51話 乗り越えし先
数時間たっただろうか、それとも数分か、もしくはたった数秒しか経っていないのではないか。
時間感覚はもはや崩壊している。
そして気が付くと奴の手首が動かなくなっていた。死んだか? その考えは蝿の一噛みで否定された。
逃げられた? だが、俺の掌は今も手首を掴んでいる。眼球はもうゆで卵のように濁っていて見る事は出来ず、確かめることが出来ない。
魔術を止めるか? それが奴の狙いだったらどうする。距離を取られてしまえば俺はゆっくりと蝿たちに食べられていくだろう。
一旦距離を取るか? いや、塩釜のように積みあがった蝿たちの死骸が俺の身体を固めている。爆発の魔法でも使えば吹き飛ばせるだろうが、火の魔術を止める事になるしそれはきっと奴も吹き飛ばすだろう。
どうする。どうする。
手首が動かなくなっただけ、逃げようとしなくなっただけで俺はそんなにも追い込まれていた。
俺が死ぬか、暴食の大罪人が死ぬか、そういう一手だと思っていただけに動揺は激しかった。
痛みと羽音による不快感に満たされた極限状態でその問いは俺の思考を止めてしまっていた。だが、その無の状態の俺に衝撃が走った。
横っ腹を殴られるような衝撃だ。そして俺はそれを耐えることが出来ず大きく横に飛ばされた。
回復させる第一優先は目だ。目に魔力を集中させる。
「おえっ」
「おっとと、済まないね。大丈夫かい? こうするしかなかったんだ。どこか齧られてないかい」
「丸齧りされそうだったから助かった。グラドさん、いつの間に……というか大丈夫なんですか?」
「見てごらん、この炎を」
何処か誇らしげなグラドさんの声に従い辺りを見渡せば、此処は炎に包まれていた。
俺の炎じゃない。暖かで、優しい炎だった。俺を燃やすことはなく、春のお日様のような心地の良い熱を伝えてきている。
これは……ラオか。蝿たちは炎に巻かれ、苦しんでいた。
「僕の弟は凄いだろう? 蝿たちは焼かれていく。だから僕も加勢に来たのさ。あ、安心してね。剣と杖はファセスちゃんに預けてきたから」
「ありがとうございます。ラオは乗り越えられたんすね」
「お兄ちゃんが檄を飛ばしたらあっという間だったよ。ありがとうね、機会を作ってくれて」
「それで、俺を飛ばしたのはどういう?」
「僕のスキルは覚えているだろう。こういう使い方もあるのさ。さて、長々と種明かしをしたい所なんだけど、あの子は待ってくれないようだよ。君は賢いし、良いかな?」
「了解!」
俺はグラドさんの槍に横腹を殴られ、横にすっ飛んだようだった。
重さを無くされた俺は摩擦も無いのに耐えるはずも無く真横に飛ばされたのか。
いつの間に俺に印をつけていたのかという疑問が残るが、年の功というものなのだろう。
俺も爺には勝てん。何回分からん殺しをされたか。
暴食の大罪人は案の定俺の拘束から逃げ出していたようで、膝を突いてこちらを睨んでいる。そして奴の左腕は手首から先が無かった。
どうやって逃げ出したのかと思えば、掴まれた手首を千切って逃げていたようだ。そして、俺の手に握られた手首から蠅が顔を出している。ラオの炎で満たされたこの場で、距離を取ったアイツから飛び立ったとしても俺の所に辿り着くとは出来ない。
俺の身体を齧っていたのは此処から出てきていたのだろう。ぶん投げるとすぐに燃えて塵と化した。
「第二回戦だ、煩わしい蝿抜きで」
奴は下に転がる蝿の焼死体を一山掴んで口に流し込む。すると左手が再生し始めた。
立ち上がり、こちらに走ってくる。よくやるよ。蝿たちが燃えているように奴も今まさに焼かれているはずだ。だが食欲はそれでは止まらないらしい。
無手で向ってくることを見るに徒手空拳で戦おうというのだろう。
