第9話 町を出る前に持っていけるもの
五日目の昼、港町ルメラには、風の向きが変わる前の妙な静けさがあった。
雲は薄く流れているのに、陽はきちんと差している。寒いことは寒いのだが、昨日までの冷たさと違って、どこか遠くで雪をため込んでいるような空気だった。ワニャマは店先の黒板へ、その日の入荷本を書きながら、通りを行き交う人の顔を眺めていた。皆、いつもどおり歩いているのに、襟元だけが少し早めに閉じられている。町は、天気が崩れる前にそれを知る。
昼の《星階堂》は、ここ数日で目に見えて客の滞在が長くなった。本を買う人が増えたというより、少し腰をおろしていく人が増えたのだ。立ち読みのついでに窓の外を見たり、棚の前で二冊のあいだを迷ったり、会計のあとに一言だけ近況を置いていったりする。夜の灯りが、昼の居心地まで少し変えたのかもしれない。
「表、少し右に傾いています」
振り返ると、キャンディが戸口に立っていた。手には白い封筒と、焼き菓子の小箱。挨拶より先に黒板の角度を見ているあたりが、いかにも彼女らしい。
「本当だ」
ワニャマが黒板を直すと、
「今日は素直です」
と彼女は言った。
「もう鍛えられてきたからな」
「よい傾向です」
店へ入ってきた彼女は、すぐに小箱を机へ置いた。だが封筒だけは手に持ったままだった。白い紙が、妙に指先へ馴染んでいない。封を切る前から、そこに書いてあることを知っている人の持ち方だった。
「それ、返事か」
ワニャマが訊くと、
「まだ読んでいません」
とキャンディは答えた。
「でも、差出人は見ました」
封筒の左上には、ルメラから列車で半日ほど離れた大都市ベルヴァンの店名があった。菓子職人なら誰でも知っている名店だ。焼き色の薄い飴細工と、季節ごとの果実菓子で評判の店。数年前に雑誌で写真を見たことがある。飴が宝石みたいに光っていて、ワニャマは食べ物というより、眺めるものに近いと思った記憶があった。
「開けないのか」
「後ででも中身は同じです」
「そうだけど」
「開けたら、何かが決まった顔をしそうで」
キャンディは、そこまで言ってから少しだけ眉を寄せた。いつもなら整えにかかる前の顔だ。けれど今日は、乱れたものを見つけたのが外ではなく、自分の中らしかった。
そのとき、戸口のベルが鳴った。
入ってきたのはトリエネットだった。肩までの髪を後ろでまとめ、寒さに頬を赤くしている。普段は広場で踊ったり、祭りの余興で笛を吹いたりしている娘で、町の子どもたちにはすでに人気者だ。けれど今日は、その目がどこか落ち着かなかった。
「聞いてください」
彼女は入ってくるなり言った。
「まだ何も聞いてない」
とワニャマが返すと、
「では今から聞いてください」
トリエネットは、懐から紙を出した。折り目だらけで、何度も開いては閉じたことが一目でわかる。
「旅芸人一座の春巡業、補欠じゃなくて本採用でした」
「すごいじゃないか」
「すごいですね」
キャンディも素直に言った。
「よかったじゃないですか」
なのに、当の本人は胸を張らない。
嬉しくないわけではない。むしろ嬉しすぎて、その形をうまく持て余しているように見えた。
「出発は来月です」
トリエネットは言う。
「それで?」
「それで、すごく行きたいです」
「うん」
「でも、行ったら、ここの人たちに悪い気がして」
その気持ちは、店の中へ入ったとたん少しだけ温まり、けれど消えずに残ったらしい。トリエネットは椅子へ座る前から、立ったまま揺れていた。
ワニャマは奥の席を勧め、キャンディはすぐに温かい林檎茶を用意した。赤く煮た林檎の薄切りが一枚、カップの中でゆっくり沈む。甘すぎず、湯気にだけやわらかさがある飲み物だ。
「悪い、って誰に」
ワニャマが訊くと、
「この町に」
トリエネットは即答した。
「広場で練習してると、魚屋のおばさんが笑ってくれるし、仕立屋の親父さんは衣装の裾をただで直してくれるし、子どもたちは下手でも拍手してくれるし」
「下手なの?」
とワニャマが言うと、
「そこそこです」
とトリエネットは言った。
「でも、ここで育ったのに、もっと大きい舞台へ行きたいと思ってる自分が、ちょっと薄情な感じがして」
キャンディは封筒を机の端へ置き、トリエネットの前へ紙ナプキンをまっすぐ置いた。
「持っていけるものまで置いていく必要はないです」
トリエネットが目を上げる。
その顔を見て、ワニャマはその言葉が、ただの思いつきではなく、彼女の内側から出てきたものだとわかった。
「……何ですか、それ」
「昔、私がもらった紙切れに似た言葉です」
キャンディは少しだけ考え、続けた。
「たぶん、町を出るのと、町を捨てるのは別です」
ワニャマは棚の奥から、旅の記録を集めた薄い本を一冊取り出した。海の向こうの街路、移動一座の寝台車、見世物小屋の裏側、地方の小さな広場で拍手をもらった夜のこと。実用書でも案内書でもない、誰かの移動の跡がそのまま文章になった本だ。
