第8話 記憶のいい男は恋の始まりも見逃さない
四晩目の夜は、店へ入ってくる空気が少しだけ軽かった。
雨上がりのあとに風が洗われたせいか、戸口を開けても寒さがまっすぐ刺してこない。石畳はまだところどころ濡れているが、空の色は深く澄み、港の灯が遠くまで見えた。
ワニャマは、今夜の焼き菓子を並べながら、昼のタルトの残り香を思い出していた。焦がし林檎の匂いは、店の木の匂いと相性がよかった。少しだけ苦くて、あとから甘い。誰かの記憶みたいな匂いだと思う。
キャンディは開店前から来て、いつものように卓の間隔を半寸単位で直していた。椅子の向き、皿の重なり、布のたるみ。目を凝らさなければわからない差なのに、直し終わると、店全体の息のしやすさが変わる。
「今夜は何が違う」
ワニャマが尋ねると、
「左の卓だけ、ほんの少し通路へ寄っていました」
と彼女は言う。
「誰も気づかないと思う」
「気づかなくても、通りにくいものは通りにくいです」
その理屈が、なぜか人の気持ちにも当てはまりそうで、ワニャマはそれ以上言えなくなった。
零時少し前、ベルが鳴った。入ってきたのはラウリツだった。外套の襟をきちんと立て、片手に古本の包みを持っている。通りでは配本の手伝いをしたり、帳場の計算を代わったり、何かと人の不足を埋める顔として知られていた。
彼は記憶がいい。いや、いいという言い方では足りないかもしれない。一度会った相手の癖や、誰がどの本をいつ買ったかまで、当人より先に思い出すことがある。だから頼りにされるし、時々少しだけ怖がられる。
「やあ」
ラウリツは店内を見回し、すぐに頷いた。
「四晩目にして、だいぶ店らしくなったね」
「採点が早いな」
「正確と言ってほしい」
彼は包みをカウンターへ置いた。
「返却。三年前に借りたままになっていた小説」
「三年?」
「祖父さんには許可をもらっていた」
「ずいぶん長いな」
「読むたびに違う箇所で泣いたから」
そんな理由の延滞があるのかとワニャマが思っていると、ラウリツは自然にいちばん奥の席へ座った。そこがこの店で、最も全体を見渡しやすい場所だと知っている人の動きだった。
「珈琲でいいか」
「そうだね。君がキャンディの前で迷わず砂糖を一つで出せるなら」
ワニャマの手が止まった。
「何の話だ」
「おや、気づいてないふりをするのか」
「何を」
「彼女がいる夜は、君、砂糖壺の前で一拍長い」
キャンディが皿を拭く手を止めた。
「そうなんですか」
「知らない」
ワニャマは即座に否定したが、ラウリツは涼しい顔で続ける。
「一晩目は二つ入れかけてやめた。二晩目は何も入れずに、あとで自分で足した。三晩目は最初から別添え」
「見すぎだろ」
「見ているとも。記憶の仕事だからね」
キャンディは少しだけ目を細め、それから平然と砂糖壺の位置を半寸だけずらした。
「今夜も別添えにしましょう」
「助かる」
「何が助かるんだ」
ラウリツが楽しそうに言う。
ワニャマは返事の代わりに珈琲を置いた。ラウリツは一口飲み、すぐに真顔へ戻った。
「で、今日は笑いに来た半分、話しに来た半分だ」
「何の」
「その紙のこと」
カウンターの内側へ立てかけてある紙片を見て、彼は少しだけ表情を和らげた。
「その字、覚えている」
ワニャマとキャンディは顔を見合わせた。
「どこで」
ワニャマが問う。
「十年くらい前かな。冬の終わりだった。まだ君が、今よりもっと寝起きの悪い子どもだったころ」
「そこは余計だ」
「重要な時代情報だよ」
ラウリツは肩をすくめたあと、続きを話した。
ある夕方、《星階堂》へ小さな女の子が入ってきたこと。泣いた顔を見られたくないのか、料理本の棚の前で、ずっと背中を向けていたこと。祖父は何も急かさず、店の奥で湯を沸かしていたこと。やがてその子が、一冊の料理本と、何か挟まった紙を胸に抱えて帰っていったこと。
「その子、私です」
キャンディの声は、驚くほど静かだった。驚いていないわけではない。ただ、その驚きを散らかさないだけだ。
