大火の号砲
「逃げな! 振り返るんじゃないよ!」
お蓮の声は、すでに涸れ果てていた。
日本橋から品川へと続く街道は、文字通り地獄の様相を呈していた。背後からは、半次たち町火消が放った紅蓮の炎が、猛烈な北風に煽られて生き物のように追いかけてくる。空は昼間だというのに黒煙で完全に覆い尽くされ、まるで世界の終わりかと思われるような、どんよりとした赤黒い闇がすべてを支配していた。
大八車を捨て、着物の裾を泥まみれにしながら走る群衆。その数は数万、数十万に膨れ上がり、品川の海岸へとなだれ込んでいく。
「お蓮の姉さん! 東海道の先頭が品川の砂浜に到着しました! ですが、船が、船が足りねえ!」
息を弾ませて駆け寄ってきた若衆の言葉に、お蓮は胸が締め付けられるような思いだった。
勝海舟が手配した漁船や商船、果ては伝馬船にいたるまで、すでに数千の人間がすし詰めになって乗り込み、房総へ向けて次々と抜錨していた。しかし、浜辺にはまだ数万の避難民が、恐怖に震えながら立ち尽くしている。
「弱音を吐くんじゃないよ! 動くものなら板切れ一枚でも海へ浮かべな!」
お蓮は若衆を叱り飛ばしたが、その視線は、品川沖に悠然と佇む「それ」に釘付けになっていた。
黒い鉄の船体に、天を突く二本の煙突。そこから吐き出される煤煙は、江戸の炎上による黒煙と混ざり合い、圧倒的な異様さを放っている。大英帝国の巡洋艦「アイロンジック号」だ。その巨大な大砲はすべて、海岸へなだれ込む新政府軍の進軍ルートへと向けられていた。
「あの異国の船……本当に、あたしたちを助けてくれるのかい……」
お蓮の呟きは、押し寄せる波の音にかき消された。
同じ頃、品川街道の北端。
燃え盛る火の壁を前にして、東征軍の先鋒を率いる薩摩藩兵たちは、完全に足止めを食らっていた。
「馬鹿な……! 江戸の奴ら、戦う前に街を自ら焼きおったというのか!」
前線を指揮する伊地知正治は、あまりの熱風に馬を後退させながら、顔を歪めて叫んだ。
アームストロング砲を打ち込んで江戸城を平らげるはずが、城へ続くあらゆる街道が、町火消たちの手によって凄まじい「火の防壁」に変えられていたのだ。崩れ落ちる町家、天を衝く炎。それは新政府軍の進軍を阻むだけでなく、大砲の照準すらも煙で完全に狂わせていた。
「伊地知さぁ、大変じゃ!」
泥まみれの伝令兵が、息を切らせて駆け込んできた。
「品川の海に、英国の軍艦が錨を上げておりもす! 我らがこれ以上海岸へ近づけば、万国公法に違反したとして、容赦なく艦砲射撃を叩き込むと……パークスからの通告にございもす!」
「何だと……! 英国が幕府に加担したというのか!」
伊地知は歯を食いしばった。西郷隆盛が駿府で断行した「総攻撃」という強硬策は、勝海舟の狂気の焦土作戦と、英国の冷徹な外交カードによって、完全に裏をかかれたのだ。
午後四ツ(午後四時すぎ)。
品川の海岸の寂れた漁師小屋の裏手に、三人の町人姿の男たちが滑り込んだ。
深々と被った三度笠を外したのは、徳川慶喜である。その顔は寛永寺を出てからの強行軍で煤けていたが、瞳だけは異様な鋭さを保っていた。横には、全身傷だらけになりながら慶喜を護衛してきた山岡鉄舟、そして、すでに横浜から手を回してここで待機していた勝海舟の姿があった。
「上様、よくぞご無事で」
勝は畳に膝をつき、品川沖の黒い巨船を指差した。
「あれがアイロンジック号です。あいつに乗れば、西郷の手は二度と届きやせん。徳川の命脈を、世界の海へ繋ぐのです」
慶喜は、浜辺を埋め尽くす避難民たちの悲鳴と、遠くで燃え盛る江戸の街を見つめた。
自分が愛し、守ろうとしたはずの首都が、今、己を逃がすための煙幕として灰になろうとしている。
「海舟。私は、この百万の民の血と涙の上に立って、異国へ逃れるのだな」
慶喜の声は低く、悲痛な響きを帯びていた。
「これが、徳川の最後の将軍の姿か。私は歴史に、永遠に罵られるだろう」
「罵らせておけばいいのです」
鉄舟が、慶喜の肩を強く掴んだ。
「死んでしまえば、弁明すらできぬ。生きて、ロンドンで徳川の正義を叫ぶことこそが、上様の、そしてこの江戸を焼いた民たちへの唯一の報いでございます!」
浜辺に、イギリス軍艦から下ろされたカッター(端艇)が近づいてくる。
青い目の水兵たちが、銃を構えながら慶喜たちを呼び寄せる。
「……行こう」
慶喜は、三度笠を品川の泥海へ投げ捨てた。
その足取りは、もはや躊躇う将軍のものではなかった。異国の霧の向こうにある、まだ見ぬ戦場へと向かう、一人の男の歩みであった。
燃え盛る江戸を背に、日ノ本の歴史が、決定的に「バグ」を起こし始めた。
(第7話へ続く)