奴の蹴りをそのまま足で受け止める。
重いが、それだけだ。爺のように同時に近いタイミングでナイフが飛んでくるわけじゃない。
つまりは戦えるのだ。
「やっぱりだめかぁ。見てよこれ、先っちょ食われちゃった。棒術の心得ある? すぐに食べられちゃうだろうけど」
「どっから出したんすか」
「重さがないといろいろ工夫が出来るんだぜ」
グラドさんが槍を突き刺したが、血は噴き出てもその先はまるで体の中に置いてきたかのように無くなっていた。
その部分は食われたのだろう。槍はただの鉄の棒になった。
そうだろうとは思っていたが、クソだなこりゃ。剣を持ってこなくてよかった。
武器を使うのが悪手、というのは面倒極まりない。
一手間違えれば死ぬというわけじゃない。グラドさんがサポートしてくれているし、未だ未熟な我が身なれど爺に教わったのだ。
少しずつ奴の癖もわかってきた。そして奴の戦い方は洗練されているとは言えない。
なら勝てる。
奴の腹に掌底を当て、飛ばすがどうにも手応えが無い。肋骨の一つや二つ砕けるかと思ったのだが、異様に硬かった。
「どう殺せばいいんだこりゃ。手ごたえがなさすぎるにもほどがある」
「一気に吹き飛ばすしかないんじゃない? うーん、この長さは危ないか。次のを出そう」
懐からマジックのように長い槍を取り出したのだが、長すぎたのかポイと捨てて他の武器を探している。
どうにもラオならやれても俺が砕けると思えなかった。
魔術を使うか?
「グラドさん、どのくらい時間を稼げます?」
「んー……今のストック全部使うとしたら……数分は確約できるかな」
「お願いできます?」
「わかった、頑張ってね!」
新しく出した剣を手にグラドさんは奴に向かって行った。
さて、どのような魔術にするか考える。杖はないが、指の先に魔力を集中させた。
威力で言えば火だが、扱いが難しい。魔力を込めすぎると暴発してしまうかもしれない。動かない的に当てるならまだしも、動いているなんなら戦っている相手に当てるには安定性は欲しかった。
安定している金を使うか。威力は見込めないが、それは魔力の量でカバーできる。
地面に魔法陣を書く。蝿の死体が邪魔だが魔力が込められるという事と、書く事が重要なので問題はなかった。
円の中に五芒星、そして五つの魔術文字の中心に金の魔術文字を書いた。
効果は爆発でいいだろう。単純な方がイメージが必要なくて楽だった。
ここからはいくら魔力を込められるか、だ。
魔法陣の中心に手に平を置いて魔力を注いでいく。
先ほど壁を作った時は割と魔力の消費は抑えられていた。
だが今回は違う。バカみたいな量をここに注ぎ込まなければならない。奴にダメージを与えるために。
風船に空気を入れるように、気を使いながら注ぎ込んでいく。
風船と違うのは魔力というもの自体がエネルギーの塊のようなものなので、ほんの少しでも気を抜けばその綻びがエネルギーの流れとなり、はじけ飛ぶ可能性があるという事だった。
ゆっくりと、だけど確実に。
失敗すれば爆発が起き、俺だけにダメージを与えて終わる事になる。
死にゃしないが、こんな時に徒労に終わるなんて考えたくない。
「出来た、グラドさん!」
これ以上注ぎ込めば、俺には制御できない。足元の魔法陣をその状態にまで持って行けた。
魔法陣から手を離し、何時でも起動できるような状態になる。
グラドさんに完成を呼びかけた。
「一瞬だけど、合わせられる?」
「いつでも良いっす」
目の前で魔法陣を作ったのだから引っ掛かるわけがない。グラドさんの力を借りなければならない。