ラウリツは頷く。
「たぶんね。帰るとき、顔がさっきと違った。泣いた目のままなのに、足どりだけはまっすぐになっていた」
キャンディはしばらく黙っていた。
「何で泣いていたかまで、覚えていますか」
「いいや。そこまでは聞こえなかった。ただ、祖父さんが“上手にやればいいわけじゃない”みたいなことを言っていたのは覚えてる」
彼女の睫毛がわずかに揺れた。料理本に挟まっていた紙切れのことを思い出しているのだろう。
ワニャマは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。自分の知らない店の夜、自分の知らない母の言葉、自分の知らない祖父の渡し方。その断片が、こうして一つずつ戻ってくる。
「それからもう一つ」
ラウリツは包みの紐をほどきながら言った。
「昔、祖父さんは“できたものは自分だけの手柄にしない”とよく言っていた。何の話のついでだったか忘れたけど」
包みの中から出てきたのは、返却本だけではなかった。薄い冊子が一冊、間に挟まっている。表紙の角が擦れ、見返しには古い貸出票の糊跡が残っていた。
「これも返す」
「何だ」
「帳面じゃない。置き手紙の控えみたいなものだと思う」
ワニャマが受け取り、頁を開く。何枚か抜け落ちているが、途中に祖父の字とは違う、柔らかな筆跡の短文が挟まっていた。
キャンディが息を呑む。
「その字です」
紙は完全な手紙ではなく、文の切れ端だった。だが、その一行だけで十分だった。
「できたことは、誰かに渡せる」
四人分の沈黙が、しばらく店を満たした。
ワニャマは紙をそっと卓へ置く。昼の判子、夜の紙片、祖父のいない店、母の知らない筆跡。ばらばらだったものが、急に一本の糸で結ばれたような気がした。
キャンディが、ほとんど独り言みたいに言う。
「だから、あのとき料理本だったんですね」
彼女は幼い日に、料理本といっしょに言葉を受け取った。今日、自分は焼き菓子と判子で、キミイロキッチへ何かを渡した。誰かにできたことは、そのまま次の誰かへ渡っていく。
ラウリツは珈琲を飲み干し、満足そうに背もたれへ寄りかかった。
「今夜はこれで来た甲斐があった」
「笑いに来た半分は」
とワニャマが言うと、
「もう回収したよ」
と彼は即答した。
「砂糖壺の前で止まる君が見られたから」
「まだ言うのか」
「まだ言う」
キャンディは困ったような顔をしながら、しかしまったく嫌そうではなく、カップを片づけ始めた。
「では次から、砂糖は最初から別添えで固定にしましょう」
「助かる」
「だから何が」
ラウリツの笑い声は、夜の店に妙によく似合った。記憶のいい男は、昔の断片だけでなく、今ここで生まれかけているものまで見逃さないらしい。
客足が引いたあと、ワニャマは新しい一文を既存の紙片の横へ並べた。
大切なものをあなたに。
迷ったら、温かいところへ。
選ぶ力まで、奪わないで。
できたことは、誰かに渡せる。
まだ全体ではない。けれど、店の奥で何かが少しずつ起きている手触りは、今夜いっそう確かなものになった。
閉店後、キャンディがカップを拭き終わってからも、二人はすぐには帰らなかった。話題が尽きたわけではないのに、沈黙が変に苦しくない。
「ラウリツの言うこと、あまり気にしなくていいから」
ワニャマが先に言うと、
「どの部分でしょう」
とキャンディが返した。
問い返しが速くて、ワニャマは詰まった。
「全部」
「全部は無理があります」
「ですよね」
キャンディは布巾を畳み、少しだけ笑った。
「でも、砂糖は別添えで大丈夫です」
それだけ言って、彼女は外套を羽織った。戸を開ける前に、いつものように卓の角度を最後に一つだけ直す。
ベルが鳴り、夜の冷たい空気が入る。
ワニャマは、その後ろ姿を見送りながら、自分の胸の中で何が少しずつ形になっているのか、まだはっきり言葉にできなかった。けれど、言葉にできないままでも、今夜の灯りは昨日までより確かに残っていた。




