68話 この世は泡沫。蒙を啓けど価値は変わらじ
塵が風に吹かれるように黒い山の体が少しずつ消え去っていく中、その体が突き破った城の残骸を横目にベルフェゴールは進んでいた。
幾重もの円で構成されている平等教の城は壊された事によって一本道となっていた。彼女は真っすぐに進めている。
慈悲の枢機卿と教皇が守っていた扉までたどり着くと破裂するような音が聞こえてきていた。
おおよそ戦闘の音ではないそれを聞きながら彼女はその扉を開いた。
「ぼさっとすんなッ」
老人の蹴りがベルフェゴールの体を吹き飛ばす。
彼女の体が合ったところを飛沫が通過した。その飛沫は地面を抉り貫通せんと穴を作るが、瞬き一つほどの時間で何もなかったかのような無傷の状態に戻ってしまう。
ベルフェゴールが扉を開けてから数秒の時が経過していた。彼女は扉を開けた瞬間に呆けて止まってしまっていた為に老人は蹴ったのだ。
彼女の眼から入ってきた情報量を脳が処理するのに時間がかかった。彼女がそれだけ時間がかかったのはただその理由でしかない。
「才賀を起こすんじゃなかったのか嬢ちゃん」
大國がベルフェゴールに叫ぶ。未だ彼女の脳は情報を処理しようとその動きを止め、緩慢である。
老人の叫びが無限の処理から彼女を呼び起こした。
目の前の膨大な情報量を持つ奇怪な物よりも優先すべきものがあると気が付いたのだ。
「あ……ありがとうございます」
天井が空いているものの城の真ん中にあり、薄暗かったその部屋は黒い山に突き破られ明るくなっていた。壁は半分ほど壊され、日光が床に直接当たっている。
血と臓物が染みつき赤と黒がべたついていた部屋は、黒が極彩色の星々と円環に彩られたシャボン玉に侵食されていた。
才賀の体が浮いていた場所はシャボンに埋もれており、身体の欠片も確認することが出来ない。
怠惰の魔力を使い魔法を編もうとした瞬間、彼女の眼に頭を吹き飛ばされる自分の姿が映った。
それはシャボンに映ったものであり、その中で彼女は虹色の触手に潰されている。だが、未だ彼女は健在であり、触手なんて何処にもない。
鏡が急に自分と違う動きをし始めたような混乱、それも自分が殺される瞬間だったが為に彼女はひどく驚いた。
そして瞬き一つ、そのシャボンに映った虹色の触手が目の前にある事に気が付いた。
ベルフェゴールが死ぬ瞬間を映し出したシャボンには、触手すら映っておらず唖然とした彼女が映っている。彼女は現実とシャボンがすり替わったようだと仮定づけた。
ベルフェゴールの頭を砕かんとしていた触手は斬られて、霧散した。
「あの泡から目を離すな。原理は分からんがアレに映った未来に改変されてる」
「数秒稼いで」
「一歩も動くんじゃねぇぞ」
ベルフェゴールが怠惰の魔力をラッパ型に捏ね、形成し始めた。
その間も触手が現れ、消えるというアナログな挙動を見せているが、彼女に届く触手は一つたりとも無い。
大國の腕が振るわれる度に触手はばらばらになり、シャボン玉が弾けるように残骸は消えてしまう。
彼女はその名を呼ぶことによって魔法を行使した。怠惰の魔法は為され、一つの切れ目もない美しき金色の輝きを持つラッパが作り出された。
「鴉の喇叭、早く起きろ寝坊助」
ラッパから甲高い音が放たれる。それは聞いたものすべての目を覚ます音色で、たとえ数日貫徹した人間が眠りについた瞬間であっても、気持ちの良い目覚めを迎える強制覚醒の魔法。
この音を聞いて目が覚めない生き物はいないはず、だった。
だが才賀が目を覚ます様子はなく、シャボンは今も彼らをぐちゃぐちゃに潰す未来を映し出している。
「失敗かぁ? 小娘」
余裕がないのか口調が荒くなった大國であるが、ベルフェゴールは意にも介さず目を見開き、じっと泡の塊を見ていた。
そして暫くすると何かを掴んだかのように表情を明るくさせる。
「多分……わかった。音が届いてない。他の音か何かでかき消されたんだと思う」
