灰からの大政奉還
「……狂っている。君たち日本人は、全員狂っている!」
ハリー・パークスは激昂し、引き裂かれ海面へと舞い散る契約書の破片を、血走った目で見つめていた。周囲のイギリス海兵隊員たちが一斉に銃口を勝海舟と慶喜に向けるが、山岡鉄舟がその巨躯で慶喜の前に立ちはだかり、鋭い眼光でそれを威嚇する。
「カツ、君は最初から我が大英帝国を、資金と武器を運ぶだけの『都合のいい運び屋』として利用するつもりだったのか!」
「へっ、人聞きが悪いじゃございやせんか、公使」
勝海舟は懐に手を入れ、冷たい夜風に肩をすくめながらニヤリと笑った。
「お互い様でしょう。あんた方だって、上様を神輿にしてこの国を丸ごと植民地にしようって腹だったんだ。泥棒泥棒と騒ぎ立てる前に、周りをご覧なせえ。もうチェス盤のコマはひっくり返ってんだよ」
アイロンジック号を包囲する「を組海軍」の武装商船隊。その甲板からは、お蓮が率いる町火消や職人、そして最新式のスナイドル銃を構えた数万の民衆の地鳴り vote(咆哮)が、浦賀水道の夜霧を震わせていた。彼らの後ろ盾には、もはやイギリスの許可すら必要としない、圧倒的な経済力を誇る「新・江戸街」が存在している。
パークスは歯を食いしばり、目の前の徳川慶喜を睨みつけた。
ロンドンで世界の覇権を目の当たりにし、紳士の仮面を被った列強の貪欲さを誰よりも理解した男。その慶喜は、イギリスの仕立てたフロックコートを脱ぎ捨てるように、静かに前を見据えていた。
「パークス公使」
慶喜の声は、荒れ狂う海の上だというのに、驚くほど静かに、そして深く響いた。
「私は、二度とこの国を戦火で焼かせはせぬ。西郷が北へ向かい、フランスが蝦夷で躍る今、私が英国の操り人形として江戸城に入れば、日ノ本は永久に引き裂かれる。私は、私のやり方でこの国を一つにする」
慶喜は、アイロンジック号のタラップへ向かって歩き出した。
「これより私は、房総の民が築いた『新たなる江戸』へ入る。そこから、京の朝廷、そして北の榎本へ向かって、真の『大政奉還』を突きつける。異国の力を借りず、日ノ本の手で、全く新しい仕組みを作るのだ」
パークスは、もはや銃を撃てと命じることはできなかった。ここで慶喜を殺せば、目の前の私設艦隊と房総の百万の民が一斉にイギリスへの全面戦争を始める。それは、東洋の貿易拠点を失うという、英国にとっても最悪のシナリオだった。
「……見事な外交劇だ、タイクーン。だが、薩長が、そしてフランスがそれを許すかな」
パークスは忌々しそうに吐き捨て、望遠鏡を懐へと仕舞い込んだ。
数時間後、房総・館山の港。
アイロンジック号からカッターで上陸した徳川慶喜の足を迎えたのは、泥まみれの砂浜ではなく、整然と敷き詰められた石畳と、夜空を昼間のように照らし出す無数のガス灯の光だった。
「上様! よくぞ、よくぞご無事で……!」
出迎えたお蓮は、その場に膝をつき、藍染めの着物の袖で涙を拭った。その横では、半次が頭の手拭いを握りしめ、言葉にならない男泣きに暮れている。自分たちが命がけで街を焼き、この房総の地で泥水をすすりながら生き抜いてきたすべての苦労が、いま、この「最後の将軍」の帰還によって報われたのだ。
慶喜は、お蓮と半次の前に歩み寄り、その煤けた手を自らの手で力強く握りしめた。
「お蓮、半次。お前たちが作ったこの街こそが、これからの日ノ本の礎だ。武士の時代は終わった。これからは、お前たち民の手で、世界と対等に渡り合う新しい時代を始める」
慶喜の背後には、山岡鉄舟、そして勝海舟が並び立つ。
お上の庇護を失った民衆の生命力と、世界を見て帰ってきた将軍の知略が、いま、房総の地で完全に一つに融合した。
その頃、北の大地、函館・五稜郭。
「何だと……! 慶喜公が、房総へ帰還されただと!?」
新政府軍の本陣で、西郷隆盛は届けられた電信の紙を握りしめ、巨躯を震わせて立ち上がった。
目の前では、フランス軍事顧問団に守られた榎本武揚の艦隊と、長州・薩摩の精鋭たちが血みどろの局地戦を繰り広げている最中だった。
北の戦場へ新政府の全力を投入させたのは、すべて勝海舟の、そして徳川慶喜の描いた、巨大な「罠」だったのだ。
空っぽの江戸城を獲り、北でフランスと不毛な戦いを続ける新政府。
そして、イギリスの資本と民衆の力を完全に手中に収め、房総から新たな「日本の中心」を宣言せんとする徳川亡命政府。
「勝先生……慶喜公……。おいどんたちは、完全にハメられたな」
西郷の大きな瞳から、ぽつりと一滴の涙がこぼれ落ち、五稜郭の土を濡らした。
歴史のバグは、もはや修正不能なレベルにまで達し、日ノ本は誰も見たことのない、全く新しい夜明けへと突き進んでいく。
(第19話へ続く)




