慶応四年の嵐
慶応四年三月。江戸の春は、湿った泥の匂いと、目に見えぬ硝煙の気配に満ちていた。
ほんの数ヶ月前まで日ノ本の頂点であり、世界最大の百万都市であった江戸は今、死を待つ巨獣のように静まり返っている。鳥羽・伏見の戦いで惨敗を喫した東征軍(新政府軍)が、街道を血で染めながら江戸へと進軍を続けているためだった。
上野寛永寺、大慈院の一室。
そこには、時が止まったかのような静寂が張り付いていた。
庭に咲き始めた白梅の花びらが、風もないのにハラハラと畳の上に落ちる。その白さを、じっと見つめている男がいた。
徳川慶喜。三十一歳。
最後の征夷大将軍は、一言も発さぬ石像のように座していた。
大坂城から引き揚げ、江戸へ戻って以来、彼は一切の政務を放り出し、この寺に籠って「恭順」の意を示し続けている。朝廷に弓引く意思なしと世間に証明するため、衣服は粗末な木綿に変え、食事も喉を通らぬ日々。
だが、彼がどれほど静寂を望もうとも、時代の嵐はその鉄の扉を容赦なく叩きつける。
「——失礼いたします、上様」
静寂を破ったのは、低く、地響きのような重みを持つ声だった。
姿を現したのは、幕府陸軍総裁・勝海舟である。四十を過ぎたその顔は、連日の不眠と底知れぬ焦燥のせいで土気色に変色し、額には深い皺が刻まれていた。
慶喜は微動だにせず、切れ長の視線だけを勝に向けた。
「海舟か。また、薩長の芋侍どもが近くまで来たという報せか」
「はっ。東征軍の大総督府参謀・西郷隆盛、すでに駿府を立ち、江戸を完全に包囲せんとしております。奴らが定めた総攻撃の予定日は……今月十五日。あと、猶予は十日もございやせん」
十五日。その日、薩長を中心とした新政府軍が、この江戸へ文字通り火の雨を降らせにやってくる。
慶喜は小さく息を吐き、自嘲気味に目を伏せた。
「……私は、戦わぬと決めている。朝廷に対して、ひたすら不敬の罪を謝すのみだ。西郷も、私のこの姿を見れば、無用な流血は避けてくれるのではないか」
「上様、甘うございます」
勝の声が、大慈院の低い天井に響いた。
「西郷という男は、平時は人情の塊のような男ですがね、今度の奴は『鬼』になってやす。駿府へ送った山岡鉄舟からの急報によれば、薩摩の連中、徳川の血を最後の一滴まで絞り取る気です。上様の首をあげ、徳川の息根を完全に止めねば、奴らの言う『御一新』とやらは完成しねえんでしょう。交渉の余地など、あの黒い腹の中には一寸もございやせん」
勝は、懐から一枚の古びた図面を取り出し、畳の上に乱暴に広げた。
それは、日本橋、浅草、品川……百万の人間がひしめき合う、江戸の町の詳細な切り絵図であった。
「上様。俺は万が一、奴らが理屈を忘れて江戸になだれ込んできた時の『備え』を始めやす。……江戸を、火の海にいたしやす」
慶喜の眉が、ピクリと跳ね上がった。
「焦土にするというのか。この、家康公が築かれたお膝元を」
「薩長が攻め入った瞬間に、江戸の四方から一斉に火を放ちやす。敵の足場を奪い、兵糧を焼き尽くす。その大混乱の隙に、江戸の町民、百万の命を房総へ、船で逃がす。空っぽになった燃える灰を、西郷にくれてやるのさ。……ただ、そうなれば」
勝は一拍置き、慶喜の目を真っ直ぐに見据えた。
「上様、貴方様の御命も保障はできやせん。新政府軍に捕まるか、炎に巻かれるか。……そこで、もう一つ、身の毛もよだつような『綱』を差し出す男がおりやす。英国公使、ハリー・パークスにございやす」
「英国公使……」
慶喜の唇が微かに震えた。
「異国を巻き込めば、それこそ真の国賊ではないか。フランスのロッシュを遠ざけ、私が恭順の道を選んだのは、国を二つに割って異国の餌食にさせぬためだぞ」
「奇麗事じゃあ、命は守れやせん!」
勝は畳を拳で叩いた。
「パークスは、江戸が壊滅して英国の商売が干上がることと、フランスがこれを機に巻き返すのを何より恐れている。奴らは上様の身柄を『万国公法』の盾で保護し、英国の軍艦でロンドンへ亡命させるという、とんでもねえ裏道を提案してきてるんでさぁ。……上様、泥をすすってでも、徳川の血を海外で繋ぐ御覚悟を」
