62話 Good morning,World
扉が開かれた。空間がつながり、空気が動く。
風は色々な物を運んでいる。ベルフェゴールはその風を感じた瞬間に言葉を失った。
彼女はが感じたのは濃い血の臭いだった。彼女の長い長い過去の中でもたった一度、それも思い出したくもない程の死人が出た戦場でしか感じたことのない、血を啜っているかと思うほどの濃い臭い。
それは才賀の友人を救出しに来たという目的からすれば、この臭いは確実に失敗を予感させるに十分なもので彼女は才賀の顔を見るのを躊躇した。
月明かりのような薄い明りが高い天井から降りてきている。天井の先から微かに青空が見える。日光はゆっくりとその明るさを失っていき、薄暗い室内となっている。ベルフェゴールは罪悪感からか必死に生きている人間を探した。そして薄暗い隅に蹲っている男の姿を見出した。
その男にベルフェゴールは駆けよった。彼女は男を起こし、顔を見る。何か意味のある言葉を口からこぼしているのか、それとも意味もない声がただ発生しているだけなのか、それすらも判別できないほどの小さな声だった。真正面に自分がいるというのに胡乱な目をしている彼を、ベルフェゴールは心が壊れてしまっている、と判断した。涙を流し、うつろな言葉をつぶやくその男の眼には何も映っていない。
膝をつき、視点を低くしていた彼女は真横に石の台座がある事に気が付いた。明かりが乏しかったために彼女は気が付かなかったのだ。
そして手を付いている地面はねっとりとした感触をしていた。彼女が手を咄嗟に引くと、付いた手にべっとりと血が付いている。
ベルフェゴールの心臓が一際一回跳ねた。その驚きに共鳴したように、男が錯乱し始めた。
腕や足を滅茶苦茶に振り回し、ベルフェゴールを排そうとしている。彼女が咄嗟に腕でそれを防ぐと鋭い痛みが齎された。
男はそのまま部屋の中心にある石の台座から離れるように壁に二足歩行すら出来ず必死に逃げていった。
「これは……ナイフ?」
ベルフェゴールの腕にどっしりと重たいナイフが刺さっていた。咄嗟に彼女が触ると脂で指が滑る。
滑らないようにしっかりと握って抜けば、その刃がすっかり鋭さを失ってしまっている事に気が付いた。強烈な力によって突き刺されたために彼女の腕に刺さっていたが、そのナイフの切れ味は悪かった。彼女は使い古されたわけでも、放置されたわけでもない鮮やかな使用感に怖気を感じる。
粗く斬られた傷跡を多くの魔力を使って癒しながら立ち上がると、木を魔法で作り出しそのまま着火する。木につけられた火は暗いその部屋を照らしてくれた。
「さ、サイガ!」
照らされたソレを見て彼女は思わず才賀を呼んだ。悲鳴にも近い声だった。
だが才賀の気配は動くこともなく入り口で立ち止まっている。
しょうがなくベルフェゴールは目の前のソレが生きているのか確認した。血で塗れて、何処が腕やら何処が足やら分からなくなったソレの胸に手を当てると確かに鼓動している。彼女は目の前の女性が生きている事に驚きながらも、生きているという事に恐怖を感じた。生きている事を喜ばなければならないと彼女は頭で考えているが、こうまでなっても人間は生きていられるのかという驚きも同時に感じていた。その時己と同質の力を感じた。人間とはここまで同族を痛めつけることが出来るのだという事に吐き気を催した。
ベルフェゴールは一度だけ大きく深呼吸をした。思考は冷静になったのだが、胸いっぱいに鉄錆の削り粉を注ぎ込まれたような気分に激しく辟易とした。
血まみれでどうなっているのか分からなく、転がっている彼女だった部位を見て彼女の現状を把握しようと床を見ると体のかけらが転がっている。
鼻、舌、耳二つ、綺麗に摘出された訳ではなく、ナイフを突き刺し荒々しく抉られたのであろう損傷の激しい目玉二つ。それそのものが大事なのではなく、摘出することが目的のようにそれらはぞんざいに投げ捨てられている。
麻酔なんてものは今の時代にないことをベルフェゴールは知っている。ここは時代の停滞を謳っている平等教の総本山だ。殊更にそんなものが用いられた訳がない。その事実を察した彼女はどれほどの苦痛がこの部屋で齎されたのか想像すらできなかった。
損なわれている部位というのを鑑みてベルフェゴールが彼女の体を見ると少しずつ正確に見ることが出来た。
血に塗れていた為に彼女は気が付かなかったのだが、ソレは全身の肌を剥がされていた。
掌の中に木を見出すことが出来た。そしてどうやら彼女の体にその木は突き刺さっている。
体の横を見ればそれらしき木の杭と槌が置いてあり、生きながらに木の杭を打ち込まれたのだと解析した。
そしてベルフェゴールはこの惨状の目的が分かってきた。分かっても本当にそんな事を実行したのかと彼女は信じられなかったが、目の前の痛々しい人体はそれを伝えてきている。彼女は目をそらすことが出来なかった。
木の杭は掌と下腹部、眼窩、そして両足に突き刺されていた。そして口を縫われている。
その杭を抜くべきか、そうベルフェゴールは迷ったが杭を抜いてしまえば出血が酷いことになるのではないかという考えが手を止めた。
だがすぐに処置をしなければ死が近いことは自明の理であった。だが奇妙な事に大量の血を流していながらもソレは力強く鼓動を刻んでいる。
「サイガ、手伝って!」
