52話 ごちそうさまでした
根が迫る。それは燃えているが、焼けながらもその表皮を脱皮のように捨てながら動いている。
それがほんの少し体に掠ると肉が削れる。そしてそれだけでなくごっそりと魔力を持っていくのだ。魔力を失った体は力が抜けてちょっと乾燥する。
未成年のお肌を何だと思ってるんだ。
「大丈夫かい?」
「当然。ちょっと打ち合ってみて、あります?」
魔力を集中させて足を元に戻す。
足一本には及ばないがなかなか持っていかれる。
その一瞬の硬直をグラドさんが守ってくれた。斧で絡めとろうとしている根を斬り落としている。頼りがいのある大人だよホントに。
そしてうすうすわかってはいたものの聞いてみる。
「活路? 教えてほしいくらい」
「まぁ、そっすよね」
グラドさんには今奴を殺す術はほぼないにも近しい。今根を斬った斧も刃がクッキーのように食べられている。
理由は単純で、相性が悪い。彼のスキルが無力化されているのだから。
奴の重さを無くして浮かせようとも、奴は根で踏ん張るだろう。
根が焼け落ちる瞬間を狙ったとしても、奴は根を腕のように使って着地するだろう。
幾ら高く飛ばそうとも根はいくらでも伸びるのだから。
「本体叩いてる間、根っこは任せても?」
「ううん……頑張るよ!」
「任せました。活路を開いて見せますから」
奴はゆっくりとこちらに歩いてきていた。目をこちらに固定し、一歩一歩狙いを澄ます獣のように動いている。
観察して気付いたのだが、奴は近くの生き物を優先的に狙っている。
俺がグラドさんよりも奴に近い場合根はこちらへと殺到し、奴の眼は俺から逸れる事は無かった。
恐らくほぼ自我がないのだろう。そこに思考は感じない。
まぁ、それでも勝てる見込みはないのが困った所なんだが。
走る。
足音を聞いたのか、それともあの目が未だ俺を捉えているのか。
俺に根が殺到する。
横から伸びてくる根をスライディングで潜り抜ける。地面に落ちている蝿の残骸たちを蹴散らしながら、なお進む。俺の後ろにあるものならグラドさんが処理してくれると信じて振り返ることはしない。
頭を食らわんと根が伸びた。
膝の力を抜いて、曲げる。そのまま目の前にある、そのコンマ数秒後には俺の頭を貫くであろう根にアッパーを食らわせると脛に地面が激突した。涙が出そうなくらいに痛い。
勢いのついていた俺の身体は下に押し出され、避けることが出来た。
だが完全には避けきれなかった。少しだけ頭皮が削れた。しょうがない……とは言えん。禿げちまうよ。
膝が地面に当たり、燃え尽きる蝿どもの気持ちの悪い感覚が服越しに感じる。燃えていたからか体液がまき散らされることは無くて安心した。
「やっべぇ」
立ち上がろうとした瞬間に目の前に根があった。目と鼻の先に根が迫っている。
体をよじって避け……れん。
脇腹に根が刺さる。ぐんぐん魔力が抜けていく。血も吸われているのか血の気も引いていく。
致命傷じゃねぇが……これこのままじゃ死ぬな。
今でっかい蚊にストローを刺されているかの如く、このままでは吸い尽くされてしまう。
「やむなし!」
根を握る。気合いを入れる。気合いを入れる。手に力を入れる。根に噛みついた。歯で根を噛み砕いた。残った根を右に逸らす。左に跳ぶ。
行動は全て動く前に決めていた。でなければこの一瞬でこの行動を全て完遂する事は出来なかっただろう。そして新しい発見だが、根から切り離された木の破片はただの木に戻るらしい。口の中に広がる木の臭いと味を感じながら咀嚼した。くっそ不味いが贅沢は言えない。
俺の腹に空いていた穴が大きくなっていく、肉が、血管がちぎれた。
いつの間にか根を張っていたらしい。内臓ごと持っていかれたような感覚がした。
「っがぁ!」
目の前が霞み始めた。血を失いすぎた。
耳鳴りがうるさいのだが、風の音が聞こえる。
上に跳ぶ。跳ぶ、というよりは足を地面に叩きつけて体を無理やり上に投げるに近い挙動だっただろう。
失った血液や肉体に魔力がどんどん使われていく。
目が少し見えてきた。
「ハハハ、まだ、俺は、生きてる! 生きてるぞ!」
一瞬意識が飛びかけたが、止まらず走り抜ける。不格好に飛んだせいか転がっていたが、無理やり体勢を整えた。
あっぶない、跳んでなかったら蓮よりもひどいことになってたぜ。
