薩摩の朱(あか)
江戸が不気味な静寂に包まれる少し前、東征軍の本営が置かれた駿府(現・静岡県)は、 victory(勝利)を確信する無数の兵たちの熱気と、にわか仕込みの軍歌の声に揺れていた。
その喧騒から離れた本陣の奥室。
薄暗い行灯の光の中に、一頭の巨大な熊を思わせる大柄な男が座っていた。
東征大総督府参謀、西郷吉之助(隆盛)。四十歳。
普段なら、その大きな瞳には一国の民を包み込むような慈愛が宿っているはずだった。しかし、今、彼の前に座っている一人の男を前にして、西郷の顔は冷徹な鉄の仮面のようであった。
西郷の前に、両手を突き、額を畳にこすりつけている男がいる。勝海舟の使者として命を賭けて駿府までやってきた、山岡鉄舟だ。
「西郷先生……! 伏してお願い申し上げ奉る! 上様(慶喜)はすでに寛永寺に籠り、一切の戦意なきを世間に示しておられる! これ以上の進軍は無用な流血を招くだけ。どうか、江戸への総攻撃を思い止まり、徳川の恭順を受け入れていただきたい!」
鉄舟の声は涸れ果て、その体からは駿府までの強行軍で浴びた泥と汗の臭いが立ち上っていた。並の武夫であれば、その気迫に気圧されていたところだろう。
だが、西郷は微動だにしなかった。ただ、じっと鉄舟を見下ろしている。
沈黙が、重く室内にのしかかる。
やがて、西郷は懐から一本の朱色の筆を取り出し、机の上の地図にぽつりと置いた。その地図には、江戸を中心とした関東一円の陣形が、びっしりと朱い線で囲まれていた。
「山岡さぁ」
西郷の口から漏れたのは、驚くほど静かで、地を這うような薩摩言葉だった。
「おいもな、おはんの言うことはよっくい分いもす。上様が戦う気を失うちょられることも、嘘じゃなかろう」
「ならば!」
「じゃっどん、遅すぎた。……いや、生ぬるいと言っじょっせ」
西郷の目が、不気味なほど鋭く光った。
「鳥羽・伏見で、我が薩摩の、長州の兵がどれだけ死んだか知っちょるですか。あの方々の血は、ただ慶喜公を寺に引き籠らせるために流されたもんじゃなか。徳川という、三百年もの間、この国を縛り付け、異国の前に這いつくばらせてきた大樹。こいつを根こそぎ叩き割り、その根を焼き尽くさねば、真の『御一新』などはなかとよ」
鉄舟は顔を上げた。その目は驚愕に満ちていた。史実の西郷であれば、鉄舟の「朝敵の身になってみよ」という言葉に心を動かされ、寛大な条件を提示したはずだった。だが、この歴史(If)の西郷の背後には、別の影があった。
「それは、西郷先生の本心ですか! 貴方はそれほど無慈悲な御仁ではなかったはずだ!」
「おいが本心など、どうでもよか」
西郷は冷たく言い放った。
「大久保(利通)も、岩倉(具視)様も、長州の連中も皆、腹を決めておる。徳川が息を吹き返す隙を、一寸でも残してはならん。慶喜公の首をあげ、江戸を新政府の旗で染め上げねば、異国はこの日ノ本を舐め、二つに割って食い物にしようとすっでな」
西郷は朱筆を強く握りしめ、地図の「江戸」の文字の上に、容赦なくバツ印を書き込んだ。
「三月十五日。総攻撃は変えもはん。江戸が戦火に包まれようが、百万の民が泣こうが、これは新しか日本を産むための『陣痛』じゃ。山岡さぁ、勝先生に伝えやんせ。——御覚悟を、とな」
交渉は、完全に決裂した。
鉄舟は絶望に歯を食いしばりながらも、武士の意地で西郷を睨みつけ、這うようにして室を去っていった。
一人残された西郷は、行灯の炎を見つめていた。その巨大な肩が、微かに震えている。
「……坂本(龍馬)どん。おはんが生きていたら、おいを怒鳴りつけてくれたじゃろうか」
ポツリと呟いた言葉は、駿府の夜風にかき消された。西郷もまた、自らが引き起こす歴史の暴風の中に、その身を投じようとしていた。
時を同じくして。
駿府での決裂を知る由もない江戸・浅草では、を組の若衆頭・半次が、お蓮の言葉に突き動かされていた。
「あたしたちの力で生き抜いてみせる。それだけさ」
そう言ったお蓮の顔には、涙の跡など一滴もなかった。日本橋の大旅籠を背負う彼女は、すでに「お上の戦争」に見切りをつけていた。
「お蓮の姉さん……生き抜くって、どうすんだよ。頭は、街を焼けって言ってるんだぜ。俺たちの手で、この浅草を、日本橋をさぁ!」
半次が声を荒げる。
「焼かれちまうなら、先回りして動くだけだよ」
お蓮は半次の半纏の胸ぐらをぐっと掴み、その顔を近づけた。
「いいかい、半次。勝の旦那が船を手配してるってことは、品川の海に行きゃあ、生きる道があるってことだ。お武家様たちが大砲ぶっ放して悦に浸ってる間に、あたしたちは町の老人や子供、動けねえ奴らを全部巻き込んで、品川へ走るんだよ。火を放つなら、奴らが逃げる道を確保しながらおやり。火消しの腕を、今度は『人を逃がす火』のために使うんだ」
半次は目を見開いた。
街を破壊するのではない。百万の命を新政府軍の虐殺から救い出すための、命がけの「撤退戦」。それが、勝海舟と新門辰五郎が仕掛けた焦土作戦の、真の裏側だと気づいたのだ。
「人を、逃がす火……」
「そうさ。江戸っ子の意地ってやつを、薩長の田舎者に見せてやりな。街が灰になっても、あたしたちが生きてりゃあ、そこが次の江戸になるんだからね」
お蓮の言葉が、半次の胸の底にあった冷たい絶望を、猛烈な「闘志」へと変えていく。
その時、浅草の夜空を、一筋の不気味な稲光が切り裂いた。
遠く駿府から、西郷率いる「朱い絶望」が、刻一刻と江戸へ向かって進軍してきている。
(第3話へ続く)




