63話 ああ! 空に! 空に!
ベルフェゴールは恐怖した。
恐怖とは死であり未知である。死という終わりを持たないベルフェゴールはその命を与えられて一切の恐怖を持ちえた事は無い。
肉体が滅んだとしてもその命が絶えることのなく、再構成を迎える彼女は目の前の現象に恐怖した。つまり彼女は死を見ている。
「見よ、あの大きく口を開け涙を流す暗黒を」
誰かがそう言った。ベルフェゴールでも、隅で震えている青年でも、赤子でもない。その部屋で生きているものの声ではない。
絶叫のようなその声が何処かから響いている。光の返ってこない脳漿からそれが聞こえているのか、それとも悍ましきその光景に気が狂い幻聴に苛まれているのかも、もはやベルフェゴールには判別できなかった。
だがそれは彼女の精神が脆弱なわけでも、狂気に侵された訳でもなく正常に生きる生命であれば当然の反応と言える。
恐怖、困惑、疑問に塗れたベルフェゴールがただ一つだけ確信を持っていた事がある。
目の前の現象を止めなければならない。強迫観念のような焦燥感、それだけが彼女の体を動かした。
人々が幻視してきた死神というのはこのような姿をしているのか、と彼女は肩に手を置いた死のイメージに対しそう思っていた。
ベルフェゴールが手を振ると土でできた槍が幾つも形成され才賀に殺到した。
その一つ一つが石のように固められ、魔力が強く込められたそれは鉄すらも砕くだろう。
肉体を抉り、骨を砕き、血液が迸る。けれど身動ぎ一つすることなくただ立っている。
暗黒の脳漿は磁性流体のように重たく飛沫をあげながらも、その身をよじっている。
だが全くとして彼女は手ごたえを感じなかった。たとえ幾百もの槍を打ち込んだとしても死ぬことはないという確信を得ただけだった。
「彼の星々から意思をくみ取る事は出来ず」
ベルフェゴールが怠惰の魔力を励起させる。
「止まれ!」
倒すことが出来ないのを知った彼女は止めようとした。
怠惰の魔力は生命全てに有効な魔力で、休眠状態を強制する。
そして彼女は目の前のソレが休眠状態に入った感覚で少し安心する。とりあえず、目の前のよくわからない現象が止まったという事に胸をなでおろす彼女。
付き合いの短くない友人の頭がはじけ飛び、正体不明のモノに成り果てた衝撃よりも止まってくれた安心が勝った。
「理解されることも、人を魅了することも、顧みられることもなく」
だが世界に響く声は止まることはなかった。そして怠惰の悪魔ベルフェゴールの脳内に新たな悲報が築き上げられた。彼女の中に魔法が破られたという感覚は無い。
つまりベルフェゴールは目の前のソレに怠惰魔法の効果が及んでいるという事が分かった。つまり休眠状態にできている。
なのに止まらない声、ベルフェゴールは目の前のソレと謎の気味の悪い声に関係がないことを祈った。
もし関係のない事ならば、いっそ視界の外にある未だ成長を続けようとしている処女出産の赤子に関係しているのならば、心底安心できるのに。
ベルフェゴールは祈った。この世に生を受けて初めて。
「恐怖に駆り立てられながらも宙にあった」
だがもう一度声が発せられた時、怠惰の悪魔であり、生き物の睡眠というものに対しては上位文明レベルの理解を持っている彼女は気付いてしまったのだった。
それは後の彼女でも説明できないひどく感覚的なもので、もしかしたら彼ら悪魔たちに刻まれた神の遺伝子がほんの少し手助けをしたのかもしれない。
彼女が気が付いた事は簡単な事だった。だが気付いてしまったことはもう取り消す事は出来ない。脳に刻み込まれた情報は消すことが出来ない。
アレは最初から眠っている。その事実を悟った彼女は忘れたくなった。
怠惰の魔法は眠らせることが出来る、つまりは最初からアレに怠惰魔法は有効ではない。
「けれど主は名付けられた」
