66話 母よ、母よ、何故泣いている
太陽の光が窓から入り、ベッドの片隅を温めながら部屋を明るく照らし始める。
ベルフェゴールは瞼に光を感じて静かに目を開けた。
魔力の節約のために消していた泥の義手を作り出し、体を起こす。
「初めての感覚だなぁ」
ベルフェゴールは通常の生命体ではない。故に眠ったとしても完全に意識が切れて、睡眠という暗黒に精神を落とすことはなかった。だが、彼女は今奇妙な感覚に襲われていた。
脳回路が泥濘に塗れているような鈍い感覚を彼女は楽しんでいた。
怠惰という異名を受けてながら、初めて眠いという異常を彼女は楽しんでいた。
「百年じゃ治らないだろうなぁ、これは」
ひび割れた両腕の付け根に彼女が目をやると、ほんの少しだけ埋まっているように感じた。
魂から砕けたそれはそう簡単に治るものではないというのは彼女も分かっていたことだが、鍾乳洞のような愚鈍な進みを見て改めて果てしなさを感じた。
固まった筋肉を伸ばしながら今日やらなければならない責任の大きさを考えている。
彼女が失敗すればこの世界の未来はないのだろうという重さを、大きな息とともに受け入れていく。
友人を無くさないために彼女は安易な選択を選ばなかった。たとえそれが世界をベットする重たい賭けであったとしても。
彼女が動き出そうと四肢に力を入れた時扉が叩かれた。
木でできた扉は軽い音を響かせる。彼女はその音に驚いた。
扉の前にいる人間がだれなのかわからなかったからだ。
レスポンスに時間がかかる。数秒経って扉の前にいる人間に声をかけた。
「誰?」
扉越しに声が聞こえる。
ベルフェゴールはその声を聞いて驚いた。
目を見開いて、数秒固まった。そして入るように促
太陽の光が窓から入り、ベッドの片隅を温めながら部屋を明るく照らし始める。
ベルフェゴールは瞼に光を感じて静かに目を開けた。
魔力の節約のために消していた泥の義手を作り出し、体を起こす。
「初めての感覚だなぁ」
ベルフェゴールは通常の生命体ではない。故に眠ったとしても完全に意識が切れて、睡眠という暗黒に精神を落とすことはなかった。だが、彼女は今奇妙な感覚に襲われていた。
脳回路が泥濘に塗れているような鈍い感覚を彼女は楽しんでいた。
怠惰という異名を受けていながら初めて彼女は眠いという異常を楽しんでいた。
「百年じゃ治らないだろうなぁ、これは」
ひび割れた両腕の付け根に彼女が目をやると、ほんの少しだけ埋まっているように感じた。
魂から砕けたそれはそう簡単に治るものではないというのは彼女も分かっていたことだが、鍾乳洞のような愚鈍な進みを見て改めて果てしなさを感じた。
固まった筋肉を伸ばしながら今日やらなければならない責任の大きさを考えている。
彼女が失敗すればこの世界の未来はないのだろうという重さを、大きな息とともに受け入れていく。
友人を無くさないために彼女は安易な選択を選ばなかった。たとえそれが世界をベットする重たい賭けであったとしても。
「よし、皆に説明しないとなぁ」
平原を冷たい風が走っていた。
空は青く、雲が見当たらないほどに晴れている。
そこには悪魔が三体、女が一人男が三人。
ルシファーが全員の前に立っている。そして話しかけた。
「ペネト、君が最初の関門だ。そして、最後の問いだ。出来るのかい」
「うん。僕ならできる」
「よろしい。君に化け物の一体を任せよう」
ペネトはルシファーから目を外し、城の方を見つめている。
彼女は今何を考えているのか語ろうとはしないが、確かにこれまでの彼女と雰囲気は違った
いつから、そして何が彼女を変えたのかルシファーも分からないが、真剣な彼女をルシファーは信じた。
「アスモデウス、ラオ、ブライ。僕たちがもう一体を止めなければならない。死ぬかもしれない。大丈夫かい」
「俺は……サイガに恩がある。たとえ死んだとしても」
「僕は友達を助けたい。だから戦うよ」
アスモデウスはルシファーの声に応えず、大きな斧を握った。表情は硬く、体も強張っているが鋭いまなざしが強い意思を表していた。
翁はそこにいる人員を眺めて、視線を逸らした。
「ベルフェゴール。僕らが命を賭すのは君をサイガの前まで運ぶためだ。君が成功しなければ僕らの戦いも意味がない。自信はあるかい?」
