56話 謙譲
建物が壊れる音、そして悲鳴と黒煙が上がっている。
この国で戦いが起こっているという事は明白だった。
それは門の前でさえも聞こえる音はその大きさで戦いの激しさを感じさせる。
「で、全く状況がわからないんだが手短に説明をお願いしても?」
門の前に翁がいた。
そして二つの馬車と俺たち。怠惰、憤怒、嫉妬、傲慢の四つの罪が揃っている。
それとペネト。
「儂が、手紙を出したのだ。今回の事は看過できなかった。ただそれだけの事よ」
「名前を聞いていいか?」
「忍耐でいい。最期に名を呼ばれたのも数百年前だ。異世界の少年よ、どこまで説明をすれば?」
「ざっくり聞いてる」
「話が早いな。中央の城、その中心に儀式の間はある。時間がない、急げ」
「忍耐の爺さんは付いてきてくれんの」
「無理だ。この手を見ろ、もはや儂は灰となって崩れる定め。お主にこの事を伝えるためだけに耐えてきた」
爺さんの手はいくつもの傷でもはや無事な皮膚が見当たらない程で、肉体の端から砂が風に舞うように消えていっている。
忍耐の能力はその字の通りにひたすらに耐えることだろう。
灰のように崩れる体を持ちながらも忍耐の爺さんは穏やかな顔をしていた。
「俺に伝えちまったからか?」
「否。儂は悲劇を防ぐためだけに長き時を生きてきた。平等教を捨てるとなれば儂の身体も消え去る運命よ。……否、言い方を変えようか。儂にとって託すという事はこういう事よ。子供たちに託す勇気が無かったからこそ、今の今まで耐えてきた。だが託してしまえば、耐える必要が無くなってしまう」
「潮時って奴か」
「世代交代などと格好つけたいがね」
「あっそ。ありがとな爺さん」
そう言い切る頃には彼は幽霊のように消え去ってしまった。
聞こえてたらいいが。念のため一瞬目を閉じて祈っておいた。例え宗教が違ったとしても死後の安寧を祈らずにはいられない。
もしも彼が俺に教えてくれなければ友人の危機を知らずに旅を続けていたのだろうから。
「さて、出発前にひとつ質問があるやつが数人いるんだった。ブライ」
「何だい? 時間も無いだろうに」
それでも、聞かねばならぬことがあるのだから。
「良いのか? 死ぬかもしれんぞ」
「僕らは友達だろう? その友達が困ってるってのに手を貸さないっているのは、無いよ。それに僕は吸血鬼だ。そう簡単には死なんさ」
「ありがとう」
ブライに俺は助力を頼んでいない。
ルシファーにも憤怒の二人にも、嫉妬の二人にも、色欲の二人にも頼んでここに来てもらった。
だがそうでない彼には聞いておきたかった。死地に赴くというのだから。
そしてこの場には頼んでいない人間がもう一人いる。
「ペネト、本当に良いのか?」
「君は僕の弟子だ。生徒が死ぬのは嫌でね。……それに、ライバルから頼まれちまったんだ」
「ありがとうございます」
はっきり言ってペネトには大きな恩がある。魔術は未だ俺の手に完全に馴染んではいないが、戦力となっている。
これ以上恩を積み重ねるのは不本意ではあるものの、助かるというのも本音だ。
「それにベルフェゴール。戦いは得意じゃないんじゃなかったのか?」
「平等教は私としても不愉快でね」
「そうか……じゃあ、いくか」
間に合わせなきゃいけない。
俺たちは門をくぐった。
実戦。前線。殺し合い。
新兵が初めてコレに踏み入った時酷いものになる。
どれだけ心に正義と信じるものがあろうと、どれだけ訓練を積もうとも。
剣を持ち、慣れない鎧を着た信徒が膝をついた。
昨日飯を食べながら話したアイツが、話したことも無いあの人が。
狐の尾に鎧を砕かれ、口から血を吐き出して動かなくなる。
ただそれだけで人は動けなくなった。それほどまでに濃密な死の匂いは人の体を絡めとり固めてしまう。それほどまでに他人の死というものは人に爪痕を残す。
剣を握る手から力が抜けて、口蓋垂を上がってきた胃液が焼いていく。涙と共に胃液が垂れ、地面に染み込む。
