67話 這いよりし者
「ベルフェゴール、急げ。黒い山は霞のように消えていっているが、封印が解かれた今我々は何時襲われてもおかしくない」
ルシファーがそう言うまでもなくベルフェゴールは走り出していた。
そして残るは悪魔が二体、鬼、吸血鬼、そして人間が一人ずつ。
五名の間で緊張が糸のように張る。現在進行形であの黒い山は塵のように風に吹かれ消えているが、彼らの周辺にはゴム質の真っ黒な巨木が聳え立つのみで全くの異常を見出すことが出来なかったからだ。
あまりにも静かすぎるが為に彼らは胸騒ぎを抑えきれない。
「静かすぎる。ベルフェゴールについていった方が良かったんじゃないか」
「ラオ、何か感じるかい?」
ブライはあまりにも静かすぎるために襲い掛かってきていないのではないかとすら考えていた。
ルシファーの問いかけを聞いてラオは数秒目を閉じて感覚を研ぎ澄ませた。
だが何も感じなかったのか首を振る。
「大きな怒りが一つ、恐らくサイガのものだ。ソレ以外に感じるものは無い」
「周りを見ても建物と黒い巨木があるだけで何も見えないねー」
ホップが周りを見渡してみるが何も異常は感じない。
彼女だけは相変わらず軽薄な笑みを顔に張り付けている。だが、微かに顔が強張っていた。緊張を抑えきれていない。
ルシファーが翼を広げる。羽の一枚一枚が光り輝き、影が彼の方へ伸びていく。
「結論が出た。僕たちは今、戦闘状態にある。何処に敵がいるのか分からないが、ね」
ルシファーが翼を広げる。それは使うに値する状態という事だ。ルシファーですらも制御できないそれが使えるという事は、戦闘状態という意味もあり、それは戦闘が始まっていることを告げていた。
ルシファーは試練を受けさせる悪魔である。故にそれ以外の力の行使は恩恵によるもの以外許されていない。
今回彼が戦闘に参加しているのは彼の化け物たちがこの世の生き物ではないからというもの。そしてベルフェゴールがルシファーを説得することに成功したという恩寵でしかない。
ただそれも戦闘を助けるという限定解除である。つまり戦闘状態でないと力を解放できない。
「僕が全ての羽を広げられた。これは平常時ではありえない。つまり今我々は攻撃を受けているようだ」
「といってもルシフ」
ブライが血を吐く。
「ァー、敵がいないんじゃ戦いようもないだろう?」
心臓を黒い枝に貫かれながらブライはルシファーに問う。黒い大樹に己の胸が貫かれているこの状況にどこの異常があるのだと。暖簾に腕押しというが暖簾すらなければ押すことも出来ない。
勿論彼もほんの少しも警戒を解かずに辺りを見回しているし、眷属たちに建物の裏や奥まった路地を監視させている。だが彼は何もないこの状況に気が抜けざるを得なかった。
大きく生えている漆黒の樹木が嘲笑のような音を枝から響かせている。
だがアスモデウスだけが何かに気付いたようで、ブライに尋ねた。
「待て。今、何かが減った。ブライ君、君の眷属は全ているか?」
「眷属は減って…………いや、違う。減ったのは、僕自身だ。命のストックが確かに一つ減っている」
いつの間にか仲間の一人を一回殺されていた、という事実は恐怖を与えた。
一際その事実に動揺していたのはラオだった。
怒りをその魂に刻んでいるこの男にとって下手人が全く分からない事、ましてや己がその下手人を見逃した事に恐怖を感じた。
彼の感覚では何も生じなかったのだ。害しようとする意志も、殺されたという事に対しての怒りも、何も。加害者も被害者も感情が発生しないという異常事態。
ほんの少しでも、小突いただけでもアリの涙ほどの感情は動く。故に彼は起きる暴力を見逃したことはない。なかった。
