第10話 説明会帰りの人たちが冷えた夜
五晩目の夜、店の空気は開ける前から少し重かった。
通りの会館で、再整備に関する二度目の説明会があったのだ。昼から集まっていた人たちは、建物の補修、景観の統一、申請書類、持ち主不明の倉庫、立ち退き補助、保存対象の条件について、閉館ぎりぎりまで言い合っていたらしい。会館の前を通ったモイシュテッターによれば、出てきた人たちの肩は、寒さより先に数字で冷えていたという。
ワニャマは開店の支度をしながら、昼に読み返した資料の一文を思い出していた。
歴史的価値があり、現に地域貢献へ資する営業実績があり、なおかつ継続意思が確認できる建物については、個別保存申請の対象とする場合がある。
「場合がある」という書き方が嫌だった。救いのようにも、逃げ道のようにも読める。そこへ本気で手を伸ばすには、意思も実績も、紙へ書ける形で揃えなければならない。
「手が止まっています」
キャンディが、焼き菓子の皿を並べながら言った。
「止まってた?」
「砂糖壺の横で」
「またそこか」
「そこです」
彼女は、そう言いながらも少し疲れて見えた。昼の封筒のことを、二人とも口にしなかった。言葉にすれば、今夜の空気までそちらへ引っ張られそうだったからだ。
零時を少し過ぎると、説明会帰りの客がぽつぽつ現れ始めた。
最初に入ってきたのは、古本を年に一冊しか買わないのに、来るたび本棚の将来を心配してくれる薬局の老主人。次に、通りの角で日用品を売っている姉妹。さらに、会館の後片づけを押しつけられて帰りが遅くなった若い事務員。皆、肩へ説明会の空気をそのまま背負っている。
「ここ、立ち退きになるんですか」
事務員の青年が、珈琲を受け取りながらそう訊いた。
「まだ決まってない」
ワニャマは答える。
「でも、申請に必要なものが揃わなければ、残しにくいとも書いてあった」
「つまり、どっちとも言える書き方だったんですね」
「そう」
「嫌ですねえ、そういう文章」
薬局の老主人が鼻で笑う。
「文章が嫌なんじゃない。ああいう文章で人を急がせるやり方が嫌なんだ」
姉妹の妹のほうが、焼き菓子を半分に割って姉へ渡しながら言った。
「でも、保存申請って、実績がいるんでしょう。ここ、最近は夜もやってるじゃない」
「七晩だけです」
キャンディが即座に補足した。
「今のところは」
「今のところ」という言い方に、ワニャマは一瞬だけ視線を上げた。
彼女は焼き菓子の位置を直すふりをしていて、こちらを見ていない。見ていないのに、その一言はちゃんと胸へ届いた。
客たちは説明会で聞いたことを、それぞれの言い方で持ち込んだ。
建物の取り壊しがもう決まったらしい、という噂。
いや、全部ではなく、持ち主が手放したところから順に整理されるらしい、という噂。
申請が通れば昔の看板も残せるらしい、という話。
申請するだけ金がかかるらしい、という話。
噂は、話し手の不安の形に似る。
ワニャマは聞きながら、どれも半分だけ本当で、半分だけ人の怯えだと思った。
「結局、残すなら残す理由を、ちゃんと見える形で出せってことだろうね」
そう言ったのは、いつのまにか入ってきていたトフィグだった。濡れていないのに、なぜかいつも工房の油の匂いがする。彼は席へつく前に、店の入口のベルを見上げた。
「また少し傾いてる」
「お前まで言うのか」
「修理屋だからな」
トフィグは珈琲を受け取り、暖炉代わりの小さな火鉢の近くへ腰を下ろした。説明会帰りの人々が持ち込んだ紙束を、頼まれてもいないのに覗き込む。
「ほらここ」
彼は細い指で資料の欄外を叩いた。
「継続営業の意思、地域への具体的な貢献、建物の由来がわかる補足資料。逆に言うと、それが揃えば“ただ古い店”じゃなくなる」
「揃えばな」
ワニャマが言うと、
「揃ってないのか」
「建物の由来を示す決定打が足りない。祖父の残した帳面はあるけど、正式な控えや由来書きみたいなものが見当たらない」
「ふうん」
トフィグはそれ以上慰めなかった。代わりに、卓へ並べてある紙片のほうへ目を向けた。
大切なものをあなたに。
迷ったら、温かいところへ。
選ぶ力まで、奪わないで。
できたことは、誰かに渡せる。
「増えたな」
「少しずつ」
「まだ途中だ」
「見ればわかる」
ワニャマが言うと、
「見たから言ってる」