「無いよ」
「失敗したらこの世界はろくでもないことになるだろう、それでもやると?」
「ええ。それでも」
「いいだろう。君に僕らの命を賭けよう」
ベルフェゴールのその言葉を聞いてルシファーは四対の翼を広げる。
傲慢の悪魔である彼が目の前の同胞の為に力を解放したのだ。
人類史において彼の力が完全に解放されたことはなかった。彼の力はこの世の生命に振るうには強すぎる。だが今において彼はそれでも不安を抱えていた。
「話は纏まったかァ?」
「あぁ。翁、お願いしても?」
「そうだなぁ……そこの建物よりも前に出るんじゃねぇぞ。ありゃあ元々が規格外のモノだ。どれだけ弾けるかわかりゃしねぇ。じゃあ、行ってくる」
デッドラインを翁は残る者たちに伝えた。
そして、遠くに見える城にある黒い立方体を解放せんと彼は走り始めた。
だばだばと薄汚い和服を振り回しながら走っているのに速い、それでいて静かな走りだった。
翁が走り去った後その場には沈黙が残った。
悪魔たちも慣れない死という怖気が背にへばりつきながらも、首へと巻き付かんと目指しているような焦燥感に襲われていて、その顔色は優れない。歴戦の悪魔たちは戦前の新兵のように緊張していた。
遠くにかすかに見える黒い立方体の中に絶望が込められている、そんな恐怖は死を身近に感じてきた人間、吸血鬼、鬼であっても胃酸が喉を焼かずにはいられない。ごくりと焼ける感覚を感じながら待っている。
死を直視しながらも彼らは決して目を背けることはしなかった。少しだけ荒れた呼吸の中真っすぐと城を見つめている。
どれだけ恐怖を感じようと、時間が止まることはなく、運命は動き始める。
翁がその封印を解いたのだ、というのが全員に伝わった。
凍てつくような空気が足から伝わってきた故にそれを悟った。悪魔たちの脳内に世界の技術がリセットされる前、その旧き信仰にある地獄という言葉が浮かぶ。
地獄の門が開いたのだと悪魔たちは思った。
それに呼応したかのように魑魅魍魎の叫びが世界を揺らす。
城が崩れ、黒い山が空に泣き叫びながら出でる。
みるみると大きくなり地平の形を変えるほどの大きさになるソレは、今まさに避難している人々の眼にも届いた。
その黒い山は山羊のような目を濡らしながらも地上を見下ろしている。
人とも山羊とも、そもそも生命かもわからぬその泣き声は世界の果てまで届き、その声は聞いた人間の瞳を濡らした。泣きじゃくりながら泣かないでと叫ぶ彼らは、誰が泣いているのかも分かっていない。
泣き叫ぶ山を見た人間は山へ向かい祈りはじめ、避難を止めた。強い精神を持った人々が彼らを引っ張ろうとも強くその場に座り込み続ける。そして彼らはその大いなる悲しみをどうにか緩和する事は出来ぬかと思案し、それは己の命をもってしても癒したいとすら思った。少しずつ命の天秤が傾いていく。
狂気がその人々を侵食している。
ブライは顔をしかめていた。
彼はその誕生故に母という概念を持たない。故に創り出されたその感情を不快だと断じた。
ラオは血の涙を流していた。
己の母を忘れそうになる自分自身の怒りがその狂気を上回っていた為に膝を突く事は無い。
悪魔たちは涙を流していた。
静かに涙を流し、けれど彼らは狂気に侵されてはいない。
母という概念は彼らにはない。だが強く吐き出される悲しみの感情が彼らの涙腺を動かしている。
「僕の出番だ。下がっていてくれたまえ」
ペネトには何も変わりがなく、そう言った。
彼女は魔法で土の台を作り出すと、その上に杖を置いた。
発射台のようになった杖を手を当てて、黒き山を見据えている。
「サイガ、どうせ見えるだろう。最期の講義をしようじゃないか。天才二人が作り出した研究結果を聞かせてあげる」
空に向けてペネトは話し始めた。
それは才賀が彼女に講義を受けていた頃と全く違いのない姿だった。
「これは僕の至った魔術の終着点。僕のスキルでズルをしているが、理論上これが最高だ。この世界は魔力が雑多に満ちている。故に純粋な魔術行使をする事は出来ない。机上の空論は現実世界ではほんの少しのズレが生じる。そのズレが魔術を究極から追い出すのだ」
ペネトは笑っている。
