第5話 熱い箱の配達人
翌朝、ワニャマは階段を降りきる前から、店先に人の気配があるのを感じた。
戸を開ける前に、影だけが硝子へ映る。背が高い。しかも、ただ高いだけではなく、何か大きなものを背負っている形だった。昨夜、看板に引っかかった巨大な縞模様を、まるで落ち葉でも摘むみたいに回収していった男の輪郭に違いない。
表の戸を開けると、冬の空気といっしょに、湯気を抱えた匂いが入ってきた。
モイシュテッターは、昨夜と同じ外套を着て立っていた。背中の箱は、明るいところで見るとさらに大きい。木の角に真鍮が打ってあり、蓋の合わせ目には分厚い革が巻かれている。背負子の肩紐は何度も替えられた跡があり、そのたびに丁寧に縫い直されていた。
「朝から悪い」
低い声は、夜より少し乾いて聞こえた。
「どうした」
「返し物」
差し出されたのは、昨夜貸した毛織りの膝掛けだった。看板の下で待たされていた仕立屋の親父が、礼を言って戻してくれと言ったらしい。きちんと畳まれている。端の房まで揃っていた。
「わざわざ?」
「ついで」
そう言いながら、モイシュテッターは箱を少し揺らした。中で陶器か金属が控えめに鳴る。
「今朝も配達か」
「夜の残りを回収して、昼の分を詰める」
「そんなに細かいんだな」
「細かくしないと、冷める」
それは箱の中身の話にも聞こえたし、人の都合の話にも聞こえた。
ワニャマが戸口を広く開けると、モイシュテッターは少しだけ視線を店の奥へ流した。
「入っていいか」
「もちろん」
店へ入るなり、彼はまず足元の泥をきっちり落とした。大きな体に似合わず、床を汚さないことには妙に気を遣うらしい。その律儀さが、何となく嬉しかった。
昼の《星階堂》は、昨夜の笑いがまだ棚のどこかに引っかかっているような顔をしていた。風の強かった夜のあとだから、表の石畳には枯れ葉が吹き寄せられている。ワニャマは箒を手にしたが、モイシュテッターが先に箱を下ろした音で、そちらへ目を向けた。
どん、と置かれた木箱は、思った以上に重そうだった。なのに本人は肩を一つ回しただけで済ませる。
「それが熱い箱か」
昨夜、通りの誰かがそう呼んでいたのを思い出して言うと、モイシュテッターは頷いた。
「そう呼ぶ人が多い」
「本当の名前は?」
「ない」
「ないのか」
「師匠もずっと、箱って言ってた」
身も蓋もない。
ワニャマは笑いながら、箱の表面へ視線を落とした。蓋の金具の下、底板に近いところへ、見覚えのある刻みがある。丸の中に小さな窓。そこから立ち上るような二本の線。蒼いコインの片面にあった意匠とよく似ていた。
「これ」
指先で示すと、モイシュテッターの目が少しだけ細くなった。
「見たことある顔をしてる」
「こっちの台詞だよ。うちで見つけた蒼いコインと似てる」
ワニャマが引き出しから一枚、布に包んで出して見せると、モイシュテッターはすぐには触らなかった。まず見て、それから手を拭き、ようやく大きな指でそっと受け取る。
「……やっぱり」
「知ってるのか」
「昔の合図だとは聞いてる」
「何の」
モイシュテッターはコインを返し、箱の縁へ手を置いた。
「夜に配るものの」
それだけでは足りないとわかったのだろう。少し考えてから、続きを足した。
「食べ物、本、手紙。起きていられない人とか、外へ出られない人とか、働く時間が人とずれてる人とか。そういうところに持っていくときの合図」
ワニャマは息を呑んだ。
祖父が夜の店をやっていたとは聞いていない。だが、病人へ本を貸しに行ったことがあるとか、船番の若い衆へ温かい飲み物を差し入れしたことがあるとか、断片みたいな昔話なら町のあちこちに残っている。
「誰から聞いた」
「うちの師匠」
「その人も配達を?」
「してた」
モイシュテッターの師匠は、今はもう引退して海の見える坂の上に住んでいる老人だったはずだ。若いころは力仕事なら何でもやり、吹雪の日でも頼まれれば湯を運んだと聞く。
「その師匠が、うちの店と?」
「昔、手伝ってた」