トフィグは肩をすくめた。
「途中のものって、だいたい裏返すと続きがある」
その一言で、ワニャマは紙片をすべて手に取った。昼に何度も見たはずの裏面を、今夜は改めて並べる。薄い擦れ跡、数字とも記号ともつかない印、線の欠け方。トフィグは珈琲を片手に、まるで壊れた玩具の部品でも組み直すみたいに、紙をくるくる向きを変え始めた。
「これ、文字の裏じゃない」
「じゃあ何だ」
「棚の段と柱の間隔だろ」
彼は店の奥を指差した。
「左から三本目の柱、下から二段目、でも本棚じゃなくて、そのさらに裏側」
「裏側?」
キャンディが眉を上げる。
「そんな隙間ありますか」
「あるかも」
ワニャマはゆっくり言った。
「祖父が触らせなかった棚の奥が、妙に深い」
そのとき、説明会帰りの姉妹が顔を見合わせた。
「何か宝でも出るんですか」
「出ても古い書類だろ」
「宝じゃないですか、それ」
妹のほうが言うと、店の空気が少しだけ和んだ。
だがワニャマの胸は逆にざわついた。もし本当にそこへ何かあるなら、祖父は見つけてほしかったのか、それとも最後まで伏せたかったのか。紙切れが導いている以上、前者なのだろうが、残された側は勝手に緊張する。
客足が少し引いたころ、今度はモイシュテッターが入ってきた。背中の熱い箱から、温かい豆のスープの匂いが漏れている。
「夜勤の余り」
そう言って、彼は人数分の小さな器を出した。
「会館帰りは腹が冷える」
説明会のせいで空気だけが冷えていた卓へ、湯気の立つ器が並ぶ。薬局の老主人が一口飲み、黙ってうなずいた。姉妹は姉妹で顔を見合わせ、「これは黙るやつだ」と言って本当に黙った。
温かいものがあると、人は少しだけ本音の置き方を思い出す。
「残るといいねえ、この店」
ぽつりとそう言ったのは、会館の後片づけをしていた青年だった。
「説明会の帰りって、何か全部数字にされる感じがして」
彼は器を両手で包む。
「でも、こういう店って、数字に入ってない疲れを何とかしてる気がするんです」
ワニャマは返事ができなかった。
嬉しいのに、その言葉を受け取る手がまだ自分の中に育っていない。
キャンディが代わりに言った。
「そういうのを、地域への具体的な貢献と言うのかもしれません」
「紙に書くと急に堅いな」
トフィグが笑う。
「でも、書ける形にしないと、あいつらには伝わらない」
深夜一時を回り、客たちが一人ずつ帰っていったあと、店にはいつもの顔ぶれだけが残った。
ワニャマ、キャンディ、トフィグ、モイシュテッター。
四人で店の奥の棚の前へ立つ。
祖父が長く触らせなかった一角。詩集と旅行記、その後ろの板が、確かにほかよりわずかに深い。
トフィグはためらいなく、本を抜き、柱の下端を指で探った。
「ここ、段差ある」
「嘘だろ」
「修理屋を信じろ」
彼が古い木の縁へ爪をかけると、薄い板が、乾いた息みたいな音を立てて少しだけ浮いた。
隠し棚だった。
中は真っ暗で、手を入れるには細すぎる。だが奥から冷たい空気が出てくる。ただの物入れではない。もっと先へ空間が続いている気配だった。
「今夜はここまでにしましょう」
キャンディが先に言った。
「暗い中で慌てて壊すと、後で後悔します」
「珍しく同感」
トフィグもあっさり頷く。
「こういうのは、明るいときのほうがいい」
ワニャマは浮いた板をそっと戻した。心臓だけが、その裏側へ置き忘れられたみたいに落ち着かない。
閉店後、紙片をもう一度並べる。
今夜、新しい一文は見つからなかった。けれど、今までの四つが、ただ励ますための言葉ではなく、どこかへ導くための地図だったのだと、ようやくわかった。
「明日、開けますよね」
キャンディが外套を羽織りながら言う。
「昼から」
「開ける」
ワニャマは答えた。
「たぶん、明日でいろいろ変わる」
彼女は戸口で一度だけ足を止めた。
「もう、変わっています」
それだけ言って外へ出る。
ワニャマは、閉まった戸を見つめたまま、しばらく動けなかった。
説明会帰りの人々が置いていった不安。
温かいスープの湯気。
隠し棚の向こうの冷たい空気。
そして、返事の期限が近づいている白い封筒。
今夜は、誰かの心が冷えたまま終わらないようにするので精一杯だった。
けれど、その積み重ねこそが、いま必要な実績なのかもしれないと、ワニャマは遅れて気づき始めていた。




