第4話 変装と縞模様の夜
その夜のルメラは、風が昼よりさらに落ち着かなかった。
石畳の目地に残った水気をさらい、角を曲がるたび向きを変え、通りの看板を少しずつ鳴らしていく。夜の港町は、静かなようでいて、耳を澄ますと細かな音ばかりだ。遠くで縄がきしむ。どこかの船体が壁に軽く当たる。風見の金具が回る。誰かが閉め忘れた戸板が、ときどき短く鳴る。
零時が近づくにつれ、店内の灯りは昨日より少し頼もしく見えた。
ワニャマは、紙片を二枚、カウンターの内側の見える場所に立てかけた。
「大切なものをあなたに。閉める前に、七晩だけ真夜中の喫茶店を開けてごらん。八日目の朝、それでも閉めたいなら閉めればいい」
「迷ったら、温かいところへ」
祖父が見たら何と言うだろう。たぶん、字が近すぎて読みづらい、と実務的なことを言う。
棚の前の小卓には、キャンディが昼のうちに届けていった焼き菓子を並べた。受け取ったとき、彼女は店先で五分だけ滞在し、菓子の配置と皿の向きと布のたわみを直して帰っていった。滞在時間のわりに、帰ったあと店の見え方がずいぶん違っていた。小さな整えで空気が変わる人なのだと、ワニャマは改めて思う。
焼き菓子は、細長いビスコッティと、小さな丸いサブレの二種類だった。飾り気はない。けれど一枚ずつの焼き色がきちんと揃っていて、並べると黙って姿勢のよい列になる。キャンディらしい菓子だ、とワニャマは思った。
十一時五十九分。
昨日より緊張が少ないのは、昨日の客が本当にいたからだろう。とはいえ、今夜も同じように誰かが来る保証はない。真夜中の喫茶店が二晩続けば、もう偶然ではなくなる。そうなったとき、自分は何を引き受けることになるのか、まだよくわからない。
零時ちょうど、ベルが澄んで鳴った。
その音に少しだけ満足しつつ戸を見ると、入ってきたのは背の高い船員風の男だった。厚手のコートに、編み目の粗い帽子、濡れた革手袋。髭まできっちり整っていて、港に寄る外国船の甲板長にも見える。
「一杯、もらえるか」
低くしわがれた声。ワニャマは「どうぞ」と答えかけて、ふと止まった。
帽子の下からのぞく目元に見覚えがある。
いや、目元だけでなく、立ち方にもどこか芝居がかった不自然さがある。
「……ゴテリンド」
男は肩をぴくりとさせた。
「違う」
「違わない」
「何でわかった」
「鼻の頭の絆創膏が昼のままだから」
船員風の男――つまりゴテリンドは、舌打ちしそうな顔で帽子を脱いだ。中から出てきたのは、やはり見慣れた顔だった。通りで雑貨と古着を扱う店の女主人で、暇さえあれば何かに化けて歩いている。本人は完璧に隠れているつもりだが、見抜く人は見抜く。
「惜しかった」
「そこまで自信満々で言えるの、すごいな」
「帽子はよかっただろ」
「帽子は」
「髭も」
「髭も」
ゴテリンドは不満げに椅子へ座った。
「じゃあ珈琲。船員風に苦いやつ」
「船員風って何」
「海を二つ越えた顔になるやつだ」
「無茶を言うな」
ワニャマが珈琲を淹れているあいだ、ゴテリンドは店内をきょろきょろ見回した。昨日のキャンディとは違い、整い具合を見るのではなく、何か新しい遊び道具がないか探す子どもの目だ。
「へえ。夜に開けると、こんな感じか」
「何で来たんだ」
「噂」
「早いな」
「町は狭い。真夜中に本屋から豆の匂いがしたら、そりゃ誰かが話す」
その“誰か”の大半は、たぶんゴテリンド本人だろう。
珈琲を差し出すと、彼女は一口飲み、すぐにうなずいた。
「たしかに船を一つ越えた」
「一つか」
「二つは無理」
「率直で助かる」
そこへ、もう一度ベルが鳴った。
