64話 目覚めよ悪夢、例えこの身壊れようとも
ベルフェゴールが力を行使する。
怠惰の魔力が迸るが、それは世界を割って落ちてきたモノらには効かず、嘲笑するかのようにぬめぬめとした輝きを持つ触手を揺らめかせている。
「動きが止まりゃあ、百点だ」
老人がそう叫ぶ。そして三度ほど腰に下げられた刀が煌めくと、彼は走り出す。
下駄の音をカランカランと響かせながら老いた体を素早く動かし始めた。
だが見た目の年齢の割に息が上がり、動悸がしているという訳でもなくベルフェゴールに対して手を振りながら頼んだぜ、等と話しかける余裕が残っていた。
ベルフェゴールの体感時間が世界の時間からずれ始めた。
心臓の音だけが彼女の耳に残り、血液が流れる音が鈍く聞こえ始めている。元来彼女は戦闘用に作られていない。故に迷いが生じた。どうすればよいのだ、そう漠然とした疑問が彼女の思考を速めていたのだ。
だが恐れは、死は彼女を進歩させた。死にたくない、彼女が今日初めて覚えたその感情が前に進ませたのだ。
「止まれ」
彼女は眠らせるという事を諦めた。眠らせたところで異形達は触手を蠢かせている。彼女はこれを無駄だと断じた。
だから彼女は異形に能力を行使することを止めた。
怠惰の魔力を空間自体に使っている。
動くというのは動かすというのと同義である。透明で感触の欠片もなかったとしても空気があるという事を彼女は知っていた。
在る条件を満たせば空気というのは何者にも壊すことのできない不可侵の空間と化す。遠い昔、高速で快適な移動手段を作るときに彼女が学んだことだった。
故に彼女は空間自体を止めた。
空気が動くことを怠ければ、それを動かすことが出来ない。
動かせないものに囲まれてしまえば、固まるしかない。
「でかした、嬢ちゃん」
異形達が動かなくなる。固まった空気に囲まれ、細かく激しく蠢いている。
三秒、その僅かな時間が経過した瞬間にベルフェゴールの指先が花咲くように裂けた。
魔力が尽きたわけではない。だが、強い力で抵抗されたことにより彼女の体に強い負担がかかっている。魚に釣竿を引っ張られ、肩を脱臼したかのように腕を破損したのだった。
血管全てが破裂し、細胞一つ一つがすりつぶされたような痛みがベルフェゴールの脳内に注ぎ込まれる。
ゆっくりと指先の傷が広がっていく。
彼女はあと五秒というあまりにも長い時間耐えなければならない。
ベルフェゴールは怠惰の悪魔という名に従いたくなった。今すぐに目を閉じ、死という暗闇に身を投げてしまった方が楽なのではないかという考えが彼女の脳をよぎる。
けれど彼女が膝をつくことはなかった。
「まだ、まだぁ」
血の塊を吐き捨てるように彼女はそう叫んだ。噛みしめた歯に罅が入り、歯茎から出血している。
悪魔に失血死というものはない。失血死できる悪魔もいるが、それはそう出来るように己の体を作っているからだった。彼女にとって血というのは傷を知らせる警報でしかない。
二秒、経過した。
腕が完全に裂けた。そして指先が砂のようになるまで砕けて風に吹かれて消えた。
自分の魂が軋んでいる。そう彼女は感じた。魂が砕けてしまえば己が復活することはない、というのを直感的に彼女は悟ったがそれでも止める事は無かった。
自分が死なないために死にかけているという矛盾のような状況に少し彼女は笑った。
だがそれが戦士なのだと歯を食いしばり、空間を固めた。
また、二秒経過した。あと一秒。
老人が走るのをやめ、居合のように構える。
ベルフェゴールが膝をついた。立っていられなくなったのだ。筋肉の筋全てが千切れたような感覚を覚えながらも、彼女は前を向くことを止めなかった。
決して目を逸らさなかった。
「上出来だ」
そして老人の刀が煌めき、最後の一秒が経過する。
ベルフェゴールは十秒という時間を達成した。
異形達の姿が見えなくなった。カーテンが閉められたかのように怪物たちは見えなくなっている。真っ黒いソレは四角く、異形達がいた場所を囲んでいる。
ベルフェゴールが能力を解除しても異形達がそこから這い出てくることもなく、触手がのたうち回って地面が抉れる音が聞こえることもない。まるでいなくなったかのように静寂が訪れた。
膝をつき、腕を無くした彼女のもとに老人が歩いて近寄る。
その顔には笑みを携えており、危機を乗り越えたように緊張感というものは消え去っていた。
未だベルフェゴールは汗をかき、朦朧としているが老人は余裕を崩さない。
「あれは、なに?」
「世界自体を切り離した。数日は持ちこたえるだろうさ」
「そう、それは……良かった」
そうして彼女は倒れ伏した。
ベルフェゴールが倒れ伏すのを見届けると、翁は頭をかいた。
翁はきょろきょろと辺りを見回し、首をかしげている。
「それにしても……何処なんだここは」
「異世界って言って分かります?」
翁の背後から声がかけられた。彼は首を回してそちらを見るとひとりの女が立っている。
「分からん。が、なんとなくニュアンスは分かった。だが……それはそれとして貴様は何者だ?」
彼は目尻でとらえたその生き物を人間ではないと断じた。
その証拠に彼女を視界にとらえた瞬間に腰に下げている刀に一瞬手をかけた。だが敵意がない事に気が付くとゆるりと腕を垂らした。
和服の袖に腕をかけ、リラックスしはじめる。
「才賀くんのお友達ですよ。ファセスといいます」
「けっ化け物仲間か」
「子供にかける言葉ではないのでは?」
「俺は事実しか言わん」
化け物という言葉に顔をしかめたファセスだったが、小声でそれは……そうですけどとだけ言って引き下がる。
事実彼は化け物と言ったがそれは才賀を貶める意はなく、至極単純に化け物と呼んだだけだった。事実を言っただけであり翁に悪意はない。
才賀の友人という言葉を受けて翁は振り返り、ファセスへの警戒を完全に解いた。
「ファセスと言ったか。君は手伝わんのか?」
「僕は手伝いませんよ。彼と一緒です」
上を指さしてファセスは言った。
翁は上を一瞥すると、少し考えるそぶりを見せた。
「そう……か? アレはそういう意図でやっている訳でもないだろうて」
「それにコレは人に戻す戦いでしょう。貴方の言う通り化け物の僕が手伝うようなことではありません」
「それを言うと俺も微妙なところになるんだが……まぁどちらにせよか。君は才賀と長い付き合いになる事だろう。仲良くしてくれよ」
「はい。初めて出会った友達ですから」
二人はからからと朗らかに笑い合っている。瓦礫に満ち、血の臭いが立ち込め、黒いモニュメントがある悍ましい空間であっても彼らは世間話をしていた。
「ま、そういう意味じゃ嬢ちゃんとは目的が違う事になっちまうのか」
「ええ。まぁ」
「邪魔しねぇならそれでいいや。俺ぁ話に行ってくるか。遠くから見てる奴もいる事だしな」
彼は下駄の音というこの世界で珍しい音を鳴らしながら、その場から立ち去っていった。
外宇宙の残骸
スペースデブリのように世界間を漂うものたち。
死も生も存在しない外宇宙では死ぬ事も生きる事も出来ず、ただそこに在るだけの存在。
世界へ衝突することも出来ず、永遠にそこに漂うだけだった。
ある小説家が狂気に魅入られ、名を付けるその時までは。




