60話 化け物は微笑む
異形が身悶えている。城の中心への最後の扉、その前にいたのは全く人間と似ても似つかない何かであった。
顔、というにはパーツが少なすぎて髪も無かった。だが、その中で一つだけ目だけは人というのは遥かに多い数付いていた。この世の全てを血走りながらも見渡している。不規則に隆起する血管がそれが生命であるという事を主張していた。
無造作に付けた泥人形のように奇怪にくっ付いた腕が、空を掴んでいる。
「サイガ。僕がついていけるのはここまでのようだ」
ここにたどり着いたのはベルフェゴール、サイガという怠惰を背負う二人。そしてファセスとレヴィアタン、最後の一組である嫉妬を背負った二人だった。
才賀は心配をしていない。だが彼女の言い方に引っ掛かりを覚えていた。
「ここで?」
「僕は僕だからこそ主役にはなり得ない。どうやら納得をしていないような顔だね。……明日の君なら僕の言ってることもわかる、きっとね。今君にすべきことはここを僕とレヴィアタンに任せて前に進むことだ。そうだろう?」
才賀は全く彼女の言っていることはわからなかったが、時間は迫ってきているという事もあり走り出すしかなかった。
異形が才賀を見つけ、凝視しているがその次の瞬間には全てが止まった。生体反応が停止している。正しくは写真のように生き物が持つ少しの動きすらも無くなっている。
「君には何もさせない。少なくともサイガがこの先に行くまではね」
「何をしやがった? 長く生きてきたがこんなおっそろしい足止めをする奴は見たことも無い。勿論俺のモノでもない。一体何なんだそりゃあ」
肩に乗っていたレヴィアタンがそう問うた。彼が生まれてから今ここに至るまでという神話をも超える、長き生きた道の中にこれはなく、全くの未知だった。彼は今目の前の現象は理解できない。
ファセスという存在が二度も生まれるはずもない、というのはあまりにも彼には知りえない事実である。
「元来僕に備わっている力を使っただけだよ。彼は今長い長い一瞬にも満たない時間の中にいるだけだ。いやなに、鳩時計の針に指をあてるような些細な力だから安心するといい」
「化け物加減もここまでくると畏敬すら覚えるな」
「化け物に信仰を覚えても碌なことにはならないよ? 化け物が化け物である限り、いくら祈ろうと何を捧げようと化け物は化け物でしかないし、化け物が人の意に沿う事はない。たまたま一致することはあってもね」
才賀が扉をくぐり、この場からいなくなるとファセスは指を鳴らした。
その乾いた音と同時に異形の時間が動き始める。そしてファセスの事を見て進み始める。目の前からいきなり人が消えたというのに異形は少しも動揺することも無かった。
当然異形は止まっていた事すらも知覚していない。目の前に居た人型生命体の雄がいつの間にか消えたから獲物を変えただけだった。それがどれだけあり得ない事だろうと彼にそれを認識し、思考する能力は無い。
「といってもこれで完封してしまうというのも味気ないというものだ。化け物のようになってしまった君に精一杯の同情を感じることが出来ないという訳でもないような気も、しないでもない」
異形は手を伸ばし、ファセスの顔を指した。
そして手を握るとそこには眼球が転がっていて、ファセスの目の前に銅貨が一枚転がった。彼女は左が酷く欠けた視界でそれを見ていた。
ファセスは血を流すことも、動揺することも、痛みに身悶えることもせず、ただその銅貨を拾ってギャグを聞いたかのように笑っている。戦場に似つかわしくない酷く楽し気に。
彼女から摘出された眼球はその輝きを失い、ただの人間の眼球と化していた。
異形はその手に握られたものが欲していたものではないかのように、握りつぶした。
「確かに、確かにそうだ。これくらいが妥当だね」
そう笑っているファセスの目には何もなかったかのように眼球は二つ入っていた。いつの間にか。少なくともレヴィアタンの意識の隙間でそれは起こっていた。
何もなかったかのように彼女はふるまっているが、異形によって彼女の目玉は一つ抉られている。
なのに彼女の眼窩に眼球がはまっているのは一瞬にも満たない時間で彼女は眼玉を再生したからだった。星一つ分焼き尽くせるほどの魔力を使わなければならない所業だが、それを躊躇もせず難なく行使している。
「この能力……まさかコイツ」
「流石レヴィアタン、観察眼は鋭いね。ご名答。コレは君と同じ使徒であるマモンと強欲の大罪人クンの成れの果てだよ。自己同一性を破壊され、肉をぐちゃぐちゃに混ぜた結果がこれだとも。恐らく雑にくっつけられてる腕も二人の物じゃないだろうけどね」
「強欲の魔法……同意なき快諾か」
「そうとも。その人にとっての価値が吊り合った瞬間に取引が完了するんだろう。どうやら今の彼が欲しているのは若く強い肉体みたいだ。その証拠に僕の肉体をどんどん持ってってるよ」
レヴィアタンは異形の持っている能力に見覚えがあった。
強欲の魔法の一つ、同意なき快諾。相手の価値観で吊り合うものを提示できれば強制的に取引を成立させる魔法である。つまりファセスにとって眼球一つの価値は銅貨一つだという事だった。
彼女の肉体、腕や足が一瞬無くなったかと思えば蜃気楼のようにその現実は消え去る。けれど異形の目の前にはぼとりぼとりと肉体が落とされていった。その間も対価だと言わんばかりに、彼女の目の前に銅貨はちゃりんちゃりんと落とされている。ファセスはそれを拾おうともせず、ただ一瞥して笑うだけであった。
「ファセスは、アレ戻そうと思えば戻せるのか?」
「無理。サイガならワンチャン……いやその前に死ぬんじゃないか……? んー、うん。星に誓って言おう。今殺してあげる方が一番真っ当に死ねる。使徒の方は数年もすれば復活するだろうし、ね」
「お前には、何が」
「この世にある事なら、ほぼ全部」
肩に乗っていたレヴィアタンはずり落ちた。
ファセスと目が合った、ただそれだけで。彼は今の今まで目の前のモノを生き物だと思って接していたのだが、たった今彼はそれに疑問を抱いた。目の前のモノは生き物なのか? それとも長い時間を生きた彼の知識を超越した存在なのではないか? 己が乗っているモノは化け物なのではないか?