「あぁ……? おいおいなんだありゃあ、そもそも生き物か?」
ベルフェゴールが避けるようになったため、大國に余裕が出来た。そして何かによって音をかき消されたという彼女の言葉を聞いて空間を彼が睨めば、何かに気が付く。
大國は長い生涯の中で培った知識、そして過去をもってしてもそれを正確に表現することが出来なかった。だが異常な何かがいるという事はわかている。
ただ目を見開き、己の感覚によって近くした絶えることも拡散することもない音を解釈しようとしている。
「流行の宇宙人って奴か? SF小説でも見た事ねぇぞこんなの。音が、生きてやがる」
大國はSF小説が好きだった。
永く生きて真新しいものが少なくなっていく中で、人の発想により生まれる真新しい未来を楽しむことは彼にとって趣味である。
だが彼は今現実で、極めて真新しいものに対面していた。
「どうする、アレは俺でも斬れん」
「直なら、なんとか?」
「は……いいねぇ!」
かき消されるのならば直で聞かせればいいというあまりにも乱暴な答えに大國は凶暴な笑みを浮かべた。
老人の眼に強い光が宿り始める。命が死線に曝され、目覚まし時計を耳の穴にシュートするような馬鹿馬鹿しい作戦を全力で行使する。
老人は老人らしからぬ表情を見せ、腕を振るい周囲の泡を消し飛ばした。
「ノッてきたぜ、小娘。どうせお前戦闘得意じゃねぇんだろう? 俺が切り開く」
「過保護なのは年を取ったから? それとも貴方自身の気質?」
「折角教えた餓鬼が少し目を離しただけで癇癪起こしやがったんでなぁ」
ベルフェゴールが才賀に一歩近づく、すると耳を塞ぎたくなるほどの音が放たれた。
それは人間に知覚できない音階が含まれており、感動と吐き気を両耳から流し込まれるような感覚を人間に与える。だが大國の一閃で乱された。
「斬れねぇとは言ったが、防げねぇわけじゃねぇんだよタコ。どうやら嬢ちゃんの作戦は正解だったみたいだぜ」
大國のその言葉を裏付けるように一歩また一歩と攻撃は強くなる。
今まで歯牙にもかけず、泡が弾けるような抵抗しかしていなかった。だが今になって生きる音が必死に撃退しようとし、触手は激しく彼らを狙っている。
大國とベルフェゴールはこの作戦が有効であると確信する。
進みながらもシャボンから目を離していないベルフェゴールは、シャボンに自分たちが映っていないことに気が付いた。
これまでは死体と触手が映っていて何が起こるのかわかっていたのだが、何もないのだから何が起こるのか彼女にははかり知ることが出来ない。ただ彼女の本能が何かが起こると警鐘を鳴らしていた。
攻撃が来ていないだけなのではないか、という一つの結論を彼女は得た。ただ背筋を強くつかむ死の気配が思考を止めさせてはくれなかったのだ。
そしてある一つの違和感に気がつく。シャボンに映る空はあんなものだっただろうか。そのたった一つの違和感によって彼女は閃きを得たのだ。
「全方位から攻撃が来る! 防げる?」
「舐めんな」
数十本もの触手が虚空から生え、二人を握り潰そうとする。大國の刀を超え、脇を通り抜けるとベルフェゴールに絡みつこうとする。
だが大國の蹴りによって、それもばらばらに散開して消える。それでも全てを防ぎきる事は出来なかったのか彼の胸に大きな穴が空いていた。
「行ける?」
「糞餓鬼が。俺ぁこんなんじゃ死ねねぇんだよ。……走るぞ」
拳大の血の塊を口から吐き出して、笛のような息を数回吐き出した。ただそれだけで大國は何事も無かったように走り出す。だが彼の胸から流れ出る血は止まっていないし、穴は塞がってすらいない。
ベルフェゴールは心配をしなかった。する余裕がないとも言っていい。
この数分の間命を預けた人にそんな不要だとも考えていた。
「は……は……着いた。ベルフェゴール! 精ぇ一杯吹けッ」
才賀の体があった場所に存在している泡の塊、それの目の前までベルフェゴールは到達した。
