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真夜中の喫茶店《蒼いコイン》――古書店に灯る七晩の約束  作者: 乾為天女


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3/12

第3話 あきらめの早い修理屋

 翌朝、ワニャマは珍しく目覚ましの鳴る前に起きた。


 それ自体が異変だった。寝不足のはずなのに、布団の中でぐずぐずする時間が短かった。昨夜の出来事を夢のせいにするには、豆の香りが台所にまだ残りすぎている。洗って伏せておいたカップの縁に、夜の灯りの記憶みたいなものまで残って見えた。


 階段を降りると、店はいつもの朝の顔に戻っていた。昼の古書店《星階堂》は、夜より少しよそよそしい。棚と棚のあいだに差す光が白く、窓の外の海の色もはっきりしている。夜の喫茶店が胸の内側で起きたことだとしたら、昼の店は、誰に見せても言い逃れのできない現実だった。


 ワニャマはまず会計皿を見た。


 蒼いコインは二枚、ちゃんとそこにあった。


 片方をポケットへ、もう片方を机の引き出しへしまう。両方まとめて隠してしまうと、かえって昨日のことまで隠した気分になりそうで、わざと別の場所にした。


 それから、再整備の資料をもう一度開いた。


 継続営業の意思。

 地域への具体的な貢献。

 建物の歴史的価値を示す資料。


 昨日は見てすぐ閉じた条件を、今朝は少しだけ長く読める。昨夜に喫茶店を開けたからといって、その条件が満たされたわけではない。けれど、ゼロではない気がした。意思という言葉が、昨日までより少しだけ体温のあるものに見える。


 とはいえ、資料の下のほうへ進むと、すぐに細かな書類名の列に行き当たる。保存のための申請書、過去の営業記録、建物の来歴を示す控え、通りへの貢献を裏づける資料。祖父ならどこに何をしまったか知っていただろう。ワニャマは棚を見渡し、すでに少し疲れた。


 午前の客足は少なかった。詩集を探しに来た老婦人に一冊売れ、船員風の男が雨宿り代わりに地図帳をめくって帰った。あいまの時間に、ワニャマは昨夜の紙切れを何度も見た。裏の端にあった擦れ跡が気になり、窓辺へ持っていって光に透かす。


 うっすらと、何かの印のようなものが見えた。線が三本。横ではなく斜め。記号というより、何かの番号にも見える。


 「……棚?」


 祖父は棚に自分だけの印をつけることがあった。本の分類番号と別に、紙片を挟む位置を覚えるための癖のようなものだ。ワニャマは奥の棚を見上げた。昨日の詩集があった一角の木枠にも、小さな擦れがある。普段は気にも留めない程度の傷だが、紙の端に残っていたものと形が似ている気がした。


 しかし、似ている気がする、だけでは何も進まない。


 昼過ぎ、表の戸が勢いよく開いた。


 「ベルの音が死んでる!」


 入ってきた声の主に、ワニャマは反射で肩をすくめた。


 トフィグだった。通りの裏手で修理工房をやっている男で、油の染みた上着に薄い金属の粉をつけたまま歩く。背はそれほど高くないが、歩幅だけは無駄に大きい。何かを直しに来るときも、何かを壊しに来るときも、だいたい同じ顔をしている。


 実際、彼は表の戸を半分開けたまま立ち、上のベルをにらんでいた。

 「聞いたか今の。鳴ったは鳴ったが、死にかけの鈴虫みたいな声だったぞ」

 「客に最初に言うことがそれ?」

 「客じゃない。通りすがりの正義だ」


 トフィグはずかずか入ってきて、踏み台も断りなく持ってくると、戸口のベル金具を覗き込んだ。

 「ほらみろ、軸が少し曲がってる。これじゃちゃんと揺れねえ」

 「昨日の夜は鳴った」

 「昨日の夜?」

 そこで彼は動きを止め、踏み台の上から振り返る。

 「夜?」

 「……ちょっと」

 「ちょっと夜に何だ」

 「店を開けてみた」

 「何で」

 「紙切れに書いてあったから」


 トフィグは降りてきた。


 「どういう会話だ」

 「自分でもそう思う」

 「詳しく」


 説明すると、彼は途中で二回ため息をつき、三回「やめとけ」と言いかけてやめ、最後まで聞いたあとに頭を掻いた。

 「つまり、おまえは亡くなったじいさんの店で、見つけた謎の紙に従って、真夜中に喫茶店を開けた、と」

 「はい」

 「そしたら客が来て、さらに謎の青いコインが増えた」

 「はい」

 「……面白いな」

 「否定しないのか」

 「否定したら終わるだろ。こういうのは始まってからが本番だ」


 言いながら、トフィグはなぜか楽しそうだった。


 彼は修理屋だが、直したものより途中で投げ出したものの数のほうが多い。金具をばらして満足し、組み直す手前で「向いてない」と言い出すことも珍しくない。なのに、他人の話が止まりそうになると、そこだけ器用に先へ押す。本人は面倒見がいいと言われるのを嫌うが、通りの誰かが煮詰まっていると放っておけない性分だった。