靴が食われてるなこれ、まぁいい。些細なことだ。
「たどり着いたぞ、はらぺこ野郎」
俺を倒せたと思っていたのか、それとも血を流しながらも遮二無二走る俺に驚いたのか、俺へ攻撃することもせずに突っ立っていた奴の頭を殴りつけた。
根で安定した奴の体は動くことはない、が動かないからこそ威力が過分に伝わるというモノだ。
惚けているうちにぼこぼこにしてやる。
「画面端の怖さ教えてやんよ」
腕を動かそうとすれば、掴んで押さえつけ肩の骨を砕く。
足に力がこもれば、踏んで膝を蹴り砕く。
永遠に嵌め殺してやらぁ。
腕も足も使えないと悟った奴は動きを止めた。
厭な予感がしたが、今のうちにダメージを与えておきたかった。
腹を殴り、内臓を破裂させてやろうとこぶしを握った瞬間に俺は死を予感した。
奴の腹が輝いた、いや銀色の何かが生えてきた。
腹を狙っていた俺はそれを拳で受け止めた。肉を抉り血が出るが、骨を砕くほどじゃない。運がよかった。腹から出ていたのだから順当に行けば俺の腹に刺さっていたはずだ。腹に刺されば致命傷足りうる威力を持っていた。
奴の腹から射出されたものは金属製の鋭い何かだった。それは製錬した金属を殴り、無理やり武器に使えるようにしたような鋭いだけのものだ。人の技術の結晶ではなく、黒曜石のような無骨な鋭さを持っている。
数瞬の思考の果て、それは食われた刃物だとわかった。
グラドさんの得物を食っていたのだ。鉄分豊富だろうさ。
右手が止められた……奴はゆっくりと口を開ける。
左手で奴の頸を抑えようとすると、手首を掴まれた。
奴の口がゆっくりと開かれる。痩せた歯茎と岩肌を齧りついたかのように欠けた歯がゆっくりと露出された。
まずい……頭突きで対応を。頭を振れど読まれていたのか避けられた。
食われた。
正確には噛みつかれている、が正しい。奴の歯が俺の喉に突き刺さっている。
だというのに血が噴き出すことはない。激しく奴の喉が動いていることから、飲んでいる事が分かる。
首にある大きな血管が傷つけられたにも関わらず、裂けていかないのは血圧以上の力で吸われているからだった。
「こんの野郎!」
刃物が生えている腹の肉ごと抉り千切る。
刃物を放り捨て、拳を握る。
近づき、動きを止めてくれるのならば話は早い。
奴の腹に拳を突き立てた。
何度も、何度も、何度も、何度も。
腹を殴り、骨を砕く。
肺を抉り、心臓を破裂させ、胃を砕き、肝臓を貫く。
腸を千切り、腎臓をまろび出させ、皮膚を剥がしつくす。
奴は未だ俺の喉から口を離さない。血が吸われている、知り合いのヴァンパイアより吸血鬼らしいよテメェは。
ならこちらも遠慮はしない。
奴の腹へと手を突っ込んだ。ぬめぬめとして激しく温かい腹の中をかき分けて、背骨に手をかけた。
そしてそれを握り砕く。
ようやく奴も危険を感じ取ったのか、顎の力を緩めた。
「やっと、諦め、た……か」
顎を掴んだ。
上顎と下顎を掴み、無理やり開かせた。
奴と目が合う。やせ細っていた奴はいつのまにやら、その肉体の張りを取り戻していた。
だが奴の眼は未だ正気を取り戻してはいない。目の前の俺を見てすらいない。焦点が全く俺にあっていなかった。
「ぶっ飛べ!」
頭を殴り、少しでも遠くに飛ばした。
無我夢中の行動だったが、奴は飛んでいった。いつの間にか……根を切ったなアイツ。奴の体から生えていた根は俺の目の前に残り、燃えている。
それまでの焼けた表面を突き破るほどの生命力はなく、静かに炭となっている。
跳んでいく奴の体を見ながら、膝を突いた。激しく視界が明滅している。当然だ、血が無いのだから。
意識がか細い蜘蛛の糸のようになっているのを感じた。
「生きてる?」
グラドさんの声で気が付いた。
一瞬気を失っていたらしい。息が止まっていたのかゆっくりと肺を膨らませる。
血液を急激に失い、血圧が下がっていたおかげか血管が裂ける前に塞ぐことが出来た。
「質問を返すようで悪いんすけど俺まだ生きてます?」
「一応聞くんだけどアンデッドじゃないよね」
「元気ピンピンの人間ですよ。武器のストックは?」
「まだあるよ」
「数呼吸だけ……休憩していい?」
「大丈夫だよ」
奴の腹から月見が出来るくらいにはぐちゃぐちゃにしてやった。
