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真夜中の喫茶店《蒼いコイン》――古書店に灯る七晩の約束  作者: 乾為天女


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10/11

第10話 説明会帰りの人たちが冷えた夜

 五晩目の夜、店の空気は開ける前から少し重かった。


 通りの会館で、再整備に関する二度目の説明会があったのだ。昼から集まっていた人たちは、建物の補修、景観の統一、申請書類、持ち主不明の倉庫、立ち退き補助、保存対象の条件について、閉館ぎりぎりまで言い合っていたらしい。会館の前を通ったモイシュテッターによれば、出てきた人たちの肩は、寒さより先に数字で冷えていたという。


 ワニャマは開店の支度をしながら、昼に読み返した資料の一文を思い出していた。


 歴史的価値があり、現に地域貢献へ資する営業実績があり、なおかつ継続意思が確認できる建物については、個別保存申請の対象とする場合がある。


 「場合がある」という書き方が嫌だった。救いのようにも、逃げ道のようにも読める。そこへ本気で手を伸ばすには、意思も実績も、紙へ書ける形で揃えなければならない。


 「手が止まっています」


 キャンディが、焼き菓子の皿を並べながら言った。

 「止まってた?」

 「砂糖壺の横で」

 「またそこか」

 「そこです」


 彼女は、そう言いながらも少し疲れて見えた。昼の封筒のことを、二人とも口にしなかった。言葉にすれば、今夜の空気までそちらへ引っ張られそうだったからだ。


 零時を少し過ぎると、説明会帰りの客がぽつぽつ現れ始めた。


 最初に入ってきたのは、古本を年に一冊しか買わないのに、来るたび本棚の将来を心配してくれる薬局の老主人。次に、通りの角で日用品を売っている姉妹。さらに、会館の後片づけを押しつけられて帰りが遅くなった若い事務員。皆、肩へ説明会の空気をそのまま背負っている。


 「ここ、立ち退きになるんですか」

 事務員の青年が、珈琲を受け取りながらそう訊いた。

 「まだ決まってない」

 ワニャマは答える。

 「でも、申請に必要なものが揃わなければ、残しにくいとも書いてあった」

 「つまり、どっちとも言える書き方だったんですね」

 「そう」

 「嫌ですねえ、そういう文章」


 薬局の老主人が鼻で笑う。

 「文章が嫌なんじゃない。ああいう文章で人を急がせるやり方が嫌なんだ」


 姉妹の妹のほうが、焼き菓子を半分に割って姉へ渡しながら言った。

 「でも、保存申請って、実績がいるんでしょう。ここ、最近は夜もやってるじゃない」

 「七晩だけです」

 キャンディが即座に補足した。

 「今のところは」


 「今のところ」という言い方に、ワニャマは一瞬だけ視線を上げた。

 彼女は焼き菓子の位置を直すふりをしていて、こちらを見ていない。見ていないのに、その一言はちゃんと胸へ届いた。


 客たちは説明会で聞いたことを、それぞれの言い方で持ち込んだ。


 建物の取り壊しがもう決まったらしい、という噂。

 いや、全部ではなく、持ち主が手放したところから順に整理されるらしい、という噂。

 申請が通れば昔の看板も残せるらしい、という話。

 申請するだけ金がかかるらしい、という話。


 噂は、話し手の不安の形に似る。

 ワニャマは聞きながら、どれも半分だけ本当で、半分だけ人の怯えだと思った。


 「結局、残すなら残す理由を、ちゃんと見える形で出せってことだろうね」


 そう言ったのは、いつのまにか入ってきていたトフィグだった。濡れていないのに、なぜかいつも工房の油の匂いがする。彼は席へつく前に、店の入口のベルを見上げた。


 「また少し傾いてる」

 「お前まで言うのか」

 「修理屋だからな」


 トフィグは珈琲を受け取り、暖炉代わりの小さな火鉢の近くへ腰を下ろした。説明会帰りの人々が持ち込んだ紙束を、頼まれてもいないのに覗き込む。


 「ほらここ」

 彼は細い指で資料の欄外を叩いた。

 「継続営業の意思、地域への具体的な貢献、建物の由来がわかる補足資料。逆に言うと、それが揃えば“ただ古い店”じゃなくなる」

 「揃えばな」

 ワニャマが言うと、

 「揃ってないのか」

 「建物の由来を示す決定打が足りない。祖父の残した帳面はあるけど、正式な控えや由来書きみたいなものが見当たらない」

 「ふうん」


 トフィグはそれ以上慰めなかった。代わりに、卓へ並べてある紙片のほうへ目を向けた。


 大切なものをあなたに。

 迷ったら、温かいところへ。

 選ぶ力まで、奪わないで。

 できたことは、誰かに渡せる。


 「増えたな」

 「少しずつ」

 「まだ途中だ」


 「見ればわかる」

 ワニャマが言うと、

 「見たから言ってる」

 トフィグは肩をすくめた。

 「途中のものって、だいたい裏返すと続きがある」


 その一言で、ワニャマは紙片をすべて手に取った。昼に何度も見たはずの裏面を、今夜は改めて並べる。薄い擦れ跡、数字とも記号ともつかない印、線の欠け方。トフィグは珈琲を片手に、まるで壊れた玩具の部品でも組み直すみたいに、紙をくるくる向きを変え始めた。