だが今それは行われていた。害された本人ですら気付くことが出来ない殺害にラオは純真に恐怖した。
そしてその恐怖は彼の精神を激しく揺らしてしまう。
安定性を失っていく精神、それを恐怖は深淵へと誘った。
彼の全細胞、全脳細胞が目の前の事象を理解しようとする。理解しなければ未知というモノに包まれてしまうという反射だ。
彼の全てが生きる為のモノではなく、現在進行形で起こっている事を理解するためのモノになろうとしている。
ほんの少しの時間彼は生きるのを止めた。
心臓を動かす脳のスペースでさえも削り、それを理解しようとしている。
「あの巨木だッあの漆黒の木が俺たちを攻撃しているんだ!」
ラオは気が付いた。その代償に彼の頭の中で何かが弾けてしまう。
そして彼の言葉は他の者の蒙を啓いた。
そうして五名は初めて目の前に立っていた黒く大きな木が敵であると気が付いたのである。
「驚いた。初めての経験だよ。僕が驚くなんて」
「ふふ……やはり力が強いと精神も強く作られたのでしょうね。私は気が狂いそうになるのを必死に抑えているというのに」
「アスモデウス、君老人の姿に固執するようになってから頭も固くなったんじゃないかい」
「相変わらずやる気にさせるのが上手いようで。愛故に固くなったと言うのなら、愛故に乗り越えて見せるのが漢でしょう」
アスモデウスはその手にした斧を撫でると、体の震えを弾き飛ばした。
その姿を見てルシファーは拍手をしている。
「大丈夫ですか? すっごい体が震えてますケド」
「ホップか……すまん、俺は戦えないかもしれない」
ラオは体が震え、耳が聞こえずらくなり片目がほぼ見えていなかった。
何かされたという訳でもなく、コレは全てラオに原因がある。
彼は目の前のモノを偽りであろうと、歪であろうと、理解しようとした。それが例え全ての一端だとしても真理を掴み、理解したがそれを脳は拒絶した。
脳という生体部品がその事実を否定したのだ。その身を凍てつかせるような恐怖に包まれたが為に。
その恐怖が体を震わせ、何も聞きたくないと耳を閉じさせ、何も見たくないと目を閉じさせる。
つまり、全て心因性のモノだった。
「ホップ……戦闘になる前に建物の物陰まで肩を貸してくれはしないか」
「いいっすよ。ラオさんには旅の間お世話になりっぱなしでしたし、これくらい安いものっすよ。じゃ、お三方急いで連れて行ってくるっす!」
歩くこともままならないラオをホップが建物の影まで連れていく。
緊迫したこの場において、ひたすらに明るいホップはラオの恐怖を和らげているかもしれない。
建物の影、戦闘に巻き込まれたとしても瓦礫に埋もれる程で済む所でラオは降ろされた。彼は種族上瓦礫に埋もれようと死ぬことはない。安全な場所なのだ。
ラオは座るでもなく、倒れるでもなく、頭を抱えて蹲った。抑える事の出来ない脳から垂れ流される恐怖に耐えているのだろう。
ブライが激しくせき込んでいる。胸を黒い枝に貫かれて、肺に大量の血が入り込んでいる事を今初めて気が付いた彼は呼吸もままならぬまま膝をついている。
彼は吸血鬼である為体の再生はもう始まっているのだが、湯船に気が付けば顔を埋めて居たように混乱が激しく体調を乱していた。
「数度……死んでいた。気が付かないうちに」
体の再生を終わらせ、目の前の木を睨みつける。彼は正体不明の何かから、己を殺すことが出来る化け物として目の前の敵を再定義した。
風が吹いていないのに黒い木は揺れている。木々が軋み、葉もないのにこすれる音が鳴り響いている。
世界中を探しても見つかることのない音を発するその木を見て、ブライは笑っていると感じた。
自らの血に溺れ、膝をついている自分を嘲笑っているようにすら思えた。
