第6話 守ってあげたいのか、支えたいのか
三晩目の夜は、風よりも湿り気のほうが強かった。
昼の終わりから空気がじわじわ重くなり、零時が近づくころには、石畳が薄く濡れていた。雨と呼ぶにはまだ遠慮がちな降り方だが、戸を開けると襟元へ細かい冷たさが差し込んでくる。海の町の湿気は、寒さと手を組むと面倒だった。
ワニャマは今夜、珈琲のほかに紅茶の用意もした。理由は自分でもはっきりしない。ただ、昨夜見つかった紙片――「選ぶ力まで、奪わないで」――を何度か読み返していたら、苦さより先に、湯気の柔らかいものが似合う気がしたのだ。
キャンディはいつもより早く来た。雨粒を払う前に、まず傘の先の水が床へ垂れない角度を探る。そういう小さな手つきが、相変わらず丁寧だった。
「今日は砂糖壺の蓋、完璧です」
「そこを褒められるの、だいぶ慣れてきた」
「慣れてはいけません。崩れます」
「厳しいな」
言いながらも、彼女の口調は少しだけ柔らかい。
テーブルの布を整え、紅茶葉の缶の位置を確認し、焼き菓子を一枚ずつ並べ直してから、キャンディはようやく椅子へ腰を下ろした。ワニャマは、その一連の動きを見ているだけで、今夜も何とかなるような気がしてくるから不思議だった。
零時を少し回ったころ、戸口のベルが鳴った。
入ってきたのは、マルジャーナだった。昼の通りでは何度か見かけるが、店へ入ってきたのは初めてだ。濡れた髪が頬へ貼りつき、肩から提げた鞄もどこか疲れている。入った瞬間に「すみません」と言い、それから自分がまだ何もしていないことに気づいて、余計にしょんぼりした顔になる。
「どうぞ。濡れてるなら奥の席のほうが暖かい」
ワニャマが言うと、彼女は二歩進んでは止まり、振り返りかけてまた進んだ。
「……やっぱり帰ったほうが」
「その言い方、帰りたい人の言い方じゃないな」
キャンディがすっとハンカチを差し出した。余計な励ましを挟まないところが彼女らしい。
マルジャーナはそれを受け取り、席へ座った途端に肩の力が抜けた。張っていた糸が、濡れて緩んだみたいだった。
「何にします」
ワニャマが尋ねると、彼女は困ったように笑った。
「そういうのも、自分で決めたほうがいいですよね」
言い方が妙だった。ワニャマはその一言で、今夜の客が珈琲や紅茶を選びに来たのではないとわかった。
「迷ってるなら、今夜は紅茶がいいと思います」
そう言ったのは、いつのまにか隣の席へ座っていたシロだった。彼女は音を立てずに入ってくる。白っぽいマフラーのせいで余計そう見えるのかもしれないが、いつ会っても、冬の灯りみたいに静かだった。
「眠れないときの珈琲は、考えごとを長引かせます」
「じゃあ紅茶で……」
「わかりました」
ワニャマが湯を注ぐあいだ、シロはマルジャーナの前に、砂糖を入れないままのカップを置いた。
「甘くしたければあとで足せます」
「はい」
「足さなくても飲めそうなら、そのままでも」
選ばせる言い方だった。
マルジャーナは、湯気を見つめるばかりでなかなか口をつけなかった。やがて、ふいに笑うみたいな、泣くみたいな顔をした。
「こんなこと言ったら笑われるかもしれないんですけど」
「たぶん笑わない」
ワニャマが言うと、
「少なくとも最初は」
とキャンディが続けた。
マルジャーナは、少しだけ肩を震わせてから話し始めた。
勤め先で、来月の配置替えの希望を出すよう言われたこと。今の売り場に残れば楽だが、別の担当へ移れば、少しだけやりたかった仕事に近づけること。ただ、その席へ移るには自分で名乗りを上げなければならないこと。周りの空気を見ているうちに、毎日、今日こそ書こうと思っては書けなくなっていること。
「でも、残ったら残ったで、また誰かの文句に合わせて頷いてる気がして」
彼女は指先でカップの持ち手を撫でた。
「移ったら移ったで、向いてなかったらどうしようって思うんです」
シロが頷く。
「向いていなかったら困る?」
「困ります」
「誰が」
マルジャーナは言葉に詰まった。
「……私が」
「それなら、まだ話ができますね」
ずいぶん静かな返しなのに、逃げ道を塞がない。ワニャマはそのやり取りを見ながら、昨夜の紙片を思い出していた。
選ぶ力まで、奪わないで。