その後ろで大國は膝をつく、玉のような汗を一つかいている。だがその腕は止まらずに彼女を狙う触手を斬り落とした。
ベルフェゴールは胸いっぱいに息を吸う。鴉の喇叭、本来この魔法に息は必要ない。
口をつけ、息を吐こうと思うだけで大音量の目覚まし音が鳴る。だが彼女は胸いっぱいに息を吸い、力強くそのラッパを吹いたのだ。ただそうすべきだと思ったが為に。
瞼は開かず、夢は覚めない。
だがシャボンが一つまた一つと弾けて消える。
悪夢のような極彩色を作り出していたシャボンが少しずつ消えていく。
そんな中突如弦楽器のような優しい音色がその場に流れ始めた。
シャボンが弾けるのを止める。そして増えていく。
「吹き続けろ、寝かしつけられちまうぞ」
大國の叫びによって脱力していたベルフェゴールはまたラッパに空気を入れ始める。
超常なる存在を眠りに誘う理外の音色が、神によって作り出された全生命の目を覚ます魔法の音色とぶつかった。
シャボンが割れることも増えることもせずに止まっている。
拮抗状態だった。
大國はただ見ている事しかできず、荒い息を静かに整えるばかりであった。今彼がその刀を振るったとしても才賀とベルフェゴールの距離が近すぎて彼女のラッパの音まで斬ってしまう。生きた音の奏でる音を斬ったとしても、ベルフェゴールの鴉の喇叭まで斬ってしまったのならば意味がなかった。
そして何も起こらなくなった。
シャボンは未来を映し出すことも無くなり、生きた音は才賀を寝かしつけるのみであり何も起こらない。
ベルフェゴールは諦めなかった。だが生きた音も諦めることはなかった。
大國に出来ることはなく。
千日手が訪れた。
だが一つ、異物がそこにはいた。
彼はこの混沌渦巻くこの場所で奇跡のように傷一つ無くそこにいた。
だが精神は深く損傷し、深い狂気の闇に呑まれている。永遠にその狂気から脱することはなく、餓死し魂が全てを忘れてしまうまでそれは闇に囚われ続けるはずだった。
幼子のように現実を拒絶し、起きたくないと泣く彼にもその音は届いていた。
慈悲はなく、それは耐える事の出来ない神の音色。
彼が瞼を開く。永遠に光を移すことがないはずだった網膜に陽の光がぶち当たる。
極彩色のシャボンたちは陽の光を遮るほどの数はなく、温かい太陽の光が瓦礫を照らしていた。
闇の中で蹲っていた彼の体を光が照らしている。温かい光は彼の心に浸透して、砕けた器をかろうじて繋ぎ止める。
狂気に堕ちている事は変わりはない、だが冷たい狂気の湖に正気の薄氷が張ったのだ。
「あ」
数億年もの間言葉が発せられなかったかのように枯れた喉が動く。
彼は目の前を見ている。
ほんの僅かの正気を得たからと言って彼は目の前が見えているわけではない。
今、彼の視界には正気と狂気が入り混じっている。
彼の目の前には大量の泡、そしてラッパを吹いている女性と大量の血を垂れ流して膝をついている老人の姿しかない。だが彼には二人の姿なんて見えていなかった。そして泡すらも。
それだけではない。大音量のラッパも弦楽器のような人知を超えた音色も全く聞こえていない。この狂気の世界で正気の世界を幻視している。
その中で何が彼に見えているのか。それは一人の人間だった。
彼の視界に存在していない人間、だが確実に存在している。
それが幻覚なのか、狂気と正気の境目に存在する神懸かった思考による真実であるのか。彼に知る由は無い。
だが彼はその名前を呼んだ。
「才賀……?」
「れいま?」
全てのシャボンが弾けて消えた。
混沌なる魔王
眷属へ悲しみ、絶望、慈悲を譲り与え、怒りを叫びながら顕現した極彩色の泡で彩られている化け物。
狂気に侵された小説家によってアザトースと名付けられたそれは夢を見ていた。
暗黒の迷宮にて世界の終わりまで眠り続ける白痴の魔王。
だが、侮ることなかれ。
白痴とは知能が極めて低いという意味ではあるが、その言葉が人の口から出でたとは限らぬのだから。