吸血鬼、それも吸血鬼という種が作り出したハイエンド種という自負が彼の中で怒りを呼び起こす。
「ブライ、頭に血が上ったままだと死ぬよ」
木が激しく揺れる。
「死なないのが吸血鬼たちの望みなんだろう?」
ブライの中でざわつきが止んだ。
ルシファーの言葉がそんなにも彼の心を動かしたのだろうか、彼自身も分からず少し混乱していた。
だがブライの頭がさえわたった事は事実だった。彼の中で迷いが消えている。
「ルシファー、僕はどうしたらいい」
「頭に血が上ってさえいなければ大丈夫。丈夫だからって油断しないように」
木が大きく揺れる。腐りきったドブから粘着質の音が鳴っているような音だった。
アスモデウスの動きが一瞬止まった。
「来る。全員死ぬな」
ルシファーがそう全員に注意した瞬間枝が急速に伸び、彼らに襲い掛かる。
とても生命体の動きではないそれは、見切りずらく四名の体を抉っていく。
関節も体のこわばりも無く、時間だけが加速しているように伸びるそれを完全に避けるのは難しかった。
アスモデウスは避けるのが遅れ、脇腹を枝が貫いた。だがそれ故に攻撃の機会でもあった。
悪魔と言えども痛覚というモノは備わっている。激痛が彼の脳を駆け巡っているのにも関わらず、汗一つ垂らさずに彼は大きな斧を振るった。
漆黒でゴムのような奇妙な質感を持ったその枝を斧が容易く切り裂く。
するとその傷から鈍色で、脂が浮いているような奇怪な極彩色模様を映し出した血のような体液が噴き出す。
そしてえずくような匂いがアスモデウスを襲った。
頭がチカチカとして、胃の中を悪意のままに引っ掻く回すような最悪を彼は経験した。
体を傷つけられた黒い木が叫ぶ。木に口は無いけれど、幹が軋むように音が鳴る。
木の穴から震え裂かれたような絶叫がかき鳴らされていた。
耳を塞ぎたくなるような大音量にルシファー、ブライ、ホップは面を食らっているが、またしてもアスモデウスは体の動きを止め目を見開いていた。
「この私がそれで止まるとでも思っているのか」
地獄の底から聞こえる軋みのような低い声だった。
老いた顔を激しく歪ませ、目の前の木を睨みつけている。
黒い木は斧でつけられた傷が全く効いていないのだと示すかのように、アスモデウスの脇腹につながっている枝を己で折り捨てた。その断面から鈍色の体液は噴き出ず、全てが悪ふざけのような黒い木を彼は静かに睨んでいる。
「私の思い出に懸けて、殺す」
斧を静かに撫でると彼は脇腹にある枝を握り砕いた。
黒い木から切り離された枝は水分が抜けたように真っ白になりスポンジのように脆く軽くなっている。
黒い木は枝を震わせて激しく音を出している。
「ルシファー! 生半可なものじゃアレは倒せない。君が消し飛ばせ」
「うん。時間はかかるよ」
「良し。ブライ、ホップ、それでいいかい?」
「了解した」
「右に同じッス」
ルシファーに光が向かい始めた。彼の持つ翼の輝きが強くなり、それに比例して影も濃くなっていく。
黒い木はルシファーに向かって攻撃を始める。
それは木がルシファーを危険視している証拠にもなる。アスモデウスはそれを見て頷きながら、斧で枝を斬り落とす。
「あの血は口に入れちゃダメだよ。出来れば浴びもしない方が良い。出来るだけ攻撃した後は離れるんだ」
「無茶な事を言うっすねぇ!」
ホップの剣が枝を斬り落とす。すぐさま彼女はその場を離れるが腕に鈍色の体液が付着してしまう。
その動きは素早いものだったが、攻撃しながら吹き出る血液を避けるなんて芸当は雨を避けるような無茶なものだ。
「あっちぃ! うっそ、鉄が溶けてる」
彼女の服の下にはチェーンでできた防具があった。だがそれを溶かし肌に損傷を与えていた。
