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西郷隆盛が江戸総攻撃を強行したので、勝は江戸を焼き払い、最後の将軍とイギリスへ亡命します  作者: ローナ


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鉄の外交官

勝海舟が横浜の英国公使館を辞し、夜霧の立ち込める東海道を江戸へと引き返していく頃、入れ替わるようにして一人の男が公使館の裏口から滑り込んでいた。


フランス公使、レオン・ロッシュである。


「パークス、夜分にすまないね」

ロッシュは、絹のハットを脱ぎながら、いかにも不快そうに室内の煤煙を払う仕草をした。その整った髭の奥にある目は、決して笑っていない。フランスはこれまで、横須賀製鉄所の建設支援や、ナポレオン3世からの軍事顧問団派遣を通じて、徳川幕府を全面的にバックアップしてきた。徳川の崩壊は、フランスの極東戦略における最大の破綻を意味していた。


パークスは、まだ勝の座っていた椅子の温もりが残る部屋で、冷めた紅茶をすすりながらロッシュを睨み返した。

「何の用だ、ロッシュ。ここは紳士の休息の場だ。サツマやチョーシューの兵がそこまで迫っているというのに、君のフランス風の優雅な挨拶を聞いている暇はない」


「とぼけないでくれ」

ロッシュは机を叩いた。

「今、ここから日本の陸軍総裁であるカツ(勝海舟)が出ていくのを見た。彼は君に何を頼みに来た? 薩長を裏から操るイギリスのことだ、どうせ江戸を無傷で明け渡させ、我がフランスがこれまで投資してきた幕府の遺産を、そっくりそのまま新政府へ横流しする算段でも立てていたのだろう!」


パークスは、ふっと小馬鹿にしたような笑いを漏らした。

「ロッシュ、君の偵察能力には恐れ入るが、想像力が貧困極まりないな。カツが何をしに来たかだと? ……彼は、江戸を焼くと言いに来たのだよ」


「何だと……!?」

ロッシュの顔から血の気が引いた。

「焼くだと? あの世界最大の都市を、自らの手で灰にするというのか? 正気か!」


「彼らは至って正気さ」

パークスはパイプの灰をトントンと落とし、冷酷な目でロッシュを見据えた。

「西郷という薩摩の怪物が、一切の妥協を拒んで総攻撃を仕掛けてくる。カツはその足場を奪うために、街を全て焼き払う。君たちが大金を叩いて造り上げた江戸の町も、幕府の施設も、三月十五日にはすべて煙になる。……そして、その先がある」


パークスはわざと声を低くし、ロッシュの耳元で囁くように言った。

「最後の将軍、徳川慶喜は、我が大英帝国の軍艦に乗る。そして、ロンドンへ向かう。彼はそこで『正統な日本の元首』として亡命生活を送るのだ。ロッシュ、君たちの負けだ。幕府というカードは、これより我が英国の手に渡る」


「狂っている……! 万国公法を無視する気か! 異国の元首を亡命させるなど、新政府との全面戦争になるぞ!」

「無視などしていないさ。万国公法において、亡命者の保護は正当な権利だ。サツマが文句を言うなら、我が国の東洋艦隊が相手になろう。君たちフランスはどうする? 灰になった江戸の地面にしがみついて、サツマの靴の手入れでも始めるかね?」


ロッシュは怒りに震え、拳を握りしめた。

「……タダで済むと思うなよ、パークス。フランスは、このまま引き下がりはしない」

ロッシュは呪詛の言葉を吐き捨てると、激しく扉を閉めて部屋を去っていった。


英国とフランス。ヨーロッパの二大巨頭の代理戦争の火種が、江戸の炎上を前にして、完全に着火した瞬間だった。


三月十三日。総攻撃まで、あと二日。


江戸の町は、目に見える形で崩壊を始めていた。

「薩長が攻めてくる」「街が戦火に包まれる」という噂は、風よりも早く百万の民の間に広がり、大パニックを引き起こしていた。日本橋の通りは、家財道具を大八車に積んで逃げ惑う人々で溢れかえり、怒号と子供の泣き声が止むことはなかった。


