59話 純潔
また一つ才賀たちは壁を超えた。ただ一つ問題があるとするならば、枢機卿がまたしても彼らの前に立ちはだかっていることだろうか。
才賀は少しずつ、少しずつと削れていっている味方の数に焦燥感にも似た不安を感じている。だが彼にはあとどれだけ壁があるのかも、枢機卿が存在しているのかも知らない為その不安を鎮める事は出来ない。
「サイガ、ここは私たちが担当するよ。ブライが相手をするのが最適だろう。それに、試練への報酬はここらが妥当かな」
彼は少しだけ考えた。どうするか、ではなくルシファーの発言の意味を。
だがすぐにそれは洗い流された。どれだけ頭を悩ませようとも時間は止まってくれないのだから。
「わかった。任せる」
才賀はただそれだけ言った。二人の力は明白であるし、ルシファーが最適だというならば間違いはないだろうという確信があったためである。
そしてブライへは友達としての信頼を眼差しに込める。彼は何も言わずに頷いた。
ブライにとっては、友達の為という綺麗事でここまでやって来た彼にとってはどんな一言よりもやる気を沸かせるものだった。
「下等動物諸君、何故先に進めると思っている?」
ゆったりとした服を着て、武装を欠片も身に着けていない女性がそう言う。
見下した目線というよりも動物園で座り込んでいる猿を見るかのような、己と同じ生命と思っていない眼で、才賀たちを見下ろしている。
イケメンの猿に嫉妬しないように彼女にとって全ての者が、全てにおいて論外であって同じステージにすら乗せられていなかった。
「すまないが、これは決定事項なんだよ。私たちが君の相手をする、これは誰だって変えられない事実だ。それこそ君の神でも出てこない限りは」
「そう。ならミンチにしてから追いかけるとする」
女とルシファー、そしてブライを光の輪が囲んだ。それは出ることも入ることも出来ない空間であり、ルシファーの力で形成されたそれは並大抵の力では破る事は出来ないものである。
「追いかける? 彼らを舐めない方が良い。例え君がこの光の輪の外に出れたとしても、その時には彼らは城の中心にたどり着いている事だろうさ。……さて、ブライ」
「なんだい?」
「私は手を出さない。君一人で彼女を打倒して見なさい。もしくは先に進ませないだけでも良いだろう、元々我々の目的はソレだからね。安心しなさい、コレは君への試練であってサイガへの試練ではない。この結果がどうなろうと彼女が彼らを害する事は無いと断言しよう」
ブライがそれに対して何か言う暇も無く、ルシファーはその翼を広げ天高く舞い上がった。そして空中に座ると、ただ二人の戦いがどうなるかを見下ろし始めた。
吸血鬼ブライには枢機卿と戦った経験などない。
だが彼にとって死とは数千万の死を通り過ぎた先にある。故に危機感というものは欠如していた。
その瞬間も彼は戦闘の為に神経を張り詰める事は無い。
「おい蝙蝠、死ね」
故に拳が迫ってきている事にブライは気付かない。気が緩んでいると言えばまだよく聞こえるかもしれないが、彼は単純に反応が出来なかった。
生き物は死にたくないからこそ動きを見る、死が遠い彼にとって攻撃は受けても危険性があるものではなかった。
たかが拳、という意識もあったのかもしれない。吸血鬼である彼は身体能力も人よりはるかに優れているから、見えなかったというのはありえない。
だがその拳は鋼のように硬かったが為に、彼の体へ損傷を与えた。
拳というのは骨に当たりダメージを与える。皮膚がタコなどで固くなっていた場合は例外かもしれないが、どれだけ達人の拳と言えど肉の感触は存在する。皮膚、肉、骨と積み重なったものが拳だからだ。だが、彼女の拳にそのクッションとなるものは存在しなかった。
鋼、もしくは鋼以上。鋼と言えど人の頭蓋を砕くほどの力で殴りつければ変形はする。だが彼女の拳には細胞一つ分の変化すらない。
「あぁ、純潔の君よ。私は君の名前を知らない。随分と上からで失礼するが名を聞いても?」
「名前なんてない。有象無象を判別するための物なんざ私には必要ない。私は私だけよ。呼びたければ純潔と呼ぶがいいさ」