少量であったがために骨まで達してはいないが、多量に浴びれば骨まで解けるのではないかという恐怖が彼女を襲う。
「ん……? でも剣は解けてないっすね」
「コイツ、意識的に出している。断面から体液を出しているんだ。血が流れているんじゃなく、有害な体液を斬られた断面から出しているだけで。その証拠に貫いた僕の手が溶けていない」
ブライが手刀で枝を斬り落としているが、彼の手は全く体液に濡れることはなく無事である。
そして吸血鬼としての優れた身体能力が斬られた瞬間と体液の吹き出すタイミングのズレを観測していた。
彼は吸血鬼である為に生命体の作りには造詣が深い。血管から、もしくは体組織から体液が漏れ出るタイミングと目の前で起きた枝から鈍色の体液が噴き出るタイミングは違っていた。
「つまり?」
「必死に攻撃している僕らを馬鹿にでもしているんじゃないかな」
「それは重畳。本気を出されるよりもずっといい事です」
耳障りな音を出す揺れる黒い木を見ながらも、少しも感情を沸騰させずにアスモデウスはそう言った。だがその感情は煮えたぎっている。噴き出さないだけで、その温度は上がり続けていた。
穴から聞こえた声に激怒していた彼だったが、思考は至極冷静を保っていた。
「我々の目標は奴を倒すことではない。ルシファーの準備が出来るまで彼を攻撃させないことだ」
「わかってます!」
ルシファーに枝が向かうが、ブライの手刀が刈り取る。
吸血鬼の鋭い爪が肌を貫く。
「ブライ……? 君は」
アスモデウスが苦しそうな声を出した。信じられないような顔でブライの事を見ている。
ブライの腕は彼の胸に刺さっており、分厚い筋肉を貫いていた。
アスモデウスの後ろから不意打ちをするようにされた攻撃は、彼の致命傷たるものだろう。彼は足の力が抜けて膝をついている。
「は? 僕は、何を」
ブライの体が固まる。
思考が完全に止まった。
黒い木の枝を攻撃していたはずが、アスモデウスを攻撃していたという事実を彼の脳は処理できなかった。
彼の腕を血が滴っている。
「血、血が……鈍色の血が……! …………鈍色?」
黒い木が嗤っている。
「ブライ、正気に戻れ! それは私ではない」
アスモデウスの叫びが聞こえるころには手遅れだった。
十数本もの枝がブライに殺到した。
木を締め付けるような音と液体を弄ぶような音が鳴っている。
数瞬の内に為されたそれは、残された二名に吸血鬼と言えども死を予感させるもので、驚きを与えた。
幾重にも絡み合う枝から滴り落ちる血とまばらに散らかされた白い欠片が今のブライの全てだった。
「ブライさん」
ホップの悲鳴に反応したように枝が彼女を向かい始める。鋭い速さをしている枝は付着した血と肉を振り払い、石畳に広がる血だまりだけが残されていた。
アスモデウスが呆然としている彼女を助けるも、三から一減るという戦力低下が戦況のバランスを変えようとしている。
ホップは人間である。吸血鬼のように再生できるわけでも、悪魔のように肉体に依存していないために致命傷というモノがそもそも無い生きものでもない。
彼女は魔力が多いと言っても人間であり、再生には限界がある。
故にアスモデウスが無茶をしていた。彼は悪魔であり、少しばかりの損傷であればすぐさま魔力で回復できる。
「足手まといなら見捨ててくださいッス」
「私一人では無理なんですよ。だから君も、頑張るんだ」
二名では数十もの枝を全て斬り落とすのは無理があった。
それも噴き出す体液を全て避けながら、というのは不可能だった。
故にアスモデウスは己の体を犠牲にした。まず体液を無理に避ける事を止めた。
肌を焼く体液と思考を侵す気体を受け入れた。
それでも足りなかった。