そんな地獄のような喧騒の中で、日本橋の大旅籠「伊勢屋」の前に、一人の小柄な男が立っていた。勝海舟である。


「お蓮、いるかい」

勝が暖簾をくぐると、奥から煤けた前掛けをしたお蓮が、鋭い目で飛び出してきた。

「勝の旦那! よくもぬけぬけと来られたもんだね。外のあの騒ぎ、あんたたちの仕業だろ!」


勝は懐から、ずっしりと重い皮の袋を取り出し、帳場の上にドスンと置いた。中から覗いたのは、まばゆい光を放つ洋銀メキシコドルの山だった。


「これを持っていきな。これで、動けるだけの船を買い叩くんだ」

勝の目は、いつになく真剣だった。

「浅草の辰五郎には話してある。十五日の夜、火の手が上がると同時に、日本橋と浅草の連中を全員、品川の海岸へ誘導しろ。そこには、俺が手配した漁船や商船、それに英国の船が待っている。お蓮、百万の命のハシゴを外すか繋ぐかは、おめえと火消しの連中の腕にかかってるんだ」


お蓮は、その洋銀の山と勝の顔を交互に見つめた。

「……旦那。本当に、江戸を焼くんだね」

「ああ。西郷の野郎が、どうしても徳川の首を獲るって聞きやがらねえ。だったら、何もかも灰にして、奴らの鼻を明かしてやる。だがな、お蓮。人間が生きてりゃ、江戸はまた建て直せる。頼んだぜ」


勝はそれだけ言うと、風のように去っていった。

お蓮はその場に立ち尽くし、洋銀を強く握りしめた。冷たい銀の感触が、これから始まる壮絶な戦いの現実を物語っていた。


「半次! 半次はどこだい!」

お蓮の鋭い声が、旅籠の奥に響いた。


その夜、浅草の「を組」の詰所には、江戸中の町火消の頭たちが秘密裏に集まっていた。

一番組から十番組、さらにはいろは四十八組の主だった面々が、新門辰五郎を囲んで車座になっている。室内の空気は、今にも火がつきそうなほど緊迫していた。


「頭、本当にやるんですかい」

深川の火消しの頭が、低い声で尋ねた。

「俺たちは、火を消すのが商売だ。その俺たちが、油を撒いて江戸に火をつける。そんな真似をしちまったら、先祖代々の墓に顔向けできねえ」


辰五郎は、キセルをじっと見つめたまま、しばらく口を開かなかった。

やがて、ゆっくりと煙を吐き出すと、集まった頭たちの顔を一人一人見据えた。


「おめえらの言うことは、百も承知だ。俺だって、この手で浅草を焼くなんてなぁ、己の腹を掻き切るより辛い。だがな、よぉく考えてみろ」

辰五郎は、畳の上の切り絵図を指差した。

「薩長の軍勢は、近代兵器の化け物だ。大砲を四方から撃ち込まれりゃ、火を消す間もなく街は全滅だ。それだけじゃねえ、芋侍どもは江戸の町民を『敵の身内』として扱い、略奪も、惨殺も思いのままだ。……だったら、あいつらが来る前に、俺たちの手で綺麗に火をコントロールして、通りを火の壁で塞ぐんだよ」


辰五郎は声を荒げた。

「火を消すのが火消しなら、火を使って人を救うのも火消しの仕事だろ! 東海道と甲州街道の進軍ルートを火の海で断つ。薩長が炎に足止めされている間に、日本橋のお蓮が先頭に立って、町民を品川へ逃がす。これは戦じゃねえ、百万の江戸っ子を救うための『大消火』だ! 異論のある奴は、今すぐここから出ていきな!」