死なないために見なきゃいけない目の前を涙でにじませて、信徒は戦意を衰えさせた。
一度膝を突いてしまった男にもはや立ち上がる事など出来るはずもなかった。
そんな彼の耳に手を当てる男が一人。
「貴方ならできます」
「枢機卿……さま」
「貴方ならきっと英雄に。ほら、剣を握って。敵はそこに」
枢機卿カントルの声が信徒の耳に這入っていく。
その音は耳から脳に入り、脳から意識を縛る。
カントルの理想に縛られていく。
「私なら……できる」
「貴方なら、倒せます」
「私なら、倒せる」
手の震えはもはや止まっていた。力の抜けていた手は、怒りに打ち震えている戦士の様に。
死への恐怖は縛られ、彼は少しも感じてはいなかった。彼の心は未だ恐怖に染まっているというのに。
そして剣を振りかぶり走っていく。
だが彼は斧の一薙ぎによって胴を両断されて死んだ。
君は英雄だと唆された雑兵は呆気なくただそれだけで命を散らした。
「彼もまた……英雄になりました。たとえ成果がなくとも勇ましき彼は英雄でした。……君もできますよ」
謙譲の枢機卿カントル。
彼のこれらの発言は全て全くの本心で行われている。彼は本気で彼らを英雄だと信じていた。
ただ彼の理想は凡人には高潔過ぎた。
「鬱陶しい! アスモデウス、どうにかならんのか」
無尽に出てくる武装した信徒たちにロルは苦戦している。それはもう大きな声で喚くほどには。
美しい毛並みを無造作に斬られ、わずかに血が滲ませている。だがそれを大きく上回る返り血を浴びていた。
「気が付いて、いますか? 彼ら、雰囲気と戦闘能力に違いがある。何者かが強化しているのでしょう。それを叩かなきゃ終わりそうもありません」
「確かに、女子供も混じっておるが……強すぎる。はよう本元を」
声が止まった。
彼女の動きは止まっていた。戦場だというのに襲い掛かる信徒を見ることもせずただ止まっていた。
ただ前を見つめて、微かに揺れているのは眼だけ。
「ロル? ……成程。悪辣な」
文章が途切れたロルにアスモデウスが問いかける。だが彼女が返事をすることも無く、ただ目を大きく開いて人間を見ていた。
殺気と魔力を迸らせて。その勢いは彼女の動きの静止を見て襲い掛かった信徒たちが吹き飛ばされるほどだった。
「我が……子供たち」
彼女は目はその先にほんの少し稚児の面影を感じた。
彼女の鼻はほんの少し稚児の臭いをかぎ取った。
思い出すは過ぎ去った思い出、彼女の怒りは燃え上がっている。だがそれもすぐ消えた。
金色の毛並みに彼女の殺意を宿し、針金の如くその柔らかさを失っていく。
「救恤か。噂には聞いていたが」
救恤の枢機卿。
幾つもの国を平等教に沈めたと伝えられている男。
滅多に国から出てこない彼をアスモデウスは噂でのみ知っていた。
「アスモデウスよ」
ロルが絞り出すような声で彼を呼んだ。
彼女の眼から流れ落ちる涙が発火し、人を焼いている。
近づくものをすべて炎で焼きながら、彼女は少しも目線をずらさなかった。
「本元を倒しに行くがよい。妾は鏖殺する」
「……私がやりましょう。君の、血筋でしょう」
「よい。妾が殺す」
ロルはアスモデウスにそれ以上何も言わせなかった。
彼が言葉を成す前に彼女の眼を見て、その覚悟の硬さを悟ったから。
「お主の手より妾が手を下すというのが、情というものであろう」
「じゃあ、殺してくるよ」
「応。妾は妾のやりたいことをする」
アスモデウスは信徒の波を切り開いていく。
大きな斧は振り回すだけでも人間には脅威になる。そしてそれは力を得ただけの訓練も経験も無い信徒には防ぎようもないモノであった。
「サイガよ。感謝しよう。お主に協力しなければ妾はこの光景を見る事が無かったであろう。そして我が子よ。少しだけ目を閉じておくれ。今だけ妾はお主らの為に、獣に戻ろう」
子の柔肌を撫でるために整えられた爪が、肉を裂くために大きく鋭く伸びていく。
家族と笑い合うための口が大きく、大きく開かれ一度喰らいついた獲物を逃さぬように筋肉が隆起する。