最後の言葉が響き渡り、残響ほどの時間、ベルフェゴールはその極めて短な時間で極めて長い人生を振り返った。人間でいう走馬灯というものだった。
目の前のモノを休眠状態に落とした彼女だったが、寝言のように彼女の力で阻害出来ない物で言葉は紡がれている。
言葉が紡がれただけだ。この世界全土に響き渡ったその声を聞いた人々はそう願った。
言葉を紡いで発動する魔法はない。魔術は魔術文字を媒体として舌を使って発動させるものであるし、内容で効果が決まる。
大罪の力をもって発動させる魔法に呪文を必要とするものはあるが、怠惰の悪魔ベルフェゴールの失われることのない記憶には記録されていない文字列だった。
民衆は目を逸らす。己の生命としての警鐘が鳴り、冷や汗が背筋を冷やし、今すぐにでも首を切り落とし、己の生を終わらせたくなる異常事態から。
愚か者は涙した。愚か者は愚かゆえに見えてしまった。あれこそが終わりなのだと、あれこそが本当の神なのだと。各々祈りを捧げている。
賢人は思考できる状態ではなかった。理解を超えるものを、理解してはいけないものを、声から読み取ってしまった賢人たちは暴れ狂う思考を制御する事だけで精一杯だった。それでも瞼を開かんとした者は蒙を啓いてしまった。もはや帰る事の出来ない境地に至った賢人は狂人となる。
才賀の頭があるべき場所に浮かぶ暗黒の脳漿の中から気体が沸き上がっているかのように、汚い音を立てて躍動する。ふくらみ、弾け、まき散らす。
幾千もの泡が弾けて音を鳴らす。その音の集合体が言葉を成した。
「アザトース」
それは人間の知覚領域にない音だった。この音も世界に響き全ての生き物の耳に届いていた。
この音は生き物の意識を麻薬のように転ばせる。無重力のような時間感覚の喪失、思考の飛び、そして待ち受けたのは強烈な吐き気であった。
人間の言葉でない隔絶された次元の言葉は人間の神経にバグを発生させ、幻覚剤や麻薬のような感覚を一瞬だけ齎しているのだ。
そして極めて軽度に脳が損傷した結果吐き気の症状が出た。
人間の言葉ではないそれを理解できるものはこの世界にほぼ存在しない。たった一人だけこの声を認識し理解することが出来たもの。それは星に愛された少女、ファセスだった。
宇宙の何処かから、ファセスはじっと才賀が立っているのを見ていた。
「ごめんね。こうなる事は分かってたけど、止められなかったんだ。才賀。君は、怒るかな?」
暗黒の脳漿から泥があふれ出した。その泥は単なる泥ではない。夜空を空間ごと練り固められたような暗い星々を宿しており、一滴が柱を貫通したところから破壊力が読み取れる。
ベルフェゴールは呆けていた。泡を注視してしまった為である。
彼女は今泡に映る彼女が自分なのか、泡の前にいる自分こそが本当の自分なのか見失ってしまっている。
故にこの状況になるまで動かず呆けていたのだった。
強い力で泡に映る自分を否定し、泡に支配されかかっていた脳をリセットさせる。彼女はあたりの状況を把握すると、一息だけ力の抜けた息を吐いた。そして手を握りしめ、前を向いたのだ。
「走らぬ伝令、避難して! この城の中央から逃げて、早く!」
走らぬ伝令は指定した生命体の脳に直接言葉を伝えられるというもので、ベルフェゴールは才賀陣営並びに平等教の城周辺に住んでいる人間へと声を届けた。
この魔法自体が使用者の感情をも伝えてしまう。故に彼女の恐怖まで届けられた周囲の人々は半ばパニックになりながらも避難を開始した。
「あーりゃりゃ、こりゃとんでもねぇ事になっちまったなぁ」
後ろから聞こえる声にベルフェゴールは驚いた。ジャンプスケアに近い驚きだ。
何故ならば彼女は後ろに誰もいないと知覚していた。魔力での警戒や鋭い聴覚や嗅覚は何もいないと彼女に教えていた。
「アンタとやる気はねぇよ。俺が戦いに来たのは、アイツ……才賀よ。今の所利害は一致していると思ってんだがなぁ?」