「ダンの奴は行使する物質ごと魔法陣を生じさせながら通過させることで実現していたが、僕のコレはもっと楽に作り出した。紙は薄い。だが本は厚い。二次元的な魔法陣も積み重ねれば三次元に出来る」
杖が光りを帯びていく。それは強い光になり、昼でさえ少し暗いと感じさせるまでだった。
光の正体は全て魔法陣だった。夥しいほどに重なった魔法陣が一つの光として出力されていた。
「この杖は枝のように見えるが巨木そのものだ。一度、持たせてあげたことがあったね。僕のスキルで小さくしている。コレを作り出すために森の一族と一悶着あったのだが……それは余談か。巨木の周りを一つの魔法陣で囲む。五つの丸と線、そして五つの魔術文字。それを幾百も積み重ねた。コレに五つの属性をめぐるように増幅の魔術を刻み込んだ鉄の棒を入れ込んだ。五つの属性を組み込んだそれも魔法陣の中ではほんの少しの漏れも無く作動し、威力を絶大に高めてくれる」
魔力が杖の中を巡り、エネルギーの高さに世界が悲鳴を上げる。強い風が穴を通るような恐ろしい音が鳴っている。
それでもペネトは魔力を巡らせ、高めていく。
「これでこの世の物はすべて貫ける。コレでルシファーの試練は突破した。だがアレはそれじゃ無理だろう。だからこそダンのアレだ。魂を使った魔術。彼の魔術は失敗だった。否、不完全と言おうか。たった一発で完璧な一撃を作り出すのは彼という天才をもってしても難しかったらしい。だから僕がそれを引き継ごう」
ペネトはあの時魂の魔術を見た瞬間に魂の感覚を掴んでいた。魂を認識した瞬間から彼女はそれが使いたくて仕方なくなっていた。
そして今彼女は杖という砲台の中に己の魂を注ぎ込んだ。
「ほう、発見だ。魂を体から摘出しても一応生きていられるらしい。消費しなければ繋がりが生かしてくれているのだろうか。魂の一撃、文字通り僕という存在を全て注ぎ込んだ一撃だ。果たしてこれは一体何点貰えるだろうね?」
なおもペネトは笑っていた。己の全てと言ってもいいモノを薬室に入れてしまったというのに。
新しい玩具を買ってもらったかのような歓喜に満ち溢れている。魂を消耗してでも完成させたい魔術が彼女にはあった。
彼女はコレをするためにこの場所に赴いていた。才賀という教え子も大事だったが、この理論を試したいという期待がそれを上回っていた。
黒い山はようやくペネトの事を見た。
危険を感じたのだろうか。山についている無数の眼が一斉に彼女の方を見つめる。
「母よ。僕の成果を見てくれ。コレが僕の全てだ」
ペネトは黒い山を母と認識している。
認識していてもなお、母にこの魔術を放つことを選んだ。
例え目の前の母が人間の形をして彼女の頭を撫でても、慈愛の笑みで彼女の事を見つめていても、彼女はこの魔術を放つだろう。そんなものでは己の憧れは止められない、そう感じたから黒い山の討伐を志願した。
例え遠い昔に死んだ彼女の母が目の前に現れたとしても、彼女は躊躇はしない。
狂気だった。
彼女は狂っている。
既に魔術というモノに狂い果てた彼女は黒い山の狂気に侵されても変わることはない。
朱に交われば赤くなる。元々朱き彼女は笑っていた。
そして一撃が放たれた。
世界自体を削りながら黒い山へとたどり着いたソレは少しの抵抗も感じることなく山を貫く。直線状にある全てが塵と化している。
山は夕暮れの青い空のような体液をまき散らし、ゆっくりとその力を失い崩れていく。
その声が止む。深い悲しみに満ちていた黒い山はもはや泣き叫んでいない。ただ、ペネトを見つめている。
一転穏やかな目で、子ヤギを見つめているかのような目で。崩れながらも、山はペネトから目を離す事は無かった。
屍を築き、母の悲しみを嘆いていた人々は安心したように気絶した。
「ほおら、言っただろう。僕は天才だって」
風が吹いた。
もう彼女は存在していなかった。
大いなる黒山羊
主から悲しみを譲り受けた山のように大きな異形。
狂気に侵された小説家によってシュブニグラスの名を付けられたそれは、母という概念を獲得した。
存在するだけで生命の精神を捻じ曲げてしまうが、彼女に悪意はない。ただ泣いているだけなのだ。
しかしどれだけ悲しみに暮れようとも、母である。