誰も、立ち上がらなかった。

頭たちは皆、涙を浮かべながらも、静かに頷いた。己の愛する街を、己の手で灰にする。その十字架を背負う覚悟を、江戸のおとこたちは決めたのだ。


詰所の隅で、その様子をじっと聞いていた半次は、拳から血が流れるほど強く握りしめていた。

「……やるしかねえんだな」

半次の呟きは、外の嵐のような風の音にかき消された。


三月十四日。総攻撃の前夜。


上野寛永寺、大慈院の夜は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。

徳川慶喜は、行灯の薄明かりの中で、一通の手紙を読んでいた。それは、勝海舟を通じて届けられた、英国公使パークスからの密書であった。


『明日の夜、品川沖にて我が大英帝国の巡洋艦アイロンジック号が待機する。徳川慶喜公、貴方が乗艦されるならば、我が国は貴方を「正統な日本の元首」として保護し、ロンドンへの安全な亡命を保障する。朝敵としての死か、異国での再起か。選択は貴方にある』


「ロンドン、か……」

慶喜は手紙を折り畳み、ため息とともに目を閉じた。

徳川三百年、その最後の将軍という重圧が、彼の若い肩に重くのしかかる。

朝廷への忠誠を示すために恭順の道を選んだはずが、西郷はその首を求め、江戸の街を焼き尽くそうとしている。もし日本に留まれば、自分は新政府軍に捕らえられ、引き回しの上で処刑されるだろう。それは徳川の完全な滅亡を意味する。


しかし、異国の船に乗って逃げるということは、歴史に「国を捨てた腰抜けの将軍」として名を刻むということだ。


「私は……どうすればいいのだ」


慶喜の脳裏に、かつて一橋家を継ぎ、そして将軍職を拝命した若き日の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。水戸烈公・斉昭の息子として生まれ、厳格な教育を受け、常に「日本のために」行動してきた自負があった。大政奉還を行ったのも、内戦を避け、国力を維持するためだった。それなのに、なぜこれほどまでに追い詰められねばならないのか。


その時、部屋の障子が静かに開いた。

入ってきたのは、勝海舟であった。その着物はすでに泥と油の匂いが染み付いており、眼光だけが異常な鋭さを放っていた。


「上様。準備は、すべて整いました」

勝は畳に両手を突き、低く、しかし有無を言わせぬ声で言った。

「明日の夜、江戸の街に火が上がります。新門の連中が、命を捨てて火の壁を作ります。その隙に、上様にはお召し替えをいただき、品川の海岸へ向かっていただきます。鉄舟が、影武者を引き連れてお供いたします」


慶喜は、勝をじっと見つめた。

「海舟。私は、本当に異国へ逃げるべきなのか。ここで大人しく西郷に首を差し出した方が、徳川の『美学』として正しいのではないか」


勝は、顔を跳ね上げた。その目は、怒りで赤く充血していた。

「美学だと!? 上様、そんなクソの役にも立たねえ言葉のために、何万の人間が死ぬと思ってやがんですか! 貴方様がここで死ねば、徳川の息の根は本当に止まる。薩長は調子に乗って、残った幕臣たちを虫ケラのように殺し尽くすでしょう。だが、貴方様がロンドンで生きていれば、奴らは徳川の『亡命政府』という巨大な影に、永遠にお怯え続けなきゃならねえんだ!」


勝は慶喜の膝にすがりつくようにして、叫んだ。

「生き恥を晒してください、上様! 生きて、異国の地からこの日本を睨みつけ、いつか必ず、徳川の正しさを世界に証明してくだせえ! そのために、江戸の町民は明日、自分の家を焼くんです。百万の命が、貴方様の命を海外へ逃がすための『煙幕』になるんです!」


勝の、魂を削るような叫びが、大慈院の室内に響き渡った。


慶喜は天を仰ぎ、深く、長い息を吐き出した。

その目から、一滴の涙が頬を伝って落ちる。それは、将軍としてのプライドを捨て、一人の「人間」として地獄の選択を受け入れた瞬間であった。


「……分かった、海舟。私は、生きよう。異国の海の向こうで、日ノ本の行く末を見届けてやる」


慶喜の決断とともに、慶応四年三月十五日の朝が、静かに、そして残酷に明けていこうとしていた。

空は、まるで血のような不気味な朱色に染まっていた。


(第5話へ続く)

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