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西郷隆盛が江戸総攻撃を強行したので、勝は江戸を焼き払い、最後の将軍とイギリスへ亡命します  作者: ローナ


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黒い巨獣の牙

カッターの乾いた木造の船底が、品川の砂浜を離れて冷たい波へと滑り出した。


「漕げ! 芋侍どもが来る前に、一刻も早くふねへ寄せるんだ!」

イギリス人水兵の怒号のような英語が、波音に混じって響く。徳川慶喜は、水しぶきを浴びながら、じっと背後の陸地を見つめていた。


品川の海岸は、すでにこの世の終わりを具現化したような光景だった。

数万の民衆が砂浜を埋め尽くし、押し寄せる熱風と、背後から迫る新政府軍の影に怯えて泣き叫んでいる。さらにその奥、かつて世界最大の人口を誇った大都市・江戸は、勝海舟の計算通り、東海道と甲州街道を完全に遮断する「炎の長城」と化していた。


天を突く黒煙は太陽の光を完全に遮り、どんよりとした赤黒い闇が海面にまで垂れ込めている。


「上様、前を、前をお向きくだせえ」

隣で力強くかいを握る山岡鉄舟が、血の滲む唇を噛み締めながら言った。その目からも、悔し涙がとめどなく溢れ、煤けた頬を濡らしている。

「日ノ本は、今日この時をもって死にました。しかし、上様が生きておられる限り、徳川の火は消え去りませぬ。これより向かうは、異国の海にございます」


慶喜は何も答えず、ただ品川の泥海を見つめていた。

自分が捨てていく祖国の土が、どんどん遠ざかっていく。


同じ頃、品川沖に鎮座するイギリス巡洋艦「アイロンジック号」の艦橋ブリッジ

ハリー・パークスは、豪奢な金モールがあしらわれた軍服の襟を正し、真鍮製の望遠鏡を覗き込んでいた。そのレンズの先には、炎に追われて海岸線まで突出してきた、薩摩の赤毛・白毛の頭に身を包んだ一隊が見える。


「公使、薩摩の先鋒が我が国の設定した『絶対防衛線』を越えました」

艦長が、冷徹な声で報告する。

「これ以上の進軍は、我が大英帝国に対する事実上の宣戦布告とみなします。……いかがなさいますか」


パークスは望遠鏡をパチンと閉じると、冷酷な笑みを浮かべた。

「西郷め、こちらの警告をただのハッタリだと思ったか。野蛮人どもに、世界のルールというものを骨の髄まで教えてやるがいい。……主砲、構え。目標、品川街道の薩摩軍前衛陣地」


「主砲、照準完了!」

「撃て(ファイア)!!」


アイロンジック号の側面から、鼓膜を破らんばかりの大音響が炸裂した。

イギリスが誇る近代科学の結晶、百ポンド前装条砲が、凄まじい白煙とともに火を噴いたのだ。


ドォォォン……!


品川の町外れ、薩摩軍が陣を敷いていた街道筋に、一発の巨大な砲弾が着弾した。

凄まじい爆発音とともに、地面が生き物のように跳ね上がり、土砂と民家、そして衣服を引き裂かれた薩摩兵の身体が宙を舞った。それは、新政府軍がこれまで経験したことのない、文字通り「桁違い」の破壊力だった。


「な、何じゃあこれはぁっ!」

前線で指揮を執っていた伊地知正治は、爆風で落馬し、泥まみれになりながら叫んだ。

「異国のふねが、本当に撃ってきたというのか!? 我らは朝廷の軍ぞ! 正義の軍勢ぞ!」


「伊地知さぁ、退却を! 退却を命じてくだせえ!」

周囲の兵たちが、パニックを起こして逃げ惑う。勝海舟が放った火の海によって前進を阻まれ、海からは大英帝国の圧倒的な艦砲射撃が降り注ぐ。近代戦の常識を覆す二重の絶望の前に、無敵を誇った薩摩の精鋭たちは、ただの一歩も前へ進むことができなくなっていた。


カッターが、アイロンジック号の巨大な黒い船体に横付けされた。

頭上から下ろされた縄梯子を、慶喜は一歩ずつ、踏み締めるようにして登っていく。


甲板に降り立つと、そこにはイギリス海兵隊の兵士たちが、銃を捧げて整列していた。異国の軍隊が、日本の「最高権力者」を迎えるための、最上級の軍礼サルートであった。


「ようこそ、アイロンジック号へ、徳川慶喜公」

待ち受けていたパークスが、帽子を脱いで深く一礼した。その目は、最高の外交カードを手に入れた興奮でギラギラと輝いている。


「パークス公使……」

慶喜は、三度笠のなくなった頭を上げ、目の前の異国人を見据えた。

「条件は、一つだけだ。この品川の浜にいる私の民を、一人残らず安全な地へ運べ。それが成されぬ内は、私はこの艦を動かすことを許さぬ」


パークスは一瞬、驚いたように目を見張ったが、すぐに不敵な笑みを浮かべて頷いた。

「もちろんです、閣下。我が英国は、紳士の国だ。貴方の『亡命』の対価として、百万の江戸の命、我らが東洋艦隊の総力を挙げて救助いたしましょう」


品川沖の霧の向こう、燃え盛る江戸の街を背景に、イギリスの蒸気船が、浜辺の民を救うために一斉に動き出した。

それは、日本という国が世界の巨大な渦に完全に巻き込まれ、歴史が誰も予想し得なかった方向へと狂い始めた瞬間であった。


(第8話へ続く)

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