今度は占い師風の女だった。紫の布を何枚も重ね、耳元に揺れる飾りをつけ、手には薄い札束まで持っている。ワニャマは額に手を当てた。
「早い」
「何が」
占い師風の女が妖しく言う。
「着替えるのが」
「失礼な。本日の私は砂の街の未来読み」
「さっき船員だっただろ」
「それは双子の兄」
「便利だな双子」
ゴテリンドは唇を尖らせたが、すぐに吹き出した。
「いや、待て。これ面白いな。客が増えても全部わたしで足りる」
「足りないと思う」
「足りる。見ろ、この喫茶店には変な客が必要だ」
「自分で言うんだ」
「自分で言えるものは強い」
ワニャマは返す言葉をなくした。
それから十五分ほどのあいだに、物売りの老婆、旅の薬売り、寒さに弱い詩人が、順に店へ入ってきた。もちろん全部ゴテリンドだった。帽子と上着と声色を変えるだけなのに、本人は毎回完璧な別人であるつもりらしい。問題は、靴だけがずっと同じことだった。
四人目の老婆が「腰がよう」と言いながら椅子に座ったとき、ワニャマはついに言った。
「靴」
「え」
「四人とも同じ靴」
「……くっ」
ゴテリンドは悔しそうに顔を覆った。
「盲点だった」
「この町でその靴履いてるの、あなただけだよ」
「でも話術はよかっただろ」
「妙に高かった」
店の中に笑いが転がる。
そのとき、キャンディが入ってきた。外套の裾に風の名残をまとい、戸を閉めながら店内を見て、一歩だけ止まる。
「どういう状況ですか」
「全部同じ人です」
ワニャマが言うと、
「何となくそうではないかと思っていました」
と、キャンディは静かに答えた。
ゴテリンドは帽子を外し、少し誇らしげに胸を張る。
「今夜の見張り役だ」
「何を見張るんです」
「この喫茶店がちゃんと喫茶店になるかどうか」
「それを一人で四役しながら?」
「気分の問題」
キャンディはほんの少しだけ考え、
「まあ、客席が埋まって見えるのは悪くありません」
と言った。
その肯定にゴテリンドは目を輝かせた。
「だろう?」
「ただし靴は変えたほうがいいです」
「やっぱりそこか!」
ワニャマは声を立てて笑った。昨日まで、この店でこんなふうに笑う自分を想像できなかった。
キャンディは持ってきた小箱を卓へ置き、焼き菓子を追加した。今夜は小さな柑橘の皮が入っているらしい。箱を開けた瞬間、甘さの中にほんの少し鮮やかな香りが立つ。寒い夜に刺すようでいて、最後には丸くほどける匂いだった。
「今日は風が強いので、重めの甘さよりこちらを」
「考えてるな」
「食べる前に肩が上がっている人には、こっちのほうが戻りやすいので」
何のことかわからずワニャマが首を傾げると、
「寒いと人は肩が上がります」
とキャンディが言い、手本みたいに自分の肩を少し上下させた。
「甘さが重すぎると、戻る前に眠くなるんです」
「なるほど」
「だから柑橘」
説明が実務的なのに、聞いていると少し優しい。キャンディのそういうところが、ワニャマには不思議だった。きっちりした人なのに、きっちりしていることが相手を締めつけるほうへ行かない。むしろ整えて、呼吸の場所を作る。
零時半を回ったころ、外から誰かの叫び声が聞こえた。
「泥棒だ! いや、パンツだ!」
ゴテリンドが真っ先に立ち上がる。
「行くぞ」
「何で」
「面白そうだから」
「正直だな!」
ワニャマもキャンディも、ついでに客役をやめたゴテリンドも戸口へ出た。通りの先で、仕立屋の看板に何か大きな布が引っかかっている。風が吹くたび、ばさ、ばさ、と不穏に広がる。
近づいてみると、それは巨大な縞模様の下着だった。
