第7話 上手にできました
四日目の昼は、昨夜の雨が嘘みたいによく晴れた。
窓硝子へ入る光が多すぎて、古書店の棚の埃まできれいに見えてしまう。ワニャマは朝から一度掃いた床を、また掃きたくなった。夜の喫茶店を始めてからというもの、昼の《星階堂》まで少しだけ身だしなみを意識している気がする。誰に見せるわけでもないのに、手を抜きにくくなるのだ。
開店してほどなく、キャンディが大きな包みを抱えてやって来た。その後ろに、もう一人いる。細身で、まだ若い。顔立ちは整っているのに、表情だけが常に一歩遅れてくるせいで、第一印象は少し損をする。手には紙袋と木箱。見たことのない顔だが、駅裏の惣菜屋の前を駆けているところなら何度か見た覚えがあった。
「仕込み場所、借ります」
キャンディは挨拶より先にそう言った。
「断る余地ある?」
「ありません」
後ろの青年が、ぺこりと頭を下げる。
「キミイロキッチです」
「名前長いな」
「略してもいいです」
「本人がそう言うの、珍しいね」
彼は少しだけ口元を曲げた。笑ったのか、照れたのか、たぶんその両方だった。
台所へ通すと、キャンディはすぐに作業台の上を点検し始めた。布巾の乾き具合、秤の針、ボウルの重なり方、木匙の手触り。十分もしないうちに、もともとワニャマの店だった台所が、彼女の仕事場みたいな顔になる。
「今日は何を作るんだ」
「焦がし林檎のタルトです」
「聞いただけで難しそうだ」
「難しいです」
キャンディは即答した。
「だから連れてきました」
キミイロキッチは、そこでようやく事情を補った。
菓子屋の手伝いをいくつか掛け持ちしていること。飲み込みは早いと言われるが、そのせいで最初からできる前提で扱われること。失敗すると「君ならできると思ったのに」と言われること。できたときは当然の顔をされること。本人はそれを笑い話にしているつもりだったが、言葉の端だけが少しささくれていた。
「今日は、失敗してもいい日にします」
キャンディの言い方は、許可というより規則の告知に近かった。
「そうしないと、覚えられません」
最初の林檎は、火を入れすぎて崩れた。二度目は逆に色づきが甘い。三度目は生地を伸ばす厚さが揃わず、焼き上がりが片寄った。ワニャマは途中で何度も「十分うまそうだ」と言いそうになったが、そのたびにキャンディの横顔を見てやめた。彼女は、いま褒めてはいけない場面と、褒めるべき場面を、どうやって見分けているのだろう。
「もう一回」
失敗のたびに、彼女はそれしか言わない。
責める言い方ではない。慰める言い方でもない。ただ、次の一回があることを前提にした声だった。
キミイロキッチも、最初は軽口で受け流していた。
「はいはい、もう一回」
「焦げたので、もう一回」
「今のは林檎がやる気なかった」
だが四度目の生地を作るころには、口数が減った。泡立て器を持つ手に力が入り、額の前髪が落ちる。いつもなら一度で飲み込めるところを、今日は何度もやり直している。そのこと自体に、たぶん少し腹が立っている。
ワニャマは、窓辺で帳面をつけるふりをしながら、二人のやり取りを聞いていた。
「林檎を並べる順番が逆です」
「逆でも焼けますよ」
「焼けます。でも、切ったときに崩れます」
「切らないで食べれば」
「売り物は切られます」
反論に対して、キャンディの返しはいつも具体的だった。曖昧さで押し切らない。だからキミイロキッチも、へそを曲げきれないらしい。
五回目の途中で、彼がとうとう言った。
「……俺、わりと大抵のこと、一回でできるんです」
キャンディは、手を止めずに頷いた。
「そうでしょうね」
「だから、できないと、変な感じがして」
「はい」
「何か、がっかりされる前の空気になるというか」
そこでようやく、彼女は顔を上げた。
「今日は、まだ誰もがっかりしていません」
キミイロキッチは口を閉じた。