走り出しながら、グラドさんの方を見るがどうやら奴は俺の方が危険度が高いと思ったのかこちらに襲い掛かってきた。……俺の方がおいしそうに見えたのかもしれないが、それは奴にしかわからない。
俺が足を上げると、即座に反応し蹴りで対応してきた。
そうだよな。今の奴は獣に近い。思考を手放しているからこそ、奴の反応速度は驚異的なまでに向上している。
だからこそフェイントが刺さるのだ。
俺は蹴らずにそのまま蹴りを潜り抜けて、奴の後ろに回る。
「触ったらすぐに発動するよ」
「相分かった」
グラドさんが奴の横腹に掌で触れた。
奴が重力というものから解放され、重さというものを失う。重さが無ければ踏ん張れない。
目の前で作ったトラップに引っ掛かるわけないもんな。なら直接ぶつけてやるよ。
「いってこい」
奴の腰を蹴る。足の裏で為されたそれは衝撃を与えるというよりも、力を効率的に与えるもので。ほんの少し上に向けてはなったそれは奴の体をいとも簡単に吹き飛ばした。
その先にあるのはほんの少し前に俺が作った爆発の魔術。
奴がその上を通過せんという時重力に引っ張られ、地面に落ちていく。グラドさんがスキルを解除したのだ。
「おおーっとと、こりゃすごい威力だ」
成人男性が少し後ずさりそうになるくらいには大きな爆風が起きた。
思ったより……威力があった。ちょっと威力調整を間違えたか?
「手、大丈夫すか」
「痛いね。スキルの都合上食われなきゃいけないとはいえ、何回もやれば骨が見えそうだ」
「魔力で防御しなかったんすか?」
「それがその魔力も食べられちゃったみたいで、アレもギリギリだったんだよね」
爆発はそれはそれは大きく巻き上げた土埃によって前が見えなくなっていた。
洞窟が崩落しそうだ、なんて思って天井を見るとどうも洞窟らしくない。いつの間にか蝿たちは洞窟を貫いていたようだ。
それなのに飛び出していなかったのを見るにファセスが何かやっているのかもしれない。
問題はアレにどれだけのダメージを与えられたのか、という事だった。
煙が晴れていく。
「生きてはいる、か。やったと思ったんだけどな」
「いや……痛かったみたいだよ。思わず飛び起きるくらいには」
奴の足元から一つの芽が出た。それはポコポコと出て成長を始めた。小枝になり、木となり、巨木にならんとしている。
枝が突き刺さった壁や土は砂漠の砂のようにさらさらと崩れていく。きっとエネルギーを吸われているのだ。
あれが人に刺さった場合何ぞ考えたくも無いな。
そして大きな変化として彼の眼にほんの少しの知性が見え始めた。
今の今まで正気を失った獣ほどの知性しか感じなかったソレから、森にすむ獰猛な獣ほどの知性を感じる。会話は出来そうにもないが、今の今までのように直線的に襲ってくることは期待できそうにもない。
強くなったかはわからないまでも、厄介になったことは分かる。
「まだまだ食い足りないか食いしん坊め」
「ありゃ僕のスキルは通じないね。あんな念入りに根を張られちゃ商売あがったりだよ」
グラドさんのスキルはあの根っこを千切らなければ使えないだろう。ラオの炎によって燃えてはいるが、水分が豊富に含まれているのかどうにも火の通りが甘い。
そして俺らはあの根っこを避けなければならない。蝿よりも恐ろしい。魔力なんかじゃ防げないだろう。
だが死にたくないなら勝つしかないのだ。
どうやって倒そうか。
無重力の手形
グラドのスキル。
魔力で手形をつけたモノを重力から解放することが出来る。
接触しなければならないという制約があるものの、重力が無ければ人は動くことが出来ない為に強力なスキルである。
人間であれば一部の例外を除き勝つことが出来るだろう。だが、彼は武力を行使することを良しとはしなかった。