白と紺の縞が堂々と夜空に翻り、まるで港へ寄港した変な旗のようである。通りの数人が見上げ、誰かが笑いをこらえ、誰かが本気で困っている。どうやら近所の洗濯物が風に飛ばされ、いくつかが路地に散ったらしい。その最後の一枚が、よりによっていちばん大きく、いちばん目立つものだった。
「何でこんなに大きいの」
ワニャマが呟くと、
「世の中にはいろんな事情があります」
とキャンディが真顔で言った。
そこへ、通りの向こうから大柄な男が歩いてきた。肩幅の広い外套に、大きな木箱を背負っている。箱の隙間から湯気がわずかに立っていた。
モイシュテッターだ。
夜の配達をしている男で、通りでは知らない者のほうが少ない。重いものを軽そうに持ち、寒い夜でも歩調が変わらない。大抵は無口だが、頼まれた仕事は妙に正確だった。
状況を見るなり、彼は何も言わず箱を下ろし、看板の下へ立った。
「取る」
「お願いします!」
と仕立屋の親父が半泣きで言う。
モイシュテッターは腕を伸ばし、縞模様の下着を一度で回収した。通りから拍手が起きる。本人は拍手の理由がよくわからない顔で布を畳み、困っている親父へ渡した。
「ありがとう、助かった……」
「風、強い」
「そうだな……」
「洗濯ばさみ、多めに」
「そうする……」
そのやり取りが妙に真面目で、ワニャマはまた笑ってしまった。キャンディも口元を押さえ、ゴテリンドはとうとう道の真ん中でしゃがみ込んだ。
「だめだ、今夜は当たりだ」
「何が」
「全部」
笑いの余韻を抱えたまま店へ戻ると、さっきまで少し張っていた空気がきれいにほどけていた。寒い夜なのに、店の中だけ人の体温で丸くなっている。
モイシュテッターも、断りきれずに珈琲を一杯受け取った。カップを持つ手が大きすぎて、器が少し子どもみたいに見える。
「熱い箱、今日は何を運んでるんだ」
ワニャマが尋ねると、
「夜食。薬湯。頼まれた縫い糸」
と彼は短く答えた。
「いろいろだな」
「夜は足りないものが多い」
その一言が、なぜか紙片の文とつながる気がした。
迷ったら、温かいところへ。
夜には、温かいものが必要になる。飲み物だけではなく、笑い声や、灯りや、少しだけ座っていける椅子もそうだ。
閉店近く、客役を終えたゴテリンドがふいに棚の前で足を止めた。
「ん?」
「どうした」
「ここ、何かはみ出てる」
二段目の右端。昨日トフィグが探った場所の少し隣。背表紙の隙間から、細い紙の端が覗いていた。
ワニャマがそっと引き抜くと、また同じ手の紙片だった。
「選ぶ力まで、奪わないで」
店の笑い声が、その文を見た瞬間だけ静かになった。
キャンディが、紙片を読んで小さく息をつく。
「……短いのに、痛いですね」
「誰に向けた言葉だろうな」
ワニャマが言うと、
「今夜ここにいた誰かにも、いつかの誰かにも」
と彼女は答えた。
ゴテリンドは珍しく黙っていたが、やがて髭を外しながら言った。
「この店、ちょっと困るな」
「何が」
「笑いに来たのに、ときどき心臓まで見られる」
そう言って彼女は肩をすくめ、最後に残っていたビスコッティを一本つまんだ。
店を閉めるころには、風が少しだけ弱まっていた。通りの縞模様騒ぎは片づき、石畳は何ごともなかったような顔に戻っている。けれどワニャマの中には、二晩目の笑い声と、新しい紙片の文がちゃんと残っていた。
真夜中の喫茶店は、奇妙な客が来る場所なのかもしれない。
いや、奇妙なのではない。ただ皆、それぞれ胸の中で少しだけほどけにくい結び目を持っていて、この店へ来ると、それが笑いながら見えてしまうのだ。
戸の鍵を閉めると、ベルが澄んで鳴った。
死にかけの鈴虫みたいな音では、もうなかった。