老いたままを維持している彼の体だが筋肉を落としているわけではない。つまりコレが彼の全力で、奥の手なんてものもない。
斬り落とせなかった枝がルシファーへと向かおうとするのを体で受け止める。
彼の体を貫いた枝を筋肉で締め上げることによって止めたのだ。
そしてそれをホップが斬り落とす。斬り落とされた枝を砕き、体を再生させた。
だがそんな無理は続かない。
アスモデウスの体は着実に疲労していく。
「アスモデウスさんっ」
疲労は判断を鈍らせる。
アスモデウスは自分の後ろから迫っている枝に対応できなかった。
彼はルシファーに向けられたものに対しては警戒が高かったのだが、己に対して向けられているものに対して警戒度が下がっていたのだ。
その枝は頭を貫いた。
生命体にとって脳とは思考する為の物である。
それは高次生命体である悪魔にとっても変わりはない。
だが悪魔にとって生命維持するために必須のものではない故に死ぬ事はない。
数秒の拍をもってアスモデウスは頭部を再生させた。
だが数秒の空白は脳を鈍化させた。
「アスモデウス、何してんのさ?」
「エシュマ、なにって……戦ってるんだよ」
アスモデウスは虚空へと返事をした。
彼は今己が思い出の中ではなく、現実の只中にいるという事に気が付いていなかった。夢と現実の境目が滲んでいる。
生温い昔の空気が彼を包む。永い時間を生きてきた彼であってもそれは失い難いものであったのか、精神がそのぬるま湯に沈んでいく。
遂には数秒という戦場であってはならない時間の硬直を彼は甘んじて受け入れていた。
色欲の悪魔、アスモデウスのその意識が現実に戻ってきたのは全身に液体をかぶったからだった。
どろりと温かいその液体は彼の非現実感を吹き飛ばし、正気に戻す。
「何が」
「よか、良かった。再生が、まに……間に合った」
ブライの心臓を黒い枝が貫いている。ホップによって斬り落とされた枝が白く脆くなり崩れ落ちるが、あけられた大きな穴が、また一つ確実に彼の命を黒い木が奪い去ったことを示していた。
ブライはその体を肉片へと変えられ、個体から液体へと変化させられていた状態から再生して帰ってきた。その代償は決して軽いものではない。
肉体が残っていればいるほど再生は楽になる。そして再生しなければ穴の開いたバケツのように命は彼の体から漏れ出てしまう。
吸血鬼の再生能力は生命力を魔力のように使う事で体の損傷を治している。
ブライが与えられたダメージ、そして血だまりのような状態から再生させるために湯水のように消費した分を合わせると彼は膨大にあった命の三分の二を使い果たした。
ブライは死に直面しながら今再生すると今度こそ死ぬという直感を得ていた。脳であるか肉体の脂であるか分らぬ状態に貶められていた彼は魂でそれを感じていた。死と生が交差している特異な状況で得られた素晴らしき直感と言える。
事実黒い木は彼の事を狙っていた。彼が生存本能に追われながら死を脱していれば今度こそ黒い枝はブライの命を消費しきっていたことだろう。
黒い木がアスモデウスの意識を侵し彼を仕留め切ろうとする時、かの木はブライから意識を外した。
彼は最初に脳と目玉を再生させる。命の流出は止められなかったが、周りの状況を把握する事は出来た。
そしてアスモデウスに危機が迫っているという事も知覚した。
血だまりに浮かぶ脳みそとそれにつながっている目。ブライはそれを蝙蝠に変化させ、移動する。
蝙蝠が分裂するように数を増やして体を再生させる、生命維持機能を取り戻した時アスモデウスの目の前へとたどり着いた。
蝙蝠たちはその体を結集させ、ブライを形どっていく。そしてアスモデウスに迫る枝をその体が受け止めたのだ。