顔に皴を刻み、枯れ木の様に極度に細いながらも力強く、一切の不要な筋肉がない腕。翁は白い刃を肩に担ぎながらベルフェゴールを見ている。
ベルフェゴールは目の前の翁を信用しても良いのか迷った。彼は才賀の知り合いにしても強すぎる。
彼がいたならば今回の戦いは大分楽になっていたとベルフェゴールが断言するほどに。
彼女は一目でそう目の前の老人を評価した。
「まぁ、信じなくても良いが……このままじゃこの世界終わるぜ。確実に、な」
ベルフェゴールがバリンという音を聞く。
そのガラスが割れるような音は下からではなく上から響いている。
彼女が見上げると、世界が割れていた。空が割れていた。空間が割れていた。
その割れ目から一つの触手が這い出て、空を掴む。その触手は昏い色をしていた。黒は色を反射せずに吸収するが、あの触手は昏い穴のように全てを吸収してしまうのではないかという感想を彼女は抱いた。
悍ましい、気色が悪い、冒涜的だ、理解が出来ない。
そんな幾つもの祈りの中、ベルフェゴールは一言、落ちてこないでほしい。ただそれだけ言った。
だがソレは落ちてくる。
嘲笑を響かせながら昏く艶めかしい触手を暴れさせ、この世界に落ちてきた。
それは動物ではなく、植物でもなく、脊椎動物でも、無脊椎動物でも、有機物でも無機物でもない。
物理現象を踏みつけるかのような、全ての生きとし生ける者たちを、死んでいった進化の歴史たち全てを馬鹿にしたような体で蠢いている。
木のような、あみだくじのような、奇怪に通る骨を動かすその姿は理外の化け物というに相応しかった。
もしこの場に生き物の進化について学習した者がいれば、絶望と己の吐瀉物の中自殺するだろう。
ベルフェゴールにも知識はある。尊敬すべき神が愛した世界を穢されたような感覚に、膝を折りそうになりながらも未だ立っていた。
けれどもう一度割れるような音が聞こえた時、彼女は泣いてしまおうかと思った。
もう一つのそれが落ちてくると同時に、ベルフェゴールもそれの正体を理解した。
ソレは母だった。母が落ちてきたのだと、思った。
ベルフェゴール、つまり悪魔という生命体に母という役割はない。けれどソレを彼女は母だと認識した。否、母だとしか認識できなかった。
瓦礫に埋もれ、冷たくなった母親の腕にすがる子供が空を見る。母が落ちてきていた。子供は認識のズレに気が狂い、瓦礫で頭を打ち付け自殺した。
この世界のほぼ全ての生命がソレを母だと、認識している。
だがベルフェゴールの見るソレは母などではなかった。
黒く、無造作に付けたような幾つもの頭が叫ぶ。その声はヤギに近いものではあるが、決してヤギの鳴き声ではない。金属を切り裂いたかのような硬質的な音と鶏の首を絞めた音を合わせ、それをヤギの喉から出したような声をしている。
蹄が四本地面についている。だが足や腕はその四本だけではない。空を踏み、掴み、蠢いている。
人間なのか、それとも果たして同じ生き物から進化したのかすらもわからない腕が、藁を掴むように伸ばされる。
体毛のようにその腕を靡かせながら鳴いている。
ベルフェゴールはそれに激しい悲しみを感じ取った。彼女も何故かはわからないが、ソレが酷く悲しんでいるとしか言えなかった。
五メートルほどある大きさの二体は城を瓦礫の山にして二人の前に落ちてきた。
間近で見たベルフェゴールはその意識を飛ばしてしまいそうになったが必死に耐えている。
「な? それどころじゃないと言ったろう」
「貴方ならどうにか出来るの」
「十秒、そんだけの時間があれば延命は確実に」
ベルフェゴールに選択肢はなかった。
外宇宙
世界は星々のように距離を保ちながら存在している。それ故にその間には空間が存在している。
世界と世界の間、そこには外宇宙があった。
そこには世界が終わろうとも死ぬことが出来なかった存在や、世界から追放されてしまった存在が浮かんでいるという。