……だが俺の身体も死体寸前だ。
横腹は未だ塞がっていないし、拳は砕けて指の感覚が殆どない。
血は気が遠くなりそうなまでに生成が間に合っていない。
膝をついて呼吸を整えようとするが、肺が言う事を聞かない。
肺がちぎれそうになりながらも、大きく息を吸い込んで立ち上がった。
少ない全身の血液に酸素をぶち込んで体を動かした。
「ありがとう、状況は?」
「動いてない、それに様子も変なんだよね。根っこの動きも止まってる」
グラドさんはナイフのような短い刃を持つ武器を構えながらも、訝し気に奴を見ている。そして彼の言葉通りに根は伸びることを止めていた。
奴と目が合った。そしてピンときた。彼に正気が返ってき始めている。
泣き叫ぶような狂気でもなく、身悶えするような飢餓でもない。完全に戻ったとは言えないが、もはや暴れだすような事は無いのではないか。
「やっと知性でも戻ったか?」
拳から力を抜いて、構えを解いた。今攻撃をされれば一瞬反応が遅れてしまう。
だが奴は飛び掛かってこなかった。彼を支配していた飢餓から解放されたのだろうか。
ようやく獣から脱却したのかと期待をして、話しかけてみたが答えは返ってこない。
「んだ? まだはらぺこのままか」
だが返事はなかった。
奴の顔を見れば、よだれが垂れている。
……垂れている? おかしい。奴はラオの炎で焼かれているはずだ。よだれなんか存在できるはずもない。数秒で蒸発してしまうだろう。
だが奴は今燃えていないようだった。俺やグラドさんのように炎に包まれているだけだ。気付くと足元の蠅も一匹たりとも視認する事は出来ない。
まるで全て消えてしまったかのように。
そして彼はよだれを拭い、ゆっくりと構えた。
そこには武があった。獣の動きではない。特徴的な構えで、象形拳に近い。だが突きや打撃を目的としたようなものではなく掴みを主とした構えだ。
決して思考は無いのだろう。返事がない事から分かる。
だが、もはや彼は獣ではなくなった。
「良い、良いぞ。それなら俺も答えてやらんとな」
「何か……わかったのかい?」
「グラドさんは下がっててくれますか。ちょっと戦ってやりたくて」
奴は構えた。きっと、武術家として。
ならば俺も応えなければならないだろう。
何故こうなったか、何の意図があるか、そんなこと知らんし考える気も無い。
最後の矜持か、ようやく見えた埋もれし正気の片鱗か、確かめる術もない。
だがプライドがあるというのなら俺の、爺のモノは外道と言えど、これに応えない訳にはいかないだろう。
「それなら、僕が参戦しても良いんじゃないかな」
「もしも俺が負けたらあいつらに知らせる人間がいなくなるじゃないですか」
「それって」
恐らく今俺がこの場所から去ったとしても彼はゆっくりと死んでいくだろう。
焼け死ぬ事は無いだろうが、例えエネルギーを摂取したとはいえ長年の飢餓は体に負担を与えているだろうし、俺との戦いのダメージも深刻だろう。
今構えているのだって、せめて俺を倒そうとか戦おうとかそういう意思はないと思っている。
「いや、野暮か。良いよ。もしもの時ラオに怒られる覚悟はできた」
「ありがとうございます」
元々この旅は武者修行だ。
なれば戦いは望むところだろう。
正式な字を名乗る事は出来ないが、ちゃんと相手をしてやる。
「俺は……才賀。さて、戦おうか!」
奴は動く気配がない、待てば動くのだろうが先手を譲ってくれているのだ。
甘えるとしよう。
右足が奴の顎を狙う。
それを奴は受けずに避けた。しゃがんで俺の懐にも潜り込もうとしている。
腹へ向けて掌底を叩きつけようとしている。
嫌な予感がする。奴の構えは掴みを狙っているもので、戦い方は暴食の力を使ったものになるはずだ。
受けるには危険が過ぎると判断した俺は、左足で跳び浮いている左足で奴を足蹴にして後ろへ跳ぶ。
だが、左足首を掴まれた。
嫌な予感が的中したようだ。俺の足首の肉が持っていかれる。獰猛な肉食動物に刃を突き立てられ、噛み千切られたような感覚だ。
激痛が走る。
完全に感覚がない。視界にイナズマが走ったようにノイズが走った。
それがどうしたおい。
完全に千切れたのは初めてだが、ちぎれかけたくらいなら経験はあるんだよ。クソ爺のクソ修行でなぁ!