「ブライ、何故」
「早く目を覚ましたまえ。死ぬわけにはいかないんだ」
アスモデウスの緩んだ糸がまた張られた。彼は二本の黒い枝を斧で斬り落とした。
斧が地面に当たり重たい感触が彼の手に伝わる。その感触こそが彼が完全に帰ってくる契機となった。
「すまない。苦労を掛けました」
「僕こそ二人だけにしてしまって申し訳ない」
二名の会話は短く終わった。
すぐさま二名はルシファーに迫る枝を防ぎ始める。ホップとアスモデウスの二名では防ぎきれなかった黒き枝の応酬も、三名に戻ったとなれば少しの安定を取り戻し始めていた。
そして驚くことに三名とも疲労が蓄積しているはずなのに最初よりも安定して防ぎ始めたのだ。
その結果はブライが多大に貢献している。彼は死の淵を覗いたことによって死を明確に認識した。
これ以上踏み込めば死ぬ、あの攻撃は放置すれば仲間が死ぬ、この攻撃は放置しても死ぬことはない。
その死を彼は全て感じていた。死神が耳元で囁いているかのようにすら彼は感じている。
ブライは死を経験し、生命という範疇から逸脱し始めていた。目から見た物しか見ることが出来ない、脳で処理しなければ思考することが出来ない、その生命としての常識を無意識のうちに無視している。
彼は今目を向けていない所も認識しているし、脳が無くなったとしても思考し動くことが出来るモノになっていた。
彼は吸血鬼という生命体から化け物に一歩足を踏み入れていた。
「完了した」
枝を安定して捌くことが出来るようになった三名はルシファーのチャージ時間を稼ぐことに成功した。
静かにルシファーが目を開き、黒い木も見据えた。
「コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー承認」
ルシファーの右に生えている白い翼が目も眩むような光を放ち始める。
「ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド承認」
ルシファーの左に生えている黒い翼が全ての光を吸い込み、この世の何処よりも暗い場所へと変貌する。
「僕たちは君をこの攻撃を放つべき敵だと認識した。僕たちは彼らの功績をこの一撃に足りうるものだと認識した。試練の時間だ。君、耐えてみ給えよ」
その言葉は詠唱ではない。宣言であり、忠告であり、説明だった。
全てを焼き尽くしそうなほどの光が、ブライを飲み込みながら黒い木を撃ち抜く。
「殺されたかと……思ったよ。心臓に悪いなぁ」
「説明しておけばよかったかな? 僕の力は敵にしか効かない。敵に値しないものを僕はどうやったって殺すことが出来ないようにね。まぁ、逃げられないように、だ。許してくれブライ」
「大丈夫、それで倒せたのかい?」
黒い木は無くなっていた。砕かれた白い枝が転がっているばかりで光が収まったそこには、全くの敵影は見られなかった。
だがブライはそれで倒せたのだろうかという確かめようのない不安を感じている。辺りを見渡す彼の額を一滴の汗が流れた。
「恐らく。……ただ僕も戦闘状態が解けないのが気にかかっているんだ。あの木は倒せたはずなんだけど」
「いいや、やるなら全てだ。アレはそこまでやらなきゃいけねぇ」
足を引きずったラオがルシファーの言葉を否定した。彼は少し回復させると強迫観念のような悪い予感に従ってここまで這いずってきていた。
彼が腕を振ると、炎が辺り一面に広がる。怒りの炎はルシファーら四名を焼くことはない。
「あの枝だった白い灰も全て焼き尽くす」
白い灰は焼かれると、まるで死んだふりをしていたかのように動き始めた。
