第9話 牙を剥く権力
ウィリアムの喉元に木剣を突きつけ、手が滑ったと言い放ったアレクセイの噂は、瞬く間に王宮中を駆け巡った。
最強と謳われた近衛隊長が、無名の新兵に一瞬で敗北したのだ。
ウィリアムの威信は地に落ち、近衛隊の内部からも彼を白眼視する声が上がり始めていた。
けれど、これで大人しく引き下がるような男ではない。
力で敵わないと知ったウィリアムが次に仕掛けてきたのは、あまりにも陰湿で容赦のない権力を使った報復だった。
「エリーゼ、大変なことになった……!」
ある朝、実家から事務所に届いた父からの手紙を読み、私は血の気が引くのを感じた。
我が家――ヴァレンティン伯爵家が営む交易事業に対し、アスラント公爵家とその傘下の貴族たちから、一斉に取引停止の通達が届いたというのだ。
それだけではない。
王宮の物流管理部門からも、不可解な理由で我が家の商船の入港許可が差し止められているらしい。
(ウィリアム……私が戻らないからって、今度は実家を潰すつもりなの……!?)
あの大国のような公爵家に本気で睨まれれば、地方の弱小貴族である我が家など、ひとたまりもない。
私がどれだけ結婚生活を耐えても、結局はこうなるのだ。
あの男は、私の大切なものを全て奪って、這いつくばらせてでも自分の手元に連れ戻そうとする。
その時、激しい眩暈に襲われデスクを掴んでよろめいた私の身体を、大きな手が背後からしっかりと支えた。
「エリーゼ!? 顔色が真っ青だがどうした?」
書類の提出にやってきたアレクセイだった。
私は震える手で、父からの手紙を彼に見せるしかなかった。
手紙を読み終えたアレクセイの碧の瞳に、訓練場の時以上の、激しい怒りの炎が灯る。
「私のせいで、実家が大変なことに……。やっぱり、私が大人しく公爵邸に戻るしか、解決の方法はないのかもしれないわ。ウィリアムの権力には誰も抗えない……。」
涙がボロボロと溢れ、視界が滲む。
せっかくアレクセイのおかげで前を向けたのに、またあの灰色の地獄に引き戻される恐怖で、身体の震えが止まらない。
すると、アレクセイは私の両肩をがっしりと掴み、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「エリーゼ、そんなところに戻る必要なんて全く無い!」
「でも、王宮の物流部門までウィリアムの息がかかっているのよ!? 私じゃ、もうどうしようも……。」
「いや、どうにでもなる。忘れたのか?」
アレクセイは不敵に、けれど最高に頼もしい笑みを浮かべた。
「あの近衛隊長は、大きな勘違いをしている。エリーゼのご実家であるヴァレンティン伯爵家なら、公爵家の権力で簡単に握り潰せると思っているようだが、我がノードン伯爵家が、全力でヴァレンティン家の後ろ盾になる。」
「でも、公爵家を相手にノードン家まで巻き込むわけにはいかないわ。」
「巻き込むなんて言わないで欲しい。俺がやりたくてやる。それに、あの近衛隊長は俺のことも、ただの地方貴族上がりの新兵だと侮っている。」
アレクセイは一歩、私に近づくと、その碧の瞳を不敵に輝かせた。
「俺は、あの名門王立士官学校を歴代トップの成績で卒業している。単なる今年の首席じゃない。学校の創立以来、過去最高の点数を叩き出した『規格外』として、卒業式の日に国王陛下から直々に声をかけていただいている。」
「え……っ!?」
私は驚きで目を見開いた。
確かにアレクセイが優秀だとは知っていたけれど、まさか国中の天才が集まる王立士官学校の、歴史上最高の天才だったなんて。
「王宮の物流部門を動かしてヴァレンティン家を脅すだなんて、俺を重宝してくださっている国王陛下がそんな私怨による嫌がらせを黙って見過ごすはずがない。公爵家がどれだけ肥大化しようと、この国の頂点は国王陛下だ。我がノードン家の名において陛下へ直訴すれば、一発でひっくり返せる。」
アレクセイは私の前からそっと一歩引くと、その場に跪き私の右手をとって、甲に深く誓うようなキスをした。
それは友達としてではなく、一人の高貴な騎士としての、最上級の臣下の礼だった。
「近衛隊長という肩書きに溺れて、上も下も見えなくなっているあの男に、本当の『格の違い』を教えてよう。エリーゼ、何も心配せずここで笑っていて。ヴァレンティン家も、あなたの未来も、俺が全部守ってみせる。」
顔を上げたアレクセイの表情は、未来の公爵ウィリアムをも遥かに見下ろす、国宝級の天才騎士としての冷徹で美しい威厳に満ちていた。
「――さぁ、反撃の準備を始めよう。」




