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真夜中の喫茶店《蒼いコイン》――古書店に灯る七晩の約束  作者: 乾為天女


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第2話 真夜中の喫茶店

 ワニャマは、戸に手をかけたまま固まった。


 外から入ってきたのは、雪ではなく人だった。女が一人、肩までの髪に薄い霜を乗せ、襟の立った外套を着て立っている。頬が夜気で少し赤い。目元の線はきりっとしているのに、まぶたの下には疲れを隠しきれない影があった。


 その人は店の中をひと目見渡し、次にワニャマの顔を見た。


 「開いていますか」


 声は低めで、きちんと相手へ届くように置かれていた。問いというより確認に近い。


 ワニャマは一拍遅れてうなずいた。

 「……たぶん」

 「たぶん」

 「いえ、その、今開けたところで」

 「なら、開いていますね」


 そう言うと彼女は戸を閉め、自分で鍵の位置を確かめるように振り返った。冷気が少しだけ店に入り、すぐに彼女の外套へ吸い込まれて消える。


 店に入ってまず彼女がしたのは、席に着くことではなかった。


 カウンターへ向かいかけて、途中で足を止める。砂糖壺のふたがほんのわずかに斜めになっているのを見つけたらしい。指先で音もなく直す。次にスプーンの向きをそろえ、カップの間隔を半指分だけ整えた。皿の中心から少しずれていたコイン受けも、すっと真ん中へ戻す。


 それら全部の動きがあまりに自然で、ワニャマは指摘する暇を失った。


 女はようやく椅子に腰掛けた。

 「失礼しました。気になってしまって」

 「いえ……助かります」

 「本当に?」

 「本当にです。自分では見えなくなっているので」

 「それならよかったです」


 そこで彼女はようやく、少しだけ口元をゆるめた。


 ワニャマは胸の奥に、かすかな安堵を覚えた。入ってきた瞬間は、何かの取り締まりに来た人かと思ったのだ。喫茶店の許可がどうとか、真夜中の営業がどうとか、いまの自分には想像だけで肩が縮む話がいくつもある。けれど彼女の整え方は、取り締まる人の手つきではなく、散らかった糸をほどく人のものだった。


 「何か温かいもの、出せますか」

 「珈琲なら」

 「では、それを。砂糖はひとつ。ミルクはなしで」

 「はい」


 注文を受けた瞬間、ワニャマは少しだけ現実へ戻った。湯はもう沸いている。ミルへ豆を入れ、ハンドルを回す。ごり、ごり、と深夜の店に小さな音が生まれる。豆の皮が砕ける匂いが、さっきよりずっとはっきり立ち上がった。


 女はその音を聞きながら、棚の並びを眺めていた。

 「本の匂いの中に、珈琲が入るんですね」

 「いま初めて知りました」

 「初めて?」

 「今日が最初なので」

 「真夜中の喫茶店が?」

 「……はい」


 それを聞いて、彼女は眉を少しだけ上げた。

 「では、私は最初のお客ですね」

 「そう、なります」

 「少しうれしいです」


 その言い方は、冗談を言う人の軽さではなく、本当にうれしいものを、必要以上に大きく言わない人の静けさだった。


 挽いた豆をドリッパーへ入れ、湯を細く落とす。こんもりと膨らんだ粉が、呼吸するみたいにふくらみ、香りを一気に押し上げる。ワニャマはその匂いに少し救われた。うまくいくかどうかわからないことをしているとき、人は匂いのような具体的なものにすがる。


 カップへ珈琲を注ぎ、砂糖をひとつ添えて出す。

 「どうぞ」

 「ありがとうございます」


 彼女はスプーンで一度だけ砂糖を沈め、口をつけた。飲み込んだあと、まぶたがほんの少しだけ下がる。ほっとしたのだとわかった。


 「おいしいです」

 「よかった」

 「嘘ではありません。豆は新しいものも混ぜましたね」

 「わかりますか」

 「少しだけ。古い香りも嫌いではないですけれど、今日の夜には新しいほうが合っています」


 その言い方が、どうにも店に似合った。


 ワニャマはカウンター越しに相手を見た。年齢は自分と同じくらいか、少し下かもしれない。髪はきちんとまとめるつもりで、でも風に負けたまま来たようだった。外套の袖口には小麦粉のような白い粉がほんのわずかに残っている。