だがそれらはルシファーたちを攻撃しようとするわけでもなく揺らめいている。すると怒りの炎がラオの制御を外れた。だが五名を焼くことはせずただ激しく揺らめき、笑い声を発した。
ゲラゲラと醜悪なその笑い声は彼らに嘲笑っているような悪意を感じさせた。
攻撃するでもなくただ笑い声を発するというふざけているような光景は灰が全て焼き尽くされるまで続く。
「何だったんです……? アレは」
アスモデウスは斧を手放し座り込んだ。緊張が緩和され疲労が彼の体を地面に縛り付け始めている。
周りの警戒は怠っていないが、勝ったという事実が疲労を増させているのだろう。
悪魔と言えど限界を向かえているのだ。
「知らないよ。ラオ、炎の支配権持ってかれたの?」
ブライはアスモデウスの問いに応えながら膝から崩れ落ちた。完全に下を向いてしまっているが今の彼に視界という概念は存在しない。
「あぁ、あれは俺の炎じゃなかった。何だったんだ、なのに焼かれている。意味が分からん」
「大罪の力が操られるなんてねぇ」
ラオは自分の手が操られ、己に中指を突き付けてくるような奇怪な感覚の気持ち悪さに顔をしかめていた。
「まぁ勝てたんだから良いじゃないっすか。ブライさんも死ななくてよかったっす」
「心配をかけたな。……そうだな。勝てた、のか」
ホップのその言葉に、貯めた息と共に力を抜いていくブライ。
勝ったという実感が彼の中に芽生え始めていた。
ホップの朗らかな表情にラオも絆されていく。戦闘が終わった安堵を齎していた。
血みどろの戦場に勝ちという喜びが芽生え始めている。
「いいや。まだ終わってないよ」
そんな平和な空気を壊したのはルシファーだった。
彼は白い灰が焼き払われた後も全く力を抜くことなく、顔を強張らせていた。
「だって、僕の戦闘状態が解かれてないもの」
ルシファーの敵はもういないのにもかかわらず、彼の翼がその力を失うことなく輝いている。
つまり彼の権能は今この時でさえも傲慢の力を使うに値する状態であると示している。
四名に鋭い稲妻のような緊張が走る。誰も敵がいないのに戦闘状態という矛盾がまたしても彼らに訪れた。
「でも……敵は何処に? この町のどこにも僕ら以外の生命体はいないよ?」
「うん。でも僕の中に一つの疑念があるんだ」
ルシファーはそう言うと、光を強くした。
影が彼に伸び始める。
「僕のこの攻撃の射程範囲は光の届く場所だ。そして影は僕に向かって伸びる」
つまり逃げ場はない、と彼は言った。
「大丈夫。さっきも言ったように僕の敵じゃなければ効果はない。だから、信じてくれ」
ルシファーから光が放たれた。一瞬の事だったが、この世界に影という概念が消失した。
完全な密室でなければ彼の光はその場所へと侵入し、敵を探す。
アスモデウスたちは光に目をくらませ、何も見えなくなった。一瞬完全に影を無くした光の世界から戻ってくる。
三名が辺りを見るとそこには。
「驚いた。驚いたよ」
ルシファーが驚きの声を上げた。
ホップの全身が焼かれ、崩れ落ちる。
彼女が焼かれたという事に驚き、仲間を攻撃したルシファーに怒りを覚えた。だが彼らは正気を取り戻す。
「ホップって誰……だ?」
ルシファー、アスモデウス、ラオ、ブライの四名は今初めて肩を並べ戦った戦友が、初対面である事に気が付いた。
暗黒の大樹
主より絶望を譲り受けた漆黒の異形。
狂気に侵された小説家によってナイアルラトホテプの名を付けられたそれは、生命の認識というモノを弄ぶ。
友人、恋人、家族、絆というモノ全てを嘲笑い、矮小なる存在などそんなものだと見下している。
だが、見下しているというのは見つめているという事に他ならない。嘲笑を覆されれば、彼はその絶望を癒すだろう。
泡沫が如き塵芥を嗤うことなどできないのだから。