怠惰の魔力を用いて強引に延命する事を決断したベルフェゴールは才賀に助けを求めた。止めることに特化した怠惰の魔力は確かに彼女を延命できる。だが才賀は動くこともなく、ただ見つめていた。
彼女は彼の考えは全く読めず、混乱することとなった。
才賀が見つめている先を見るとそれは女性の腹であり、彼女はそれが少し膨らんでいる事に気が付いた。
「まさか孕まされて」
ベルフェゴールは咄嗟にそう口走ったが、すぐに赤子の宿る位置ではないと気が付いた。
赤子の宿る位置は杭に潰されている下腹部の所であり、肋骨に守られているような腹の中央ではない。
寄生虫にでも侵されているのではないかという安易な答えに縋りつきたくなったが、彼女の鋭い聴覚が心音を捉えている。そして、ベルフェゴールは一つの事実に辿り着き、絶叫しそうになった。
女性の心臓が動いていない。大量に付けらえた傷から血が出ていない、心臓が動いている場合あり得ない事実だった。ベルフェゴールは腹に宿るモノの鼓動を女性の鼓動だと勘違いていたのだ。
その瞬間に儀式が成功している、そう彼女は確信した。
この惨状の目的は儀式であるという事に、ベルフェゴールは気が付いていた。そしてその儀式の正体にも。
切り取られている部位は人間の否定。即ち五感の切除。触覚、嗅覚、味覚、聴覚、視覚。
杭や糸で塞がれた部位は大罪の否定。縫われた目は閉じる事も出来ず、怠惰の否定。もう妬み睨むことも出来ず、嫉妬の否定。もう何かを食らう事も出来ず、暴食の否定。もう手を握りしめることも出来ず、憤怒の否定。もう何かを手中に収めることも出来ず強欲の否定。もう何かの上に立つことも出来ず、傲慢の否定。もう遺伝子を残すことも出来ず、色欲の否定。
そうして生まれるのは人間でもなく、大罪を持ちえない何か恐ろしいものである。ベルフェゴールにはそう思えてならなかった。
彼女は目の前の命を殺すべきだと感じている。今ベルフェゴールは己自身の腕を振り下ろせば全て平穏に終わるのではないかという考えを振り払うことが出来ていなかったが、それでも彼女にそれは出来なかった。
命を殺す為の存在ではなく、命を育むための存在として作られたベルフェゴールにはそれができない。例えそうでなかったとしても彼女は優しすぎた。
女性の腹が中から力任せに破られた。飛び出たそれは翼の骨だ。腹を破り捨てたそれが、ゆっくりと羽ばたいている。光を編み込んだような虹色の羽が形成されている。
翼の付け根には光の玉のような中に赤子のようなものが浮かんでいるのがベルフェゴールには見えた。
泣くことも無くただ玉の中ですやすやと眠っている。
ベルフェゴールは急いで目の前の人間ではない何かから逃げるために、才賀を引きずってでもこの場から立ち去るつもりだった。
だが才賀の肩を掴み、引っ張ろうとした瞬間に彼女は理解した。目の前の人間が才賀でないことに。
「誰だお前……!」
新たな使徒らしきモノの出現、才賀が才賀でないという事実。ベルフェゴールは混乱で頭がおかしくなりそうだった。それは彼女の初めての経験であり、キャパシティーはオーバーしている。
「また、またなのか。またこうなるのか」
ベルフェゴールの知る才賀ではない彼はそう呟いている。
だがその言葉に彼女は激しい怒りを感じ取った。友人をこの様な儀式に利用され、見るだけで吐き気を催すような惨状にされた事が才賀を変えたのかとも思ったが、彼女にはどうしても己の知る才賀が目の前の男と重ならない。それどころか目の前の男が人間なのかすら怪しく思えてきた。
「もう、いい。もう、限界だ」
何が限界なのかと問い質そうとベルフェゴールがした瞬間に彼女は吹き飛ばされた。
彼女は急に隕石でもぶつけられたのかと思った。事実それだけの衝撃であった。
ぶれる視界、痛みでぼやける思考、それでも前を向いたベルフェゴールの視界に頭が弾けた才賀の姿が映り込む。
才賀の頭が弾けている、という視界をベルフェゴールは全く理解が出来なかった。才賀が攻撃によって死んだのだろうか、だが彼は未だ立っている。ならばアレは……何なんだ。ベルフェゴールは混乱している。
頭を失ってなお、才賀は立っていた。
才賀のはじけた頭がベルフェゴールを弾き飛ばした。城の地面にめり込んだ肉片は、極彩色の星々を映し出している。頭は隕石をも凌駕する威力をもって周りを弾き飛ばした。
そしてその暗黒の脳漿は浮き上がり、衛星のようにゆっくりと才賀の頭の周りをまわり始めている。
力強く鼓動を発し、今も成長を続けている光る赤子。頭が弾け、暗黒を映し出す肉塊を回転させている才賀。
もはや常人の理解できる範疇を超えていた。
そして才賀は声を出した。もはや舌も口も、喉すらもなくなってしまった彼は何故か発声が出来ている。
「あ」
ただそのたった一つの発音。
だがそれには目が眩むほどの人間の声を孕んでいて、それでいてたった一人の声量を保っていた。
誰が言ったのかわからない。ベルフェゴールは少なくともサイガの声ではない、そう思った。
そして誰でもなく、それでいて誰でもあるようなその声が言葉を紡ぐ。
「アザトース」
儀式のナイフ
佐藤零摩によって使われたナイフ。何度も新堂立夏の体を引き裂いたソレはもはやその鋭さを失っている。
切れ味を失ってもなお、強引に使われたそれはもはや手入れをしたとしても使えるようにはならないだろう。
魔力を通しにくい石を研ぎ、内部の魔力を抜くために数か月もの間干されたそれは無垢とすら言える。
意思無き刃は祈りなのだろうか。