 「で、紙は」

 ワニャマが差し出すと、トフィグは油のついた指を見て顔をしかめ、先に手を洗った。そういうところだけ律儀だ。


 紙切れをひっくり返し、表へ戻し、今度は窓へ向けて眺める。

 「字はきれいだな。じいさんのじゃねえ」

 「母かもしれない、と昨夜来た人が」

 「昨夜来た人」

 「客が一人」

 「女か」

 「……何で」

 「顔が少しだけ人間っぽいから」


 ワニャマは無言で棚へ本を戻した。トフィグはへらへらしながら紙を持ち上げる。

 「裏のこれ、文字じゃなくて印だな」

 「やっぱり?」

 「たぶん棚の位置。ほら、ここ、斜め線が三本あるだろ。おまえんとこの古い棚、段の端に削り傷みたいな印ついてるのあるじゃん」

 「ある」

 「それと同じ作り方に見える」


 ワニャマは一瞬黙った。自分でもそう思っていたが、トフィグの口から同じことが出ると、急に現実味が増す。


 トフィグは店の奥へ入っていき、問題の棚を見上げた。二段目の右端を指でなぞり、次に三段目の左端、さらに上段の裏側を覗く。

 「じいさん、昔こういう隠し方好きだったよな」

 「知ってるのか」

 「工房の道具箱に変な仕掛けばっかり仕込んでた。鍵を開けると別の鍵が出る箱とか。あれは本当に腹が立った」

 「仲良かったんだな」

 「よせ。直した回数の話ならしてやる」


 口ではそう言うが、祖父の名を出したときのトフィグの肩は少しだけやわらいでいた。


 彼は踏み台へ乗り、三段目の端板を指で軽く弾いた。乾いた音。次に二段目。こちらは少し鈍い。さらに奥の一本だけ、妙にこもる場所がある。


 「ここかも」

 「外せる?」

 「外せるかもしれないし、面倒だからやめるかもしれない」

 「どっち」

 「いま考えてる」


 ワニャマは腕を組んだ。トフィグはこういうとき、答えを先に出さない。途中で投げ出すこともあるし、投げ出す振りをして最後までやることもある。


 しばらくして、彼は懐から細い金具を二本出した。

 「貸し一回」

 「高そうだな」

 「あとで珈琲な」


 金具を差し込んで、端板のすき間を探る。数回失敗し、三回舌打ちし、四回「向いてねえ」と言ってから、ようやく板が少しだけ動いた。


 「お」

 ワニャマが身を乗り出すと、

 「寄るな、手元が狂う」

 と即座に返される。


 板は結局外れなかった。だが、少しだけ浮いたすき間から、何か紙片の端のようなものが見えた。


 「あるにはある」

 「取れないのか」

 「指が入らん。おまえのほうが細い」

 「こういうときだけ頼るんだな」


 踏み台を代わって、ワニャマは指先を差し込んだ。板の内側は埃っぽく、木のささくれが当たる。慎重につまむと、折りたたまれた小さな紙片が一枚、するりと抜けた。


 下へ降りて開く。


 そこに書かれていたのは、一行だけだった。


 「迷ったら、温かいところへ」


 ワニャマとトフィグは顔を見合わせた。


 「増えたな」

 「増えた」

 「意味は」

 「まだわからない」

 「でも、次がある」


 トフィグはにやりとした。その笑い方は、壊れたものが直る前の音を聞いた人の顔だった。


 ワニャマは新しい紙片を手のひらに乗せた。短い。けれど昨夜の文と同じ手だ。急いでいても投げず、短くても冷たくない。


 迷ったら、温かいところへ。


 祖父ならそのまま「湯を飲め」と言いそうだ。けれど、この紙はそれだけではない気がする。温度の話をしているようで、場所の話でもある。人の話でもある。


 「なあ」

 トフィグが言った。

 「今夜もやるのか」

 「喫茶店?」

 「他に何がある」

 「やるつもりだ」

 「じゃあその紙、壁に貼っとけ。客が勝手に何か思う」

 「雑だな」

 「雑に見えて効くんだよ、こういうのは」


 彼は言うだけ言って、再び戸口のベルへ向かった。

 「で、これは直す。死にかけの鈴虫は縁起が悪い」

 「正義だもんな」

 「そうだ」


 金具を外し、軸を調整し、鐘の位置を少し上げる。作業の途中で二度ほど「やっぱり面倒だ」とつぶやいたが、手は止まらない。十分ほどで、ちりん、と少し高く澄んだ音が戻った。


 「直った」

 「ありがとう」

 「珈琲一杯」

 「今」

 「今」


 ワニャマは笑って湯を沸かした。昼の店で淹れる珈琲は、夜のそれより少しだけ現実的な香りがした。トフィグは熱いまま一口すすり、舌を焼き、すぐに不機嫌な顔をした。

 「熱い」

 「自分で今って言った」

 「だからって熱いのは困る」

 「迷ったら温かいところへ」

 ワニャマが紙片を掲げると、トフィグは眉をひそめ、次の瞬間には吹き出した。

 「それ、使い方ずるいな」


 笑い声が、昼の店に意外なほどよく響いた。


 夕方、トフィグが帰ったあと、ワニャマは新しい紙片を昨夜の紙と並べて机に置いた。二枚とも、まだ全体の一部でしかない感じがある。続きがある書き方だ。祖父が残した棚の印と結びついているなら、ほかにもどこかに隠れているのだろう。


 そして今夜は、キャンディが来る。


 そう考えたとたん、なぜか店の埃まで少し気になった。ワニャマはあわててカウンターを拭き直し、椅子の脚のぐらつきを確かめ、砂糖壺の向きを昨日よりもっとちゃんとそろえた。やってから、自分で気づいて苦笑する。


 整えられているのは、店なのか、心なのか。


 夕暮れが通りへ落ちるころ、ワニャマは物置から祖父の布巾を一枚追加で出した。夜の二晩目に向けて、少しだけ準備が早くなっている自分がいた。



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