「私は、ちゃんと失敗しているのを見ています」
キャンディは続ける。
「焦がしすぎたのも、戻りが遅かったのも、生地を触りすぎたのも」
「すごい列挙する……」
「でも、四回とも捨て方は上手でした」
「捨て方?」
「引きずっていません」
それは褒め言葉なのかどうか、ワニャマには一瞬わからなかった。
けれどキミイロキッチは、少しだけ目を見開いたあと、小さく息を吐いた。
「……それ、初めて言われました」
「失敗のあと、次の手つきが乱れないのは大事です」
「そこ見るんだ」
「見ます」
六回目で、ようやく形になった。
焦がし林檎は縁だけが少し苦く、その下に甘さが潜っている。生地は薄すぎず厚すぎず、焼き色が端から中心へ素直に移っていた。完璧ではない。林檎の一列だけ、ほんの少し右へ寄っている。だが、それがかえって、人の手で作ったものの顔になっていた。
「できた……」
キミイロキッチは、心の底からそう言った。うまくいったときの声ではなく、たどり着いたときの声だった。
キャンディはタルトを見下ろし、数秒だけ黙った。ワニャマはその沈黙の長さに、なぜか自分まで緊張した。
やがて彼女は、棚の上の小箱を開けた。中から出てきたのは、古びた木の持ち手がついた小さな判子だった。朱肉をつけて、紙袋へまっすぐ押す。
ぽん、と乾いた音がする。
そこには丸い字で、こうあった。
「上手にできました」
キミイロキッチは、その袋と判子を見比べたまま動かなかった。
「売り場で貼られる札より、そっちのほうが効くんですね」
ワニャマが言うと、
「当然です」
とキャンディは答えた。
「今日は値段の話をしていません」
キミイロキッチは少し遅れて笑った。笑うのが遅いのではなく、嬉しさが届くまでにきちんと時間をかけているみたいだった。
「持って帰っていいですか、この袋」
「そのために押しました」
彼は照れ隠しに眉をしかめたが、袋を折らず、汚さず、まるで書類でも扱うみたいに大事にしまった。
タルトを三人で切り分けて食べると、少しだけ林檎の苦みが強かった。だがその苦みが、ちゃんと甘さの隣にある。ワニャマは一口食べてから、祖父が時々言っていたことを思い出した。うまいものは、すぐにわかるものばかりではない、と。
「うまい」
「そうですか」
「少し苦いけど」
「そこがいいんです」
キャンディは平然と答えた。
「全部が丸いと、残りません」
キミイロキッチは、それを聞いて何度も頷いた。
「わかる気がします」
「今日のは、ちゃんと残ります」
「何がです」
「次」
昼下がり、彼が帰るころには、紙袋の口がくたびれないよう抱える持ち方まで変わっていた。来たときより背筋が伸びているわけではない。けれど、足の向きが少しだけ前を向いている。
戸口で、彼はワニャマへ頭を下げた。
「台所、借りました」
「また焦がしに来い」
「褒め方が下手ですね」
そう言いながら、ちゃんと笑っていた。
キャンディが後片づけをしながら、小さく息をつく。
「今日はまずまずです」
「厳しいな。あれでまずまずか」
「まだ林檎が一列ずれています」
「そこまで見るんだ」
「見ます」
少し前にも聞いた返事だと思って、ワニャマは笑った。
作業台を拭く彼女の横顔は、相変わらず真面目だ。だがその真面目さの奥に、今日は少しだけ、誰かがちゃんと辿り着いたことへの嬉しさが見えた。
「その判子、昔から使ってるのか」
「はい」
「誰に押されたんだ、最初」
キャンディは布巾を止めた。少しだけ、目が遠くなる。
「昔、料理本に挟まっていた紙切れに、似た言葉がありました」
上手にできました。あなたの歩幅でいい。
彼女はそこまでは口にしなかったが、ワニャマにはその続きを知っている顔が見えた。
昼の光の中でも、真夜中の喫茶店はちゃんと続いている。そんなふうに思えたのは、その古い判子が、今日も誰かの手に渡ったからかもしれない。