「祖父を?」
「そう」
短い返事のたびに、店の奥の棚が少しずつ違う顔になる。昨日まで、ただ古くて、重くて、処分するには惜しい物の山だった場所が、別の夜を知っているように思えてくる。
ワニャマはカウンターの中へ回り、珈琲の湯を沸かした。
「話を聞かせてくれた礼だ」
「まだ何も話してない」
「これからしてくれそうだから」
モイシュテッターは、ほんの少しだけ口元を動かした。笑ったのかどうか判別しにくいが、断っていないので座るつもりらしい。
湯が沸くまでのあいだ、ワニャマは戸口の外を掃いた。冬の光は薄いのに、石畳の凹みには水が残っていて、そこだけ小さく空を映している。掃き寄せた枯れ葉の中から、昨夜ちぎれたらしい白い糸が一本出てきて、ワニャマは思わず笑った。仕立屋の親父は、洗濯ばさみを本当に買い足しただろうか。
店へ戻ると、モイシュテッターは棚の端を眺めていた。
「何か思い出した?」
「この匂い」
「匂い」
「古い紙と、少し焦げた砂糖」
ワニャマは手を止めた。
焦げた砂糖。まさに今朝、キャンディが置いていった試作の欠片を、台所で少し温め直したところだった。だがその前に、この店にそんな匂いが立っていた時代があったのかもしれない。
「前から知ってたみたいな言い方だな」
「小さいころ、一度だけ入った」
「夜に?」
「夜明け前」
彼は珈琲を受け取り、熱を逃がさないよう両手で包んだ。
「師匠のあとをついてきた。雪の日だった。奥で誰かが寝てて、じいさんが本を選んでた。師匠はこの箱より前の箱を背負ってた。もっと角ばってて、重かった」
「誰かが寝てた?」
「顔は見てない。咳の音だけした」
ワニャマの胸の奥で、何かが小さく引っかかった。母の病床のことを思い出したからかもしれない。けれど、それだけではない気もする。
「うちの祖父は、何て言ってた」
モイシュテッターは少し考え、それから当時の声をなぞるみたいに、いつもよりゆっくり言った。
「“必要なときまで、箱の底を覗くな”」
ワニャマは思わず箱を見た。
「底?」
「底板に、合図の刻みがある。持つ側と受ける側しか触らない場所だから」
「何が入ってるんだ」
「今は何も。たぶん」
「たぶん?」
「師匠も俺も、開けたことない」
言い切らないところが妙に本当らしい。
モイシュテッターは珈琲を一口飲み、少しだけ目を見開いた。
「熱い」
「熱い箱の人に言われたくない」
「箱は運ぶだけ。口は別」
ワニャマは吹き出した。
それからしばらく、二人は箱の話をした。夜勤の見張り小屋へ薬湯を届けること。船の積み下ろしを待つ若い衆が、甘くない焼き菓子を好むこと。眠れない老人は、本を返すより先に栞の位置の言い訳をすること。冬になると、温かいものを運ぶ仕事はただの荷運びでは済まなくなること。
「冷める前に着けばいいってもんじゃないんだな」
ワニャマが言うと、モイシュテッターは頷いた。
「起きてるうちに着かないとだめなときがある」
その言葉は、時間の温度まで含んでいた。
帰り際、モイシュテッターは箱を背負い直し、戸口で振り返った。
「今夜も開けるか」
「開ける」
「なら、通りを一周してから寄る」
寄る、とさらりと言われたことに、ワニャマは少しだけ気をよくした。
「珈琲でいいか」
「甘くないやつ」
「船をいくつ越えるやつ?」
昨夜のゴテリンドの言い方を真似すると、モイシュテッターはわずかに首を傾げた。
「一つでいい」
表へ出ていく背中は大きく、石畳に落ちる影まで箱と一緒だった。けれど戸が閉まったあと、店内には重さよりむしろ、誰かが昔ここを行き来していた足跡みたいなものが残った。
ワニャマは蒼いコインをもう一度手のひらへ出した。
冷たい。だが、今朝はその冷たさの奥に、箱の木の匂いと、湯気と、夜明け前の足音がある気がした。
祖父は、何をどこまで残しているのだろう。
母は、どこまで知っていたのだろう。
棚のあいだから差す冬の光は薄いのに、店の奥だけは、少しずつ見えてくる場所になっていた。