勝は図面を巻き取ると、一礼もそこそこに立ち上がった。
「俺はこれから、浅草へ向かいやす。お上の理屈じゃねえ、地べたを這って生きてる連中に、本当の『命の賭け方』ってやつを仕込みに行かなきゃならねえんで」
勝が去った後、慶喜はぽつりと呟いた。
「日ノ本の将軍が、異国の霧の都へ流れるか……。家康公、私は間違っているのでしょうか」
その問いに答える者はなく、庭の梅の花びらがまた一枚、音もなく畳に落ちた。
寛永寺の冷徹な静寂とは対照的に、浅草寺の裏手にある町火消「を組」の詰所は、男たちの殺気と熱気で爆発寸前だった。
「頭! 冗談言っちゃいけねえ!」
詰所の頑丈な板間に、血の滲むような拳を叩きつけたのは、を組の若衆頭・半次(二十二歳)だった。
幾度も凄まじい大火と戦い、江戸の街を守ってきたその身体には、無数の生傷が刻まれている。半次の顔は、怒りと困惑で歪んでいた。
「俺たちが命がけで守ってきたこの街を、なんで俺たちの手で灰にしなきゃならねえんだ!? 薩長の芋侍どもが攻めてくるってんなら、俺たちが鳶口持って、奴らの喉笛を掻き切ってやりゃあいいじゃねえか!」
周りの若い火消しや博徒たちも「そうだ!」「江戸っ子の意地を見せてやる!」と地鳴りのような怒号をあげる。彼らにとって、江戸の町家や路地、そこに暮らす人々すべてが、命を賭して守るべき「家族」そのものだった。それを、戦が始まる前に自分たちの手で焼けという命令は、己の魂を濁った泥で汚されるに等しかった。
中央に座る浅草の顔役、新門辰五郎は、キセルの煙を静かに吐き出し、半次をじろりと睨みつけた。その眼光の奥には、底知れぬ悲しみが湛えられている。
「半次。おめえ、お武家様の戦ってなぁ、何だか分かってんのか」
辰五郎の声は低かったが、若衆たちを黙らせるに十分な威厳があった。
「薩長の田舎侍どもが持ってるのは、俺たちの鳶口や日本刀じゃねえ。異国から買い叩いた、一発で家ごと人間を吹き飛ばす大砲と、弾が雨あられと降る鉄砲だ。あいつらが江戸に入ってみろ。町を綺麗に残したまま、おめえらの大切な女や子供をいたわってくれるとでも思ってんのか。蹂躙されるんだよ、何もかも」
「だからって、自分から燃やすなんて……!」
「勝の旦那が言ったんだ」
辰五郎は立ち上がり、半次の胸ぐらを荒々しく掴み寄せた。
「家なんてなぁ、木と紙だ! 燃えちまったら、また俺たちの手で建て直しゃあいい。だがな、人間が死んじまったら、江戸の街は二度と戻ってこねえんだよ! 薩長に綺麗な江戸を無傷で乗っ取られて、俺たちの身内が奴らの奴隷になるくらいなら、火の海にして足場を奪い、その隙に百万の人間を逃がしてやる。これが、俺たち火消しが、この江戸にできる最後で最大の『消火』だ。……分かったら、油を集めろ。日本橋から浅草まで、いつでも一気に火が回るようにな」
半次は歯を食いしばった。悔し涙が、煤けた頬を伝って床に落ちる。
何もできない。お武家様たちの権力闘争の尻拭いのために、自分たちの宝物である江戸を、自らの手で地獄に変えねばならない。その理不尽への猛烈な怒りが、半次の胸の中でマグマのように煮えくり返っていた。
詰所の外へ飛び出した半次は、浅草の夜空を見上げた。まだ火は上がっていない。だが、遠く品川の海の方からは、異国の巨大な軍艦が発する、不気味な蒸気の地鳴りが響いてくるような気がした。
「狂ってやがる……。お上も、薩長も、みんな狂ってやがる!」
半次が夜の闇に向かって咆哮したその時、「何をつまらないところで吠えてるんだい」と、低く、しかし凛とした声が響いた。
振り返ると、日本橋の大旅籠を取り仕切るお蓮(二十八歳)が、着物の袖をきりりと合わせ、冷たく、そして熱く燃える瞳で佇んでいた。
「半次、泣いてる暇なんてないよ。お武家様が江戸を捨てるなら、あたしたちの力で生き抜いてみせる。それだけさ」
運命の三月十五日まで、あと十日。
江戸を愛する者たちの、最も熱く、最も残酷な戦いが始まろうとしていた。
(第2話へ続く)