ファセスの眼には宇宙が広がっている。中心に太陽が、ブラックホールが、それが彼女の両目だった。浮かんでいるそれが、レヴィアタンを見つめている。
彼はそれがたまらなく怖くなっていた。
「君も言っただろうに。僕は化け物だと。今更怖気づくとは」
レヴィアタンは己がぐらついているのを感じた。神よ、と産みの親にすがろうとすら思った。
ファセスは、その目でじっと見ている。
レヴィアタンは長い生の中で初めて己の中に正気というモノがある事を知った。そしてそれがどんなに脆いものなのかを。
「僕はこういうのの専門じゃあないんだけどなぁ。それこそサイガの専門だろうに」
ファセスは固まってしまったレヴィアタンに呆れるように笑った。
すると彼女はレヴィアタンを認識の外に置いた。そして己の体の破片に塗れる異形を見た。
粘土遊びをする子供のようにファセスの体を弄ぶ異形に、けらけらと笑いながら彼女は近づいていった。
近づいてくる人間にトラウマでもあるのか異形の動きが激しくなっている。
奪われる身体も、腕や足などの部位だったものの断面が段々と荒くなっていき、嚙み千切られたかのような痕になっていく。それでもほんの一瞬で戻ってしまう。
何度も何度も肉体を抉られながらも、微塵も躊躇も反応もすることもなくただ歩いていく彼女に異形は激しく恐怖を覚えていた。せっかく取引で得られたモノを投げつけてしまうくらいには。
そして彼女は異形の肩に手を置いた。異形は首に縄をかけられた死刑囚のように体を酷く硬直させる。
汗腺というモノが残っていたようで、じっとりとした汗が異形の肌に滲んでいる。
「うん。良かった良かった。君はまだ人間だ。おめでとう、君は人間として死ねる」
彼女はゆっくり己の左目に指を入れた。眼球を抉りだし、神経をもう片方の手で振り払う。
そして異形の掌の上に置いた。その眼球は人のソレではなく、暗く輝いていた。
「餞別だ。ただの左目じゃなく、正真正銘僕の左目だ。貴重品だぜ? それこそ、欲が枯れそうなくらい」
ファセスは踵を返した。彼女の後ろでは異形が眼球に吸い込まれている。眼球に映っているブラックホールに吸い込まれ、引き伸ばされ、折りたたまれ、圧縮されている。異形は眼球から逃げようと藻掻くが、重力に掴まれている今それは不可能だった。
異形が消えたと同時にファセスの眼球は己も吸い込んで消える。残ったのは吸引によって巻きあげられた埃だけだった。
「さて、目は覚めた? 記憶はどんくらいぶっ飛んでる? 慣れないことしたから数百年くらいのズレは誤差みたいなものとして思ってもらいたいんだけど」
「少なくともここに俺がいる記憶はある。が、何故ここで止まってるのかがわからん」
「おっと、存外うまくいったようだ。足止めだよ。相手はもうあの世に行ってしまったけどね」
「なぜ俺の記憶を飛ばしたか聞いても?」
「止め給えよ。僕としてはもう一回それするくらいなら君を消した方が楽なんだ。これ以上は説明する気もない。どうしてもそれが知りたいと思うのなら二度は無い、とだけ言っておこう」
レヴィアタンは蛇の体から翼を生やし、彼女から距離を取った。
彼女が得体のしれないものだと感じたからだった。そしてそれは正しく、彼女は人でない。人知の及ぶ存在でもない。
「良いね。化け物になんて近寄るもんじゃないよ。……でも、そうだな。ほんの少しの気まぐれだ。あは、才賀と出会って僕も少し甘くなったかな」
ファセスが指を鳴らす。
するとレヴィアタンはその時間を止めてしまった。羽ばたきは止まり、落ちることもなくその場で浮かんでいる。
「君はきっとこのままだと酷い事になる。ここで僕と一時退場と行こうか」
空間が首を垂れるように裂けていく。その先にあるのは星々が輝く宇宙だ。
レヴィアタンを連れて彼女が其処へと移動すると、裂け目はゆっくりと戻っていく。
彼女はその裂け目が無くなるまで微笑んでいた。だが、喜びに満ちているわけではない。
「才賀。君は僕を許してくれるかな」
強欲の硬貨
強欲に塗れたモノの成れの果てが取引に使った硬貨。
銅貨、銀貨、金貨があるがそのどれもが凄まじく細やかな装飾がされており、正真正銘本物の金属が使われている。
一枚一枚に大きな価値を秘めているが、強欲なる者にとっては代替するための物に過ぎない。
溢れるほどの硬貨を差し出してなお、尽きる事が無い欲。しかしそれも当然だろう。
満ち足りるための自己が破壊されてしまっているのだから。
それは、たった一人でも多くの人を救いたいと願った者の夢の跡。