 「これ、文字の裏じゃない」

 「じゃあ何だ」

 「棚の段と柱の間隔だろ」


 彼は店の奥を指差した。

 「左から三本目の柱、下から二段目、でも本棚じゃなくて、そのさらに裏側」


 「裏側?」

 キャンディが眉を上げる。

 「そんな隙間ありますか」

 「あるかも」

 ワニャマはゆっくり言った。

 「祖父が触らせなかった棚の奥が、妙に深い」


 そのとき、説明会帰りの姉妹が顔を見合わせた。

 「何か宝でも出るんですか」

 「出ても古い書類だろ」

 「宝じゃないですか、それ」

 妹のほうが言うと、店の空気が少しだけ和んだ。


 だがワニャマの胸は逆にざわついた。もし本当にそこへ何かあるなら、祖父は見つけてほしかったのか、それとも最後まで伏せたかったのか。紙切れが導いている以上、前者なのだろうが、残された側は勝手に緊張する。


 客足が少し引いたころ、今度はモイシュテッターが入ってきた。背中の熱い箱から、温かい豆のスープの匂いが漏れている。


 「夜勤の余り」

 そう言って、彼は人数分の小さな器を出した。

 「会館帰りは腹が冷える」


 説明会のせいで空気だけが冷えていた卓へ、湯気の立つ器が並ぶ。薬局の老主人が一口飲み、黙ってうなずいた。姉妹は姉妹で顔を見合わせ、「これは黙るやつだ」と言って本当に黙った。


 温かいものがあると、人は少しだけ本音の置き方を思い出す。


 「残るといいねえ、この店」


 ぽつりとそう言ったのは、会館の後片づけをしていた青年だった。

 「説明会の帰りって、何か全部数字にされる感じがして」

 彼は器を両手で包む。

 「でも、こういう店って、数字に入ってない疲れを何とかしてる気がするんです」


 ワニャマは返事ができなかった。

 嬉しいのに、その言葉を受け取る手がまだ自分の中に育っていない。


 キャンディが代わりに言った。

 「そういうのを、地域への具体的な貢献と言うのかもしれません」

 「紙に書くと急に堅いな」

 トフィグが笑う。

 「でも、書ける形にしないと、あいつらには伝わらない」


 深夜一時を回り、客たちが一人ずつ帰っていったあと、店にはいつもの顔ぶれだけが残った。

 ワニャマ、キャンディ、トフィグ、モイシュテッター。


 四人で店の奥の棚の前へ立つ。

 祖父が長く触らせなかった一角。詩集と旅行記、その後ろの板が、確かにほかよりわずかに深い。


 トフィグはためらいなく、本を抜き、柱の下端を指で探った。

 「ここ、段差ある」

 「嘘だろ」

 「修理屋を信じろ」


 彼が古い木の縁へ爪をかけると、薄い板が、乾いた息みたいな音を立てて少しだけ浮いた。

 隠し棚だった。


 中は真っ暗で、手を入れるには細すぎる。だが奥から冷たい空気が出てくる。ただの物入れではない。もっと先へ空間が続いている気配だった。


 「今夜はここまでにしましょう」


 キャンディが先に言った。

 「暗い中で慌てて壊すと、後で後悔します」

 「珍しく同感」

 トフィグもあっさり頷く。

 「こういうのは、明るいときのほうがいい」


 ワニャマは浮いた板をそっと戻した。心臓だけが、その裏側へ置き忘れられたみたいに落ち着かない。


 閉店後、紙片をもう一度並べる。

 今夜、新しい一文は見つからなかった。けれど、今までの四つが、ただ励ますための言葉ではなく、どこかへ導くための地図だったのだと、ようやくわかった。


 「明日、開けますよね」

 キャンディが外套を羽織りながら言う。

 「昼から」

 「開ける」

 ワニャマは答えた。

 「たぶん、明日でいろいろ変わる」


 彼女は戸口で一度だけ足を止めた。

 「もう、変わっています」

 それだけ言って外へ出る。


 ワニャマは、閉まった戸を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 説明会帰りの人々が置いていった不安。

 温かいスープの湯気。

 隠し棚の向こうの冷たい空気。

 そして、返事の期限が近づいている白い封筒。


 今夜は、誰かの心が冷えたまま終わらないようにするので精一杯だった。

 けれど、その積み重ねこそが、いま必要な実績なのかもしれないと、ワニャマは遅れて気づき始めていた。



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