果てなき海の夜明け
慶応四年、十二月。
房総の海を吹き抜ける冬の風は冷たかったが、館山の港を埋め尽くす人々の熱気は、それを微塵も感じさせなかった。
白壁の議事堂から始まった「房総暫定政府」の政は、いまや日ノ本全体の勢力図を完全に塗り替え、誰もが予想し得なかった大団円へと向かっていた。
北の函館・五稜郭でフランスを後ろ盾に孤立していた榎本武揚の「蝦夷共和国」は、慶喜が提示した『独立自尊・南北連邦構想』を受け入れ、房総政府との事実上の合流を決定。これによって、北の強力な海軍力とフランスの軍事技術が、そのまま慶喜の手中に収まることとなった。
四方から完全に外交的・経済的に干上がらされた薩長の新政府軍は、ついに灰の都・江戸城を退去。西郷隆盛と大久保一蔵は、京の朝廷を守るべく西へと撤退を余儀なくされ、日ノ本は「武力による統一」ではなく、「民衆の経済力と外交の均衡」によって、奇跡的な平和を手に入れたのである。
抜けるような冬の青空の下、館山の波止場。
イギリスへと帰還するアイロンジック号のタラップの前で、ハリー・パークスはシルクハットを胸に当て、徳川慶喜に向かって深く一礼した。
「見事な外交劇だった、トクガワ総裁。我が大英帝国が、よもや極東の小さな半島で、ここまで完璧に出し抜かれるとは夢にも思わなかったよ」
パークスの言葉には、敗北の悔しさよりも、一人の超一流の政治家に対する純粋な敬意が混ざっていた。イギリスは日本の植民地化には失敗したが、房総政府との間に「対等かつ莫大な国益を生む自由貿易条約」を結ぶことには成功していた。
慶喜は、フロックコートのポケットに手を入れ、静かに微笑んだ。
「パークス公使、貴殿がロンドンで私に世界の広さを教えてくれたからこそ、今の私がある。我が房総政府は、これからも英国の、そして世界の良き友であり続けるだろう」
二人は力強く握手を交わした。アイロンジック号が黒い煙を上げてゆっくりと外洋へ向けて動き出すと、港に集まった数万の民衆から、国境を越えた歓声と拍手が沸き起こった。
波止場の賑わいから少し離れた海岸線。
お蓮と半次は、並んで遠ざかるイギリスの軍艦を見つめていた。
「終わったんだねぇ、半次」
お蓮は、藍染めの半纏を肩にかけ、キセルに火をつけながらポツリと言った。
「ああ。お上のいない、俺たちの新しい街が、本当に日ノ本の真ん中になっちまった」
半次は、傷だらけになった自分の手のひらを見つめ、それから新・江戸街の誇らしいガス灯の街並みを振り返った。
「街を焼いたときはどうなるかと思ったけどよ……。人間、生きてりゃあ何だって作り直せるんだな、姉さん」
「当たり前さ、江戸っ子を舐めるんじゃないよ」
お蓮は紫煙をくゆらせ、ニッと笑った。
「お上も、お武家様も、異国の大使様も関係ない。これからは、あたしたちがこの手で、世界中で一番でっかくて面白い国を作ってやるのさ!」
二人の笑い声が、房総の潮騒に溶けていく。
議事堂のテラス。
勝海舟は、冷えた空気の中で腕を組み、静かに海を眺めていた。
「勝先生、見事な盤面にございましたな」
背後から歩み寄ってきた山岡鉄舟が、深く頭を下げた。
「へっ、俺が仕掛けたのは、江戸に火をつけたところまでさ」
勝は懐からメキシコドルを一枚取り出し、親指でピンと弾いた。コインは冬の陽光を浴びてキラキラと輝き、再び勝の手のひらへと収まる。
「あとは、上様が世界の真ん中で命がけの博打を踊りきり、地べたの民衆が意地を見せた。それだけのことよ。……さあて、鉄舟。歴史の教科書がひっくり返るような新しい時代だ。退屈してる暇はねえぞ」
テラスの最前線に立つ徳川慶喜の瞳には、荒れ狂う太平洋の向こう、無限に広がる世界の海が映し出されていた。
征夷大将軍という古い殻を焼き捨て、世界を欺き、民とともに立ち上がった最後の男。
彼の紡いだ誰も知らない「もう一つの維新」は、いま、果てなき海の向こうから差し込む、大いなる夜明けの光の中に、完全なる完成を迎えたのだった。