「そうか。ブライ、今君が体感したように純潔は体への不変という力を持っている。君は彼女をどうやって倒す?」
「良く知ってんなぁ……人間ってのはどいつもこいつもいくら潰したってきりがない。ウジ虫みたいに潜んで見てやがる。鏖殺して良いのならとっくの昔に話は速かったんだ」
「人間じゃあ……ないんだけどね?」
「似たようなモンだろ。生き物って時点で気色わりぃ」
彼女の表情にどす黒い憎悪が宿る。それは生き物への嫌悪だった。
人間という生命体に対しての罵詈雑言を吐いているが、この場に人間はいない。
「……まぁいい。今はそこの蝙蝠をミンチにするだけだ。何回? 何回でも付き合ってあげる」
「数千万って言ったら怒るかい?」
「痛みはあるのでしょう? すぐに心が折れてくれると嬉しいのだけど」
また緩やかな痛みと共に一つ命が消費される。ただ彼女が掌を閉じただけでブライの頭蓋が砕かれた。
ブライは演劇を見ているかのように穏やかだった。
「諦めるというのが賢明だと僕は思うのだけど。例え君が全力で一時間ほど僕の命を消し飛ばし続けても命が絶える事はないよ」
「だから?」
「疲れるだけじゃないか。僕は善意で言ってるんだぜ。僕は足止めが出来たらそれでいいから」
「それが私が目の前のよくわからない生命を打ち倒さない理由になるとでも? 例え幾万幾千万の命をお前が持っていても、全人類の絶滅を誓っている私には問題にすらならないな」
「そうか」
頭蓋が弾ける。目の前の女は強い憎悪に包まれ、そしてそれがために不可能に挑み続けていた。
無駄なことだ、そう心の中でブライが呟く。ブライの命は膨大で、それでいて回復する。一時間で五百人分もの命を消し飛ばしたとして一時間もすれば彼の命は元通りとなる。何故ならばそれは彼の命のほんの数パーセントにも満たない微かな損傷だからだ。
即ち全くの無駄な行為だとすら彼は思っている。目の前の純潔に倒す術がない事、そして己にも彼女を打ち倒す術がないことを悟った彼は何もしない。ただ諦めを以て目の前の光景を眺めていた。
コーヒーを飲みながら明日の夕飯を考えているように、全くの危機感も無くブライは頭蓋を潰され心臓を抜き取られ、そして命を奪われた。だが命を奪われることと死ぬことは彼にとって同一ではない。
数十ほど命が霞のように消えた時、じっとその様子を見つめていたルシファーがその口を開いた。
出来の悪い子供を見るかのようにため息をわずかに滲ませながら。
感情をあまり声に乗せない彼がわざとらしく過剰にその感情を声に乗せていた。
「ブライ、君はそれでいいのかい。サイガにその結果を伝えるんだね? ホントにそれでいいのかい」
マウントポジションで頭を砕かれながらその言葉を聞いたブライは静かに反芻する。
微かに彼はなぜ自分が選ばれたのかという疑問を抱いていた。そしてこの言葉は全くブライにとって予想の範囲を超えている。
彼にとってこの戦いの勝利条件はサイガを先に届ける事、そして目の前の女を追わせないこと。そうブライは定義していた。だからこそコレで良いと断じていた。
だからサイガに報告をするという未来の事を彼はすっかりと考えていなかった。
「ふむ……サイガに、か」
泡が弾けるように頭が陥没する中、口がそう動いた。
ブライの心が少しずつ動き始める。幾億もの命に埋もれ、死というものが遠い夢の話かのように感じ続けていた彼にそれは無かった。吸血鬼ブライにとって戦闘は作業である。だが今その先頭の中で微かに心が動き始めている。
だが彼にとってそれは生き方だった。ただ生きてほしい、生き延びて我らの種族を存続させてほしいそれが彼の命の意味だった。だから戦いに意味はなく、目的を達成する事こそが最優先。それが彼の人生だった。
それが今変わり始めていた。
「気が変わったよ」
周りに散乱していた血液や脳漿が純潔の体を縛り付ける。彼女は一秒もあればそれを打ち破ることだろう、だがブライにとって一秒はあまりにも長い。
彼の腹から足が生え、純潔を蹴りつけた。その勢いは彼女の体を大きく吹き飛ばすに足るものだ。