掴まれているのなら、そこを骨ごと切り離す。
右足が付いた瞬間、体を思いきり翻して左足を振り回す。すると俺のかろうじて軟骨でつながっていた足首は完全にねじれ千切れた。
神経特有の嫌な感覚が最大効果で俺の身体を駆け抜ける。
魔力で治せる、それまで痛みを覚悟すりゃいい。
「はっはぁ、掌がなくとも貫手は出来るんだぜ? 今回は足だがな!」
奴の頭にむき出しになった足の骨で突いてやる。どうせ、時間がかかるのと掴む場所って事で骨を残したんだろうが、後悔させてやる。
痛みで神経が馬鹿になったか、顔が引きつったまま直らない。
笑ってないと痛みで泣いちまいそうだから丁度いい。
耳鳴りで俺自身の言葉も聞こえないが喋れるのだから気にしない。
骨の貫手は奴の頬を抉った。
奴の掌を受ける。馬鹿正直に受ける事は出来ない、反らすように。片足が地面を掴めない俺はまともに食らえば転倒してしまうだろうから。
今俺の左足は魔力で治りかけているが地面にたたきつけ、踏みしめた。
治りが遅くなるが仕方ない。片足で奴の攻撃を受けるなんて冗談が過ぎる。
ちぃとバランスが悪いのが難点だが。
掌を逸らすと、掠った指の何本かの先が喰われた。拳が握りにくい。
奴の掌が掠った場所がごっそり無くなるんだろう。口ってかドリルみてぇだぞコレ。
拳は急務であるため魔力を余計に消費して回復する。
左足がやっと治った。これで機動力が回復した。
指がないというのはなんとも面倒なことで、地面を掴めない。ならば左足で跳ぶことが出来ない、そうなれば動ける位置にも限りが出てくる。
先ほどそれで失敗した。避けようとしたのだが、上手く動けず右肩をごっそり食われちまったよ。
「なんとなくわかった。決めにかかるから歯食いしばれ」
奴の動きというのをなんとなく理解することが出来た。
指はまだうまく曲がらないが、それ以外は問題なく動く。
ならば今が決め時というものだ。
掌を注意すればいい、というわけでもなかった。
奴の体を数秒触っていると、その時もまた食われる。
掌の方が食べやすい、と言うだけで食えないというものではないのだろう。
だから俺は奴を倒すために考えた。
どうすれば奴に致命的なダメージを与えられるほどの隙を作れるのか。
はっきりわかった。無理だった。
奴の足が動く、それは蹴りの予備動作だ。そのまま掴む。
肌を蛆が喰らいながら進んでいるような嫌な感覚が俺の手を襲う。足の肌からも捕食できるのだから。
奴の軸足に力が入った。俺の頸に飛びついて、ゆっくりと肉体を食らうつもりなのだろう。全身が捕食器官なのだから締め技は必殺技に近い。
それを奴の足を踏んで阻止する。硫酸の水たまりを長靴も履かずに歩いているような痛みが走るが、致命傷には程遠い。
足の指でしっかりと奴の足を掴む。食われ出でた血で足が滑りそうだったから。
先ほど首に噛みついた時のように飲めるだろうに、血が出ているのはわざと飲んでいないのだろう。厄介だ、この能力で戦いなれているというのは。
二の矢三の矢は用意しておく。
それは当然というものだ。だがそれは阻まれたもので、取れる選択肢には限りがある。
ならばその後の行動は読める。正確には予測していた選択肢の中の一つだった。
故に完全に行動の起こりを阻止することが出来た。
今奴がとる事の出来る択は限りなく少なかったからだ。
殴るか? 否、片足を上げている今の姿勢では威力は期待できないだろう。
触って手から喰らうか? 否、この距離では触れたとしても致命傷になる前に俺の一撃の方が速い。
目を潰すか? 否、片手が空いている今防がれる可能性が高い。
頭突きをするか? ……否定できない。
噛みつくか? これもまた否定できない。
つまり頭を使った攻撃の可能性が高い。
俺はそう思った。そしてそれは当たった。
奴は頭突きをしようと頭を振りかぶった。