自分がマルジャーナの立場ならどうするだろう、と一瞬考える。たぶん、早く楽にしてやりたくて、「こっちにしなよ」と言ってしまう気がする。濡れた肩を見てしまえばなおさらだ。決めるのが苦しいなら、代わりに決めてしまえば、少なくとも今夜は泣かずに済む。
けれど、それは本当に助けることだろうか。
ワニャマがそう考えていると、シロが紅茶の皿へスプーンを一本置いた。
「いま、二つだけ書きましょう」
「二つ?」
「残ったときに得をすること。移ったときに怖いこと」
「得をすることと、怖いこと?」
「好きなことから書かなくていいです。まず、手が動くほうから」
キャンディがすぐに紙と鉛筆を出した。紙の角が曲がっていないかまで確認してから、マルジャーナの前へ置く。
「きれいでなくていいです。読めれば」
その一言で、彼女の肩が少し下がった。
最初の数分、紙は白いままだった。外の雨粒が硝子を細かく叩き、店内では湯の沸く音だけがしていた。やがてマルジャーナが「今の売り場は顔なじみが多い」と書く。次に「新しい担当は忙しそうで怖い」。そこから少しずつ、文字が増えた。
残れば、失敗しにくい。
移れば、好きだった仕事に近づける。
残れば、波風は立ちにくい。
移れば、毎日がしんどいかもしれない。
でも、残れば、また自分で選ばなかった感じがする。
最後の一行を書いたところで、マルジャーナの目からぽろりと涙が落ちた。
「私、たぶん、もうわかってたんですね」
ワニャマは咄嗟に何か言おうとして、口を閉じた。ここで「そうだよ」と言うのは簡単だ。だが、その簡単さが紙片の言葉と喧嘩しそうだった。
シロは泣いたままの彼女へ、布巾を一枚だけ差し出した。
「決めるのは、泣いてからでも遅くないです」
マルジャーナは笑ってしまった。泣き顔のまま笑うと、ようやく少し子どもっぽい顔になる。
「じゃあ、泣いてから書きます」
彼女はもう一枚紙を取り、今度は異動願いの下書きを始めた。文面は短く、ところどころ消し跡だらけだったが、手は止まらなかった。
ワニャマはその横顔を見て、自分の胸の中の焦りをやっと言葉にできた。
「俺、さっき、この人がつらそうだから代わりに決めてしまいたくなった」
キャンディが振り向く。
「優しさで」
「たぶん」
「でも、それだとあとで恨まれることがあります」
「ずいぶん実際的だな」
「実際にあります」
そこへシロが、湯気の向こうから静かに言った。
「守ると支えるは、似ているようで違います」
ワニャマは耳を向ける。
「守るは、前に立って風を受けることです。支えるは、横で足場を確かめることです」
「前に立つほうが、かっこよく見えるな」
「そうですね」
シロは頷いた。
「でも、本人が歩く道を選ぶのは、本人です」
雨の匂いのする夜だった。けれどその言葉は、濡れた空気の中でもはっきり聞こえた。
やがて異動願いの下書きができあがると、マルジャーナはそれを何度も読み返し、最後に自分で頷いた。
「……明日、ちゃんと出します」
「えらい」
とワニャマが言いかけると、
「まだ早いです」
とキャンディに止められる。
「明日出してからです」
マルジャーナは目を丸くしたあと、くしゃりと笑った。
「厳しいけど、助かります」
「そういう役ですので」
閉店の少し前、モイシュテッターも通りを一周して顔を出した。甘くない焼き菓子を一枚受け取り、マルジャーナが書き上げた紙を見て「字がちゃんとしてる」とだけ言った。それが妙に効いたのか、彼女はまた泣きそうな顔になり、今度は泣かずに済んだ。
客が帰ったあと、店の中はしんとした。
新しい紙片は、今夜は見つからなかった。
けれどワニャマは、不満どころか、むしろ一枚分の意味をきちんと使えた夜だったと思った。
選ぶ力まで、奪わないで。
昨夜の短い一文は、誰かの背中を押す言葉というより、押しすぎる手を止める言葉なのだろう。
戸締まりを終えたあと、ワニャマはカウンターへ戻り、キャンディが置いていった鉛筆を拾った。
「なあ」
「はい」
「キャンディは、昔からそうやって整えてきたのか」
「何をです」
「周りのこと」
彼女は少しだけ考えた。
「周りというより、自分です」
そう言って、砂糖壺の蓋を最後に半寸だけ直した。
「乱れていると、考えが散りますから」
雨はまだ降っていたのに、その言葉のあと、店の中だけは妙に静かに晴れていた。