子供達が抱き着き眠った心地よい毛並みはもはや刃を弾き、触れるだけで肉が抉れた。
美しき色欲の女王はもはや存在しない。ただ子を冒涜され怒り狂う獣が吠える。
「さて、待たせたな。火葬といこう」
獣に属するものの魔法は少し特殊なものだ。
人間の魔法は想像を魔法に映し出す。
だが彼らは魂を魔法に映し出す。想像という余地は彼らには無かった。
魂は永遠に輝く炎、その炎は星を焼いて余りあるものである。
であるために彼らの魔法は出力が高い。より強大なものを映し出しているからだ。
汎用性に劣るものの、戦闘能力で言えば彼らが勝っていた。
ロルが尾の先に幾つもの火球を浮かべていた。
それは一つ一つが触れば炭になる火力を持っている。
彼女による鏖殺が始まろうとしている。
「拍子抜けと言わざるを得ません。護衛も強さに大差はなく、君自身はとても弱い」
アスモデウスは枢機卿カントルの前に立っていた。
信徒たちの剣を受け、そして信徒たちの臓物や血を体に浴びてアスモデウスはそこにいた。
周りの護衛も、全て殺されたカントルは未だ穏やかに前を見ていた。
死を目の前に少し手が震えてはいるものの、錯乱することも無く静かに手を握り祈っているようにひざまずいていた。
目を瞑る事は無く彼は目の前に突きつけられた刃を見つめている。
「遺言を聞こう」
斧を振りかぶり、アスモデウスがそうカントルに聞いた。
その斧が振り下ろされれば彼はその命を終えるだろう。散っていった信徒たちのように呆気なくその命は潰えるだろう事は想像に難くない。
「私は、弱かった。だからこそ彼らを送り出したことを悪だとは思っていません」
「強くなろうとは?」
「それは成ろうとしてそう成れた者の理屈でしょう。どうしても私にはあんな勇気は出なかった」
「人を……そうさせておいてよく言うよ」
「私は背中を押しただけですよ」
「そうですか。じゃあ、さようなら。ロルに叱られてしまいますので」
「最後に聞いても?」
「何か」
死が枢機卿カントルの肩にその手を置いた。今こそ運命が来たらんと。
「なぜ貴方は戦っているのです?」
「かっこいい僕であるためさ」
あまりにも俗な答えにカントルは驚き、眼を見開いて彼を見る。
だが斧が振り下ろされる最中、理解が及んだのか落ち着いたように目を閉じた。
そして彼の頭が空中に舞う。最後まで何も起こらなかった。謙譲の枢機卿カントルは弱き者であるが為に。何もできずに塵芥のようにその命を終えたのだ。
「終わったか」
灰を被りながらも振り払う事もせず、ロルはアスモデウスの元へとやってきた。
「かっこいい自分であるため、か。そのような容姿である癖に青い答えよの」
「そうですかな、気持ちは若いつもりですが」
「くく……初恋が忘れられんほどか」
「最初で最後の恋ですので」
「さて、貴様の初恋話を聞いてやるのも面白いが、奴らが再起動する頃だろう」
ロルは辺りの信徒を殺しつくしたが、全ての信徒を殺したわけではなかった。
謙譲の枢機卿カントルが死したとしてもその力の影響は消えず、信徒たちはその剣を手放す事は無い。例え目の前で枢機卿が死んだとしても怒りを以て襲い掛かってくるだろう。
武器を手に握り、信徒たちは立ち上がっている。
「我が血族がいたら妾に知らせろ等と言うつもりはない。疾く楽にせよ。それとも……妾より先に疲れたなどと戯言をのたまうか?」
「まさか。子供の頼み事は存分に聞くのがカッコイイ大人でしょう?」
謙譲のペンダント
謙譲の枢機卿カントルが祈る際に使うペンダント。
平等教に所縁のあるものではなく、カントル自身このペンダントにどういう思いが込められ、どういう意味があるのかは知らない。
だが、カントルが魅せられた強さを象徴する彼のただ一つの思い出。
強き者に助けられた彼は人類にはあれほどの力があるのだと信じている。
遠い昔に光で焼かれた目ではもはや何も見る事は出来ない。