 「お菓子の仕事でも?」

 そう聞くと、彼女は少し目を丸くした。

 「わかりますか」

 「袖に。粉が」

 「ああ」


 彼女は袖口を見て、少しだけ恥ずかしそうに息をついた。

 「焼き菓子の仕込みをしていました。帰る前に寄り道をしたら、遅くなってしまって」

 「この時間に?」

 「考えごとをしていると、時間がずれます」

 「それはわかります」


 会話が、思ったより自然に続いていく。ワニャマは自分で少し驚いた。祖父がいなくなってから、来客と必要以上に話すことが減っていたのだ。言葉を増やすと、そのぶん、店をどうするのか聞かれそうで怖かった。


 けれど彼女は、詮索する言い方をしない人だった。質問はするが、相手の喉元まで手を伸ばさない。そういう距離の取り方が、夜の店にはありがたかった。


 「お名前を聞いても?」

 彼女が言った。

 「ワニャマです」

 「ワニャマさん。私はキャンディ」

 「……本名ですか」

 「よく聞かれます」

 「すみません」

 「いいえ。半分は本名のようなものです。祖母がそう呼んでいたので、そのままになりました」


 キャンディ。たしかに、砂糖壺の角度まで気にする人に似合う名だった。甘いだけではなく、包み紙まできっちり折られていそうな名前だ。


 彼女はカップを置き、ようやく店内の様子をもう一度眺めた。

 「ここ、前から気になっていたんです。昼は入ったことがありましたけれど、夜の灯りだと棚の見え方が違いますね」

 「夜に開けたのは今日が初めてです」

 「なのに、来てしまった」


 その言葉のあと、ふと、彼女の視線がワニャマの胸元へ落ちた。そこには、紙切れの角が少しだけのぞいていたらしい。


 「それ」


 ワニャマは反射的に紙を押さえた。

 「え」

 「少し、見せてもらえますか」


 彼女の声が、さっきより低くなっていた。整った顔つきの中で、目だけが急に遠いところを見ている。


 ワニャマはためらった。けれど隠す理由もない。胸ポケットから紙切れを取り出し、カウンターの上へ置く。


 キャンディはそれを見た瞬間、指を止めた。


 さっきまできれいにそろっていた呼吸が、一度だけ乱れる。


 「この字……」


 彼女はそう言って、椅子から半分立ち上がりかけ、また座り直した。紙に触れようとして、触れずに手を引く。やがて、震えを隠すように両手を組んだ。


 「知っているんですか」

 ワニャマが聞くと、彼女はすぐには答えなかった。


 しばらくしてから、静かに言う。

 「幼いころ、似た紙をもらいました」

 「似た紙」

 「いえ、紙ではなく、たぶん同じ人の字です」


 店の中の空気が、また少し変わった。


 キャンディはカップを両手で包み、言葉を選ぶように視線を落とした。

 「十年くらい前です。私はまだ小さくて、何かひとつ失敗すると、それで全部だめになったように思ってしまう子どもでした」

 「今は違うんですか」

 「今も半分はそうです」

 その答えに、ワニャマは少し笑った。キャンディも気づいて、ほんの少しだけ口元をゆるめる。

 「その日、焼き菓子をだめにしてしまって、家で泣いたあとに町を歩いていました。たしか、このあたりまで来たんです。どこへ入ったのか、はっきり覚えていません。でも帰るとき、料理本のあいだから紙切れが落ちました」

 「何て書いてあったんです」

 「『上手にできました。あなたの歩幅でいい』」


 ワニャマは紙切れを見た。


 ここにある言葉より、ずっと短い。けれど、困っていた子どもに手渡されたなら、その一行だけで十分な気がした。


 「救われたんですね」

 「悔しいくらいに」


 キャンディは小さく笑ったが、その笑いは目の奥で少し濡れていた。

 「上手にできていなかったんです、本当は。でも、その紙をくれた人は、結果ではなく、そこまでの足を見ていたのだと思います。それが、うれしかった」

 「その人が誰か、わからないまま?」

 「はい。でも、字は忘れませんでした」


 ワニャマは改めて紙切れを見た。丸みのある線。急いでいるのに置いていかない書き方。自分は見覚えがないと思ったのに、キャンディは一目で反応した。


 「この店で見つけたんですか」

 「今朝、棚の詩集から。青いコインも一緒に」

 「青いコイン?」


 ワニャマは会計皿の上に置いた蒼いコインを示した。キャンディは椅子を引き、そちらも覗き込む。指先を伸ばし、今度はためらいなくそっと持ち上げた。


 「……これも、見覚えがある気がする」

 「本当に?」

 「はっきりとは。でも、青い丸いものを見た記憶があります。昔、誰かの手のひらの上で」

 「誰の?」

 「そこまでは」


 彼女は眉を寄せ、記憶の奥を探ろうとしたが、やがて首を振った。

 「だめ。まだ霧の中です」


 ワニャマはうなずいた。自分だって、今日は知らないことばかりだ。


 しばらく二人で黙っていた。湯の立つ音だけがある。本棚は夜の灯りの下で、昼より少しだけ表情がやわらかい。外は冷え込んでいるはずなのに、この狭い店の中だけ、言葉の分だけ温度がある。


