房総宣言
慶応四年、十一月。
房総の地に、全く新しい「政」の産声が響き渡ろうとしていた。
館山の港を見下ろす、白壁の真新しい議事堂。勝海舟が海外の議事堂を模して急ぎ建てさせたその建物の前には、数万の群衆が押し寄せていた。日本橋の商人、浅草の大工、そして濡れた半纏を肩にかけた町火消たち。誰もが固唾を呑んで、二階のバルコニーを見上げている。
ガサリ、と重い絨毯を踏む音が響き、徳川慶喜が姿を現した。
その姿に、かつての将軍の面影はどこにもなかった。徳川の紋章である三つ葉葵はどこにもあしらわれておらず、身にまとっているのは、ロンドンで仕立てられた一着のシンプルな黒いシルクのフロックコートのみ。だが、その佇まいから放たれる圧倒的な気品と覇気に、群衆は一瞬で静まり返った。
慶喜はゆっくりとマイクの代わりとなる真鍮の拡声器を手に取り、房総の海へ向けて声を放った。
「日ノ本の民よ。私は、徳川十五代将軍としての位を、ここに完全に返上する」
ざわめきが波のように広がろうとしたが、慶喜の鋭い声がそれを制した。
「しかし、私はこの国を薩長の新政府に譲るわけではない。彼らが京の朝廷を抱き込み、武力で天下を従えようとするならば、我らはこの房総から、全く新しい『民の国』を始める! 名を、江戸暫定政府とする!」
慶喜は、バルコニーの欄干を強く掴んだ。
「お上が民を支配する時代は、あの江戸の炎とともに灰となった! これより我らが創るのは、職人の腕が、商人の知恵が、そして汗して働くすべての民の命が、異国の脅威から対等に守られる国だ。私はその初代『総裁』として、世界の荒波からこの国を命がけで守り抜くことを、ここに宣言する!」
「うおおおおおおお!!」
地鳴りのような歓声が、館山の海を震わせた。
半次は涙を流しながら拳を天に突き上げ、お蓮はその半次の肩を叩きながら、眩しそうに慶喜を見上げていた。武士のための御一新ではない。自分たち地べたを這う民が主役となる、本当の「夜明け」がここにあると、誰もが直感していた。
バルコニーの影で腕を組んでいた勝海舟は、ニヤリと不敵に笑った。
「やりやがったな、上様……いや、総裁殿。これで薩長も、ただの『賊軍退治』の大義名分じゃ動けねえ。世界が認める、立派な一国の誕生だ」
同じ頃、北の大地。粉雪が舞い散る函館・五稜郭。
「……房総暫定政府、だと?」
大久保一蔵は、届けられた号外の紙を、指がちぎれんばかりの力で握りつぶした。
新政府軍は、北でフランス軍事顧問団を擁する榎本武揚の艦隊に大苦戦を強いられていた。兵糧は尽きかけ、兵たちの士気は底を突いている。その最中に、留守にした関東で、慶喜が「民衆を味方につけた新しい政府」を立ち上げたのだ。
「一蔵さぁ。もう、おいたちの負けじゃ」
西郷隆盛は、ストーブの火を見つめたまま、静かに首を振った。
「おいどんたちが京の朝廷の権威にしがみついている間に、慶喜公と勝先生は、イギリスの金と、江戸の民の執念を丸ごと味方につけちまった。官軍だの賊軍だのという古い物差しは、あの二人が海を渡った瞬間に、すべて叩き壊されていたとじゃ……」
大久保は、悔し涙を床に滴らせながら、激しく歯を食いしばった。
彼らが夢見た「薩長中心の近代国家」という絵図は、勝の焦土作戦と慶喜の亡命という、歴史の凄まじい「バグ」によって、完全に塵へと帰したのだ。
数日後。房総暂定政府の総裁室。
慶喜の元に、北の榎本武揚、そしてフランス公使ロッシュからの極秘の親書が届けられた。
『我が蝦夷共和国は、フランス帝国の承認の元、房総政府と不戦条約を結び、共に薩長を挟み撃ちにすることを提案する』
慶喜はその書状を静かに読み終えると、横に立つ山岡鉄舟に微笑みかけた。
「鉄舟、いよいよチェス盤の最後のコマが揃った。イギリスの資本、フランスの軍事力、そして我が房総の民の生命力……。これらをすべて等しく競い合わせ、日ノ本を列強の植民地化から永久に守り抜く。……これより、我らの真の建国が始まる」
燃え盛る江戸の灰の中から生まれた、誰も見たことのない「もう一つの日本」。
最後の将軍・徳川慶喜の、世界を巻き込んだ大博打は、ここに前代未聞の奇跡を成し遂げようとしていた。