予測通り、ならば俺はその予備動作を見た瞬間にあらかじめ決めていた行動をするだけだ。
「ロボトミー手術って知ってるか?」
人差し指、中指、薬指の三つを束ね、槍とした。象形拳。
それを奴の眼へと差し込んだ。奴があちらから寄ってきてくれるなら好都合だ。
奴の視点からすれば対応できないほどの速度になっているだろう。
三つの指が硬い骨を突き破ると、生温かい感覚に包まれる。
血に塗れながら戦う俺たちにとってはもう特に気にするものでもなかった。
そしてその三つの指を思いきり開いた。苦悩の梨とやっていることは同じだ。
だが破壊力が違う。俺の指は頭蓋骨を砕き、頭を爆ぜさせた。
奴の体から力が抜ける。
俺は奴の体から手を放し、離れる。普通ならば、これで終わる。
だが一応構えを解かない。頭蓋骨を破壊しても起き上がってきたからなコイツ。
「どうだい」
脳を致命的に破壊された奴は倒れ、びくびくと死にゆく人間特有の痙攣を繰り返していた。
だがそれも緩やかに収まり、起き上がった。生物としてあり得ない挙動に笑うしかない。致命傷だろありゃ。
けれどおかしい、奴は俺に殺意を向けるどころか構えることも無かった。
「あ゛……あ、げほっ」
「マジかよ。正気を取り戻したのか?」
奴は驚いたことにその長い間使われていなかった声帯から言葉を絞り出したのだ。それはただの汚い音でしかなかったが、知性を示すには十分なものだった。
愕然としながらも口からこぼれた俺の叫びに彼は首を縦には振らなかった。
「い゛いえ、これは……僕の、最後に残った矜持です。ありがとうございました」
「それは戦いとしてか、それとも……んにゃ、無粋か。ありがとうございました」
俺たちは互いに礼を言いあった。
彼は両手で口を隠し、頭を下げ言った。俺にはその動作が何を意味するのかは分からない、が感謝を意味することなのだろうと予想する事は出来る。
それに俺も応えた。頭を下げ、礼を言う。
俺たちがしていたのは確かに殺し合いだったが、今俺たちがしている事は試合が終わり礼を言っているようにも見える。事実、そうだった。
すると俺が頭を下げる前に、前から何かが爆発したような音が聞こえた。
顔を上げると彼はもうそこにはいなかった。肉体が爆散しているわけでもなく、綺麗に何も無い。
理解した。大罪人としての俺が確かに理解した。
彼は満足してしまったのだと。満足、つまりは満ち足りたのだ。
欲を失った大罪人はその力を失う。
彼は暴食の大罪人、無限の食欲に応えるように無限の胃袋が与えられる。
それは単純に食物を貯めておける、というものではなくエネルギーを貯めておけるという意味だ。
魔力でもカロリーでもなくもっと純粋なエネルギーとして。
それを彼は今失った。
たった一人の人間が持てるエネルギーではないのだろう。その結果が目の前のコレだ。
「満足したか」
「みたいだね」
倒れる俺をグラドさんが受け止めてくれた。
永遠とすら感じる飢餓の果てに待っていた結末として、コレが彼にとって良いものだったなら。
きっと俺も良く眠れる。
残っている彼が作り出した木もすぐに消えるだろう。
彼が死んだのだ。強固に作られたものではないのは確認している、すぐに自壊するだろう。
木が崩れ、空が見える。星空なんて久しぶりに見たよ。
いつのまにか日が暮れていたようだ。必死で気が付かなかった。それにほぼ目も見えていなかったのだ、無理もないだろう。
疲れと時間。そのダブルパンチの眠気には俺は勝つことが出来ない。
緊張の緩和と共に、俺は目を閉じた。
暴食の胴着
彼を生かすために自らの身をも差し出した悪魔を喰らい、暴走した暴食の大罪人の着ていた胴着。
ただ強くなる為に、あらゆる武術を喰らい、あらゆる食物を喰らった人間が辿り着いたのは孤独に飢え続けるという末路だった。
始める前に礼をして、終われば礼をする。武と食とは奇しくも似ているものだった。




