はゆっくりと振り返った。その顔には、怒りも絶望もなく、ただ底知れぬ虚無が広がっていた。

「勝先生を、江戸の民を舐めちょった。おいどんが『新しき日本のため』と称して刃を突きつければ、江戸の漢どもは己の誇りごと街を焼き払い、将軍を異国へ逃がしてでもおいどんの首を絞めにくる。……これは、おいどんが引き起こしたごうじゃ」


「西郷さぁ!!」

大久保がその胸ぐらをつかまんばかりに激昂する。

「慶喜を逃したとなれば、京の朝廷は何と言われるか! 薩長が天下を獲ったのではない、首都を灰にし、国賊を異国へ売り渡した無能の集まりだと、日本中の諸藩が我らに牙を剥くぞ! これでは『御一新』どころか、より凄惨な泥沼の内戦じゃ!」


西郷は、大久保の手を優しく、しかし鉄のような力で引き剥がした。

「分かっちょる。おいどんの命など、いくらでも差し出す。じゃっどんな、一蔵さぁ。……これで、歴史はバグっちまった。もう、誰も止められんど」


西郷が見つめる先、品川の海からは、巨大なアイロンジック号が、黒い煙を夜空へ吐き出しながら、ゆっくりと外洋に向けて進路を変えていた。


同じ頃、品川の海岸。

膝まで海水に浸かりながら、お蓮は最後の避難船に老人や子供を押し込んでいた。


「早く乗りな! ぐずぐずしてると、火がここまで来ちまうよ!」

お蓮の着物は破れ、顔は煤と泥で誰だか分からないほどになっていた。それでも、彼女の凛とした声だけが、絶望に震える民衆の心の拠り所となっていた。


イギリスのボートが、約束通り何往復もして民を房総へとピストン輸送していく。異国の兵たちも、燃え盛る江戸の異様さに圧倒されながら、必死に日本の庶民たちを船へと引き揚げていた。


「お蓮の姉さん!!」


炎の壁の中から、濡れた半纏を頭から被った半次が飛び出してきた。その手の手の甲は、油の引火による火傷で水膨れが弾け、血が滴っている。


「半次! 無事だったかい!」

「ああ! 日本橋から神田まで、きっちり火の壁を築いてやった! 薩長の芋侍ども、手も足も出ずにあっち側でうろたえてやがるぜ!」

半次は激しく咳き込みながら、品川沖で動き出したアイロンジック号を見つめた。

「……姉さん。将軍様は、あの船に乗ったんだな。俺たちの江戸を捨てて、異国へ行っちまったんだな」


半次の声には、怒りと、それ以上の虚しさが混ざっていた。自分たちが命がけで街を焼いたのは、人を救うため。だが同時に、それは一人の将軍を海外へ逃がすための「煙幕」にされたのだという事実が、若い胸を締め付けていた。


お蓮は、半次の傷だらけの手を強く握りしめた。

「半次、お上を恨むんじゃないよ。あの人は、生き恥を晒しにいくんだ。死ぬより辛い泥水をすすりに、海の向こうへ行くのさ。……あたしたちだって負けやしない。街が燃えたなら、またこの手で、もっとでっかい江戸を作ってやりゃあいいんだろ!」


「姉さん……」

「行くよ! 江戸っ子の意地は、これからが本番さ!」


お蓮と半次は、最後の船へと飛び乗った。

背後で崩れ落ちる品川の宿場町。夜空を焦がす紅蓮の炎は、百万の民の怒りと執念そのもののようであった。


大英帝国の軍艦アイロンジック号の甲板。

徳川慶喜は、船尾から遠ざかる燃える祖国を、ただ黙って見つめ続けていた。

その胸に宿る熾火おきびは、まだ消えてはいなかった。


(第9話へ続く)

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