 「七晩だけ、開けるんですか」


 キャンディが紙を見ながら言った。


 「そう書いてあるので」

 「従うんですね」

 「自分でも、どうかしてると思います」

 「いいと思います。どうかしてるときにしか、動かない扉もありますから」


 その言い方が妙に気に入って、ワニャマはカウンターへ肘をつきかけ、慌ててやめた。


 「でも、一人では無理です。喫茶店なんてやったことがないし」

 「お菓子なら持ってこられます」

 「え」

 「明日。いえ、今夜の次の夜にでも。七晩だけなら、整えるのを手伝えます」

 「どうしてそこまで」

 「この字の人を知りたいからです」


 キャンディは紙切れを見たまま言った。

 「昔の私を、あの一行で立たせた人がいた。いまここで同じ字が見つかったなら、見過ごせません」

 「……自分も知りたいです」

 「では、利害は一致していますね」


 利害、という言い方が彼女らしかった。


 ワニャマはふっと息をついた。祖父がいなくなってから、自分の周りに起きることは全部、減っていくことばかりだった。客の数、売上、話し相手、起きる理由。今日の零時を回ってから、初めて増えたものがある。知らないことと、それを一緒に知りたがる人だ。


 「七晩だけ」

 ワニャマが確認するように言う。

 「八日目の朝、それでも閉めたいなら閉めればいい」

 キャンディが紙の文を読み上げる。

 「厳しいですね」

 「やさしいですよ。永遠ではなく、八日目まで待ってくれるんですから」

 「たしかに」


 そのとき、表のガラスに何かがこつんと当たった。二人そろって振り向く。風に飛ばされた小枝だったらしい。夜更けの通りは人影もなく、街灯の下にだけ薄い霧が流れている。


 「ここに来たの、偶然ですか」

 ワニャマは聞いた。

 「半分は偶然。半分は、甘いものを作っていると、どうしても苦いものが飲みたくなるから」

 「なるほど」

 「それと、今日は少し整えたくて」

 「何を」

 「自分の考えをです」


 彼女はそう言ってカップの底を見た。

 「私は、来月、大きな菓子店に行く話があるんです」

 「この町の外?」

 「ずっと外です。港を出て、列車を乗り継いで、その先」

 「行きたいんですか」

 「行きたい、はずでした」


 その“はず”の一語だけで、答えは十分だった。


 ワニャマはそれ以上踏み込まなかった。代わりに、空いたカップへ少しだけ湯を足した。残り香がほどけ、もう一度やわらかく立ち上がる。


 「次の夜も、開けます」

 「では来ます」

 「そんなに即答で」

 「約束は早いほうが崩れにくいので」


 キャンディは立ち上がり、外套を着直した。そして戸口まで行って、ふと振り返る。

 「ワニャマさん」

 「はい」

 「この店、夜の灯りが似合います」

 「そうですか」

 「ええ。だから、あと六晩はちゃんと似合わせましょう」


 言い終えると彼女は出ていった。ベルがもう一度鳴り、冷たい風が細く入る。すぐに戸が閉まり、夜はまた静かになった。


 ワニャマはしばらくその場に立っていた。


 カウンターの上には、キャンディが飲み終えたカップと、きちんとそろえ直されたスプーン。皿の中心に置かれた蒼いコイン。その隣に――さっきまでなかった、もう一枚の蒼いコインがあった。


 「……は?」


 ワニャマは戸を開け、通りを見た。キャンディの背中はもう角を曲がって消えている。呼び止めるには遅い。


 店に戻り、コインを二枚並べた。色も重さも、刻まれた窓とカップの絵も同じだった。


 最初の一枚は、今朝、詩集から落ちた。

 では、この二枚目は、いつ、誰が。


 会計代わりに置いたのだろうか。けれど珈琲一杯の代金にしては奇妙すぎる。そもそも通貨ですらないかもしれない。


 ワニャマは新しいコインを手のひらに載せた。冷たい。けれど嫌な冷たさではない。夜明け前の空気みたいな、目が覚める側の冷たさだった。


 そして気づく。心臓が、夜になってから初めて少しだけ軽い。困りごとは何も解決していないのに、明日の夜にも店を開ける理由だけが、ちゃんと手に入っていた。



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