「これ、貸す」
「旅の指南書ですか」
「違う。帰ってくる場所があるまま、出ていった人の話」
トリエネットは受け取った本の表紙を撫でた。
「帰ってきてもいいんですかね」
「だめな理由ある?」
ワニャマが言う。
「一度出たら、ずっと立派に外で生きてなきゃいけない気がして」
「誰が決めた」
「私です」
「じゃあ、変えていい」
その答えを口にしたあと、ワニャマは少し驚いた。三日前までの自分なら、こんなにすらすら言えなかった気がしたからだ。誰かに言う言葉は、たいてい自分がいちばん欲しかった言葉なのかもしれない。
トリエネットは林檎茶を一口飲み、ほっと息をついた。
「温かい」
「迷ったら、温かいところへ、です」
キャンディがそう言うと、トリエネットは笑った。
「この店、言葉があったかいですね」
「飲み物もです」
「それは知ってます」
昼の光が少し傾いたころ、トリエネットはやっと肩の力を抜いた。出発を決めた顔ではなく、出発しても戻ってきていいと知った顔だった。
「受かったこと、ちゃんと嬉しがっていいですか」
「もちろん」
「出ていくこと、少し寂しがっても?」
「もちろんです」
キャンディの返事は迷いがなかった。
そのやり取りを聞きながら、ワニャマは机の上の白い封筒へ目をやった。
まだ開かれていない。けれど、その紙が置かれているだけで、店の空気は少し細く張っている。トリエネットの話が、今度は別の場所へ刺さっていることを、たぶん本人たちもわかっていた。
トリエネットが帰ったあと、店の中はしばらく静かだった。
キャンディはようやく封筒を手に取った。刃物を使わず、指先で端をきれいに開く。そういうところまで雑にしない。紙を傷つけずに読むためではなく、読む前の自分を傷つけたくないみたいに見えた。
数行、目で追う。
そのあいだに、ワニャマは本棚の整理をしているふりを二回した。
「どうだった」
訊いた声が思ったより低くなってしまった。キャンディは便箋を折り直し、封筒へ戻さず手元に置いた。
「正式なお誘いでした」
「そうか」
「見習いではなく、最初から仕込みの担当に入れてくださるそうです」
「すごいな」
「はい」
すごい。まったくそのとおりなのに、その言葉を言った途端、胸のあたりがひどく乾いた。祝うべきことだ。ほんとうにそう思う。けれど、祝うことと、惜しいと思うことは同じ場所で起きるらしい。
キャンディは視線を落としたまま、便箋の角を揃えた。
「返事は、明日の夜までに」
その期限が、店の床へ見えない線を一本引いた気がした。七晩だけの営業。その五日目。ここから先は、何もかも少しずつ決まっていく。
「行きたい?」
ワニャマは、できるだけ普通に訊いた。
キャンディはすぐに答えなかった。
答えないこと自体が、もう答えの半分みたいだった。
「昔の私なら、迷わなかったと思います」
彼女は静かに言う。
「何でも整っていて、学べることが多くて、ちゃんと厳しいところへ行くべきだと」
「今は?」
「今は、整っていない場所にも、整えていく意味があると知ってしまいました」
その「知ってしまいました」の語尾が、少しだけ困っていた。
ワニャマは棚へ向いたまま、背表紙の順番を意味もなく直した。
引き留めたい。けれど引き留める資格がどこから来るのかがわからない。この店はまだ仮の灯りだ。七晩で終わるかもしれない場所に、誰かの夢を縛ることはできない。
「トリエネットには、帰ってきていいって言ったのに」
キャンディが小さく言った。
「自分には言えないんですか」
ワニャマが返す。
「……そういうところが嫌です」
自分で自分に厳しい人がそう言うと、叱っているのか、助けを求めているのか判別が難しい。ワニャマは考えた末、まっすぐなことしか言えなかった。
「嫌でも、今そう思ってるなら、それが本当なんだろうな」
キャンディは少しだけ目を見開いたあと、ふっと息を吐いた。
「曖昧な励ましが下手ですね」
「得意じゃない」
「でも、今のは助かりました」
夕方前、彼女は封筒を鞄へしまった。きっちり角を揃え、折り目が増えないように入れる。決めていない人の手つきではあったが、逃げている人の手つきではなかった。
帰り際、戸口で立ち止まり、キャンディは振り返った。
「今夜も開けますよね」
「開ける」
「では、焼き菓子を少し多めに持ってきます」
それだけ言って出ていく。
石畳の上の足どりは、朝より少し重い。けれど、迷っている重さは、立ち止まっている重さとは違うのだと、ワニャマはようやくわかり始めていた。
机の上には、トリエネットが茶代の代わりに置いていった小さな羽根飾りが残っていた。
誰かが町を出る話をしたあとで、それが置かれていると、不思議と寂しさよりも、続きのある別れに見えた。