そして闇が動き始める。ブライの体は血液が乾ききったかのようにどす黒いものに変質し、その黒の中であまりにも多い生命が蠢き始める。ムカデか、カラスか蛇か、それとも全てか。
闇に潜む生き物全てがその黒から我先にと太陽を目指すが如く詰みあがっていた。
「これで良いと思ってたし、君と遊んでいるだけで目的は達成できるだろう。だけど、気が変わっちゃったんだよね。だから、ごめんね?」
そしてその蟲たちは人型に積みあがったり、空気に溶けるように消えていく。
置換されるように五体満足のブライが姿を現した。
「で? 気色悪いお前は何がしたくなったんだ?」
「ただ格好つけたくった。だから君よ、僕のかっこつけのために死んでくれ」
ただ、友達にダサいところを見せたくなかった。ただ殴られ続けて時間稼ぎをしただけなんて、初めての友達に報告したくなかった。ブライが立ち上がった理由はただそれだけだった。
ただ生きるという使命に従って生きてきたブライにとってそれは全くの経験のないものだったけれど、彼が今一歩踏み出すには十分の理由だったのだ。
「私に傷はつけられない、どうするつもりだ?」
「何、理を超えるだけさ。ほんの少しだけね」
傷を拒絶し、変化を排斥する。それが純潔の理だった。彼女の体に傷はなく、ブライの肉体を破壊していたというのに疲れる事も腫れる事もなかった。
けれどブライには勝算があった。やり方はとっくの昔に知っていた。何故やらないかという問いには、やる気もやる理由も無かったという答えがあった。だから彼はやっていなかった。
だが今彼には両者とも持ち得ている。
「魂とはとてつもないエネルギーだ。だが才賀に報告するためにも使うわけにはいかない。死にたくないからね。でも吸血鬼だけは魂に近いエネルギーを使うことが出来る種族なんだよ」
魂を吸う事は吸血鬼であっても出来ない。だから彼らは命を吸っている。魔力という魂の燃えカスではなく、生命が生命であるために使われるエネルギー。魂から出でるエネルギーを血液というものを媒介して吸っているのだ。
だからこそ彼らは魂を穢すことなく永遠を手にすることが出来る。
「血法、理外の剣」
彼の手首から血が滴り、剣のように固まった。彼はそれをただ振るった。
サイガのように斬ったわけでも、力で圧したわけでもなくただ振るっただけ。それは武術でなく、武器ですらない。
だが、それで理は斬れた。
「遺言を聞こうか」
「……そうだな。少なくとも、人間に殺されなくてよかった」
ただそれだけで純潔の頸は斬られて、落ちた。
純潔の憎悪は最期まで消えることなく、人間よりも上位の生命体としてその命の終わりを迎えた。
その体から血が出ることはなく赤に染められるわけでも砂ぼこりに汚されるわけでも無く、ただ崩れ落ちる。
彼女の体はその命が失われたとしても何も起こる事も無く、陶器のように横たわっている。
「何人分使った?」
上空ですべてを見ていたルシファーが降りてきてそう言う。全てわかっていたことなのだろう、そして全てが予想内だったのだろう。ブライは自分が適任だという理由を知って頭を搔きながら苦笑いを浮かべる。
穏やかにルシファーは笑っていた。
「十人ほど。成程ね、コレが……死か」
「そう、それが死だよ。だからこそ生きている感じがするだろう?」
「……あぁ」
己の持っている命が端から燃えた紙のごとく塵に消える感覚をブライは覚えていた。
どうにも不安になって、胸が内側から潰されているような感覚だったが彼には、永い時間を生き延びるという事に使い浮いているように生きていた彼には、悪い感覚とは思えなかった。
純潔の服
純潔の枢機卿が着ていた服。
性器の無い彼女に隠すものは無いが、猿と見下している生命に見られるのも癪だからと生成した天衣無縫の服。
彼女と同じく不変であり、無二である。
生殖を汚らわしいものとし、全ての生命の絶滅を願った彼女は名を捨てた。
唯一であり完成である彼女を識別するための名前など要らないのだから。彼女こそが至上の種であり、唯一の個故に。
彼女は最期のその瞬間まで変わる事は無い。




