3月14日の静寂
慶応四年三月十五日の朝は、皮肉なほどに美しく明けた。
東の空から昇る太陽は、早春の冷たい大気をじわじわと暖め、江戸湾の海面をきらきらと黄金色に染め上げていく。だが、その光が照らし出したのは、百万都市が迎える「終焉」の光景であった。
前夜のうちに、江戸が焦土になるという噂は完全に町中へ行き渡っていた。
朝六ツ(午前六時)、日本橋の通りは、家財道具を大八車に積んだ人々の怒号と、親とはぐれた子供の泣き声で、足の踏み場もないほどの混沌に陥っていた。
「押しちゃいけねえ! 前が進まねえんだよ!」
「薩長がすぐそこまで来てるって話だ! 早く品川へ向かわねえと、皆殺しにされちまうぞ!」
恐怖という名の病が、津波のように民衆を飲み込んでいく。我先にと南へ向かう大衆の波の中で、日本橋の大旅籠「伊勢屋」の前に立つお蓮は、藍染めの木綿の着物の袖をきりりとまくり、喉が裂けんばかりの声で叫んでいた。
「慌てんじゃないよ! 荷物は大八車の一台分まで! 老人と子供を先頭にしな! 命さえ持ってきゃあ、いくらでもやり直せるんだから!」
お蓮の横では、浅草の若衆頭・半次が、手下たちを率いて人の流れを必死に差配していた。半次の手には、火消しの象徴である鳶口ではなく、勝海舟の配下から渡された大きな「むしろ」と、中に何かが詰まった油樽が握られている。
「半次の兄貴、日本橋の連中の避難は、あと半刻(約一時間)で終わります!」
「よし、終わったらすぐに油を撒くぞ! 薩長の先鋒が品川街道に入り込む前に、大通りを火の壁で塞ぐんだ。お蓮の姉さん、あんたはもう先頭に立って品川へ向かってくれ!」
半次の顔は、煤と汗で早くも黒く汚れていた。自分の生まれ育った日本橋を、自らの手で地獄に変える時間が刻一刻と近づいている。その恐怖をかき消すように、半次は声を張り上げた。
お蓮は一瞬、半次の顔をじっと見つめ、その逞しくなった肩を強く叩いた。
「半次、死ぬんじゃないよ。品川の海岸で、あたしは待ってるからね」
「分かってる。江戸っ子の意地、芋侍どもにたっぷりと見せてやるさ」
二人が言葉を交わしたその時、西の空から、地響きのような「ドン……」という重い音が響いてきた。
新政府軍の放った、イギリス製アームストロング砲の砲撃音だった。ついに、総攻撃の火蓋が切って落とされたのだ。
時を同じくして、上野寛永寺、大慈院。
「上様、お急ぎくだせえ!」
山岡鉄舟が、息を荒くして慶喜の室になだれ込んできた。すでに寛永寺の周囲には、新政府軍の接近を察知した徹底抗戦派の武士たち——「彰義隊」が集結し、殺気立った声をあげていた。彼らは、慶喜が新政府軍に命を狙われていると信じ、命を賭けてここで戦うつもりだった。将軍がイギリスへ亡命するなどという勝海舟の「裏の計画」は、彼らには一切知らされていない。
「彰義隊の連中が、上様を外へ出さねえと寛永寺の門を固めておりやす! 勝先生の焦土作戦が始まれば、この上野の山も一気に孤立する。今を逃せば、品川へ下る道はございやせん!」
徳川慶喜は、すでに武士の衣服を脱ぎ捨て、勝が手配した地味な町人の着物に身を包んでいた。その端正な顔立ちを隠すように、深々と三度笠を被る。
「鉄舟……彰義隊の者たちは、私を守るために集まってくれたのだな」
慶喜の声は、静かだが震えていた。
「私を逃がすために、江戸の民が家を焼き、忠義の武士たちが何も知らずにここで盾となって死んでいく。……私は、本当に生き残る価値のある男なのだろうか」
「価値など、後から上様がロンドンでお作りくださればよいのです!」
鉄舟は慶喜の腕を強く掴み、無理やり立ち上がらせた。
「勝先生の言葉を思い出してくだせえ! 生き恥を晒し、徳川の血を異国で繋ぐことこそが、今の上様のたった一つの『戦い』にございます!」
「……分かった。参ろう」
慶喜は最後にもう一度だけ、自分が三十一年間過ごした日ノ本の、その美しい青空を見上げた。そして、二度と戻れぬかもしれない祖国の土を踏み締め、鉄舟とともに裏門の暗がりへと消えていった。
午後二ツ(午後四時)。
ついに、勝海舟が放った「焦土の号砲」が江戸の街に鳴り響いた。
浅草寺の境内。新門辰五郎が、大きな松明を右手に掲げ、静かに、しかし地獄の底から響くような声で命じた。
「を組、始めろ」
「うおおおおお!」
半次は叫んだ。涙で視界が歪む中、手にした松明を、油をたっぷりと染み込ませた浅草の町家に投げ込んだ。
ゴオッ、という凄まじい大音響とともに、紅蓮の炎が春の乾いた風に乗って一気に燃え広がった。日本橋、神田、下谷……勝の緻密な計算に基づき、江戸の四方八方から、同時に火の手が上がっていく。
それは、これまでの歴史のいかなる大火とも異なっていた。火消しの天才たちが、新政府軍の進軍ルートを寸断するためだけにコントロールした、「戦略としての炎」だった。
品川街道を突き進んでいた新政府軍の先鋒、薩摩兵たちは、突如として目の前に現れた「火の壁」を前にして、進軍を完全に止めざるを得なかった。
「何じゃこれは! 江戸の奴ら、自ら街を焼きおったか!」
前線を指揮していた薩摩の将校が、熱風に顔を背けながら驚愕の声をあげる。背後からは、猛烈な黒煙が天を衝き、江戸の空を完全に覆い尽くしていった。百万の都市が、勝海舟という一人の天才の知略によって、巨大な「煙幕」へと変貌した瞬間であった。
火の海の向こう、品川の海岸。
すし詰めになった避難船の向こうに、怪物の如く黒い巨体を浮かべたイギリス軍艦「アイロンジック号」が、静かに、しかし圧倒的な威圧感をもって錨を上げていた。
(第6話へ続く)




