第8話 手が滑った
アレクセイのあの、涙ながらの「あわよくば」告白から数日。
オフィスでの修羅場は、同僚たちの温かく、そしてニヤニヤとした見守りによって、不思議なほど穏やかに収束していた。
私が完璧超人ウィリアム・アスラント近衛隊長の元妻だったという衝撃は、いまや「あんなクズ公爵に惜しげもなく離婚届を叩きつけたエリーゼさん、格好いい!」という称賛に変わり、以前よりも職居心地が良くなったほどだ。
ただ、私たちの間で何かが変わったとすれば
「エリーゼ! 今日のランチ、もし良ければ火曜日限定のサーモンとスピナッチのキッシュを一緒にどうだ? あ、もちろん友達として!でも、下心ももちろん有る!! 」
「ふふ、ありがとう。喜んで。」
こんな風に、アレクセイが以前よりも少しだけ本当に少しだけ、素直に好意を口にしてくれるようになったことくらい。
私のために怒り、私のために泣いてくれた誠実な同期の彼が隣にいてくれるだけで、私の灰色だった世界には、少しずつ鮮やかな色が戻り始めていた。
――けれど、世界が優しく回りはじめた矢先、あの男の身勝手な執着が、最悪な形で私たちの前に立ち塞がった。
「第一部隊のノードン。近衛隊長直々の御指名だ。今すぐ第三訓練場へ向かえ。」
お昼休憩が明けた直後、事務所に飛び込んできた伝令の言葉に、私は書類を持つ手を止めた。
士官学校を首席で卒業したエリート騎士であるアレクセイだが、本来ならまだ新兵の彼が、雲の上の存在である近衛隊長ウィリアムから名指しで手合わせを申し込まれるなど、異例中の異例だ。
(ウィリアム……! もしや、私を連れ戻し損ねた腹いせに、アレクセイを……!?)
「エリーゼ大丈夫。ちょっと指導を受けてくる。」
アレクセイは不安に駆られる私を安心させるように、いつもの太陽のようなカラッとした笑顔を浮かべ、自分の所属部隊へと訓練の準備に向かった。
けれど、その背中を見送る私の胸騒ぎはどうしても収まらなかった。
気づけば私は、ペンを置いて第三訓練場へと走っていた。
窓から見下ろす訓練場には、すでに大勢の騎士たちが集まり、異様な緊張感が漂っていた。
その中央で木剣を手に向かい合っているのは、冷徹な笑みを浮かべる元夫・ウィリアムと、木剣を構えるアレクセイ。
「動きが鈍いぞ、ノードン。士官学校を首席で出たという噂は偽りか?」
「くっ……!」
カン、と激しい木撃音が響き渡る。
上から見ている私でさえ、ウィリアムの放つ打ち込みは指導の域を完全に超えていることが一目で分かった。
アレクセイの骨をへし折り、プライドごと圧殺しようとするような悪意に満ちた重い一撃。
「おい、なんだか隊長はノードンにだけ厳しすぎないか……?」
「いくら指導とはいえ、あれは私怨でもあるのか?」
周囲で見学している騎士たちからも、困惑の声が漏れ始める。
王宮の誰もが憧れる完璧超人、ウィリアム・アスラント近衛隊長。
その彼が、期待の新星に対して見せているあからさまな八つ当たり。
(まさか、あの噂の『逃げた元妻』って……)
(だからノードンを目の敵に? 憧れの隊長が、そんな理由で私闘紛いの真似を……?)
周囲の、憧れが幻滅へと変わっていく視線にすら気づかないほど、ウィリアムは独善的な愉悦に浸っていた。
激しい衝撃と共に、アレクセイの木剣が力任せに弾き飛ばされ、地面に転がる。
「所詮は地方伯爵家の温室育ちか。君のような未熟者に、他人の私生活へ口を挟む資格などないと言ったはずだが?」
勝ち誇ったウィリアムが、周囲には聞こえない低い声で吐き捨てた。
私は思わず窓の縁を強く握りしめる。
今すぐ止めに入りたかった。
けれど、アレクセイは終わっていなかった。
彼は荒い息を吐きながら、地面に転がった木剣を見つめ――それから、ゆっくりと立ち上がると、その碧の瞳には、恐怖など一ミリもなかった。
あるのは、冷徹なまでの、深い深い怒りの感情。
二人が再び木剣を構え、激しく噛み合い、至近距離でのつば競り合いになった瞬間、ウィリアムがさらに嘲笑うように囁いた。
「おい、ノードン。君はエリーゼに同情でもしているのか? 我が家の家庭事情に首を突っ込むな。貴族なら、本妻にはできないことを愛人で発散することなど、よくある話だろう。」
アレクセイの瞳が、一瞬で険しくなる。
ウィリアムは悪びれもせず、むしろ教えを説くかのように言葉を続けた。
「たまにしか浮気をしないのであれば、それは異常であり、妻も寂しがるのかもしれない。だが、よくある異常が毎日であれば、それはもはや『平常』だろう。私は日替わりで、遊びで激しく愛人たちを抱き、家に帰れば公爵家の夫人であるエリーゼをきちんと可愛がってやった。衣食住に困らない贅沢をさせ、夫としての義務も果たしていた。それの何が悪い?」
本気で、一ミリも悪いと思っていないのだ、あの男は。
自分の浮気を「毎日のことだから日常だ」とのたまい、私を広い公爵邸に一人置き去りにして精神的に追い詰めていた日々を、夫の甲斐性だと信じ込んでいる。
その歪みきったドクズ理論を平然と言い放った瞬間、アレクセイの心の中で、完全に何かがブチ切れた。
(こんなクズのために、結婚生活を一人で泣いて送っていたのか――!)
「……そうですか。」
アレクセイは、信じられないほどの腕力でウィリアムの木剣を押し返すと、鋭い視線で元夫を射抜いた。
「私は未熟者ですので、隊長のその立派なご高説は、毛頭理解できません。アスラント隊長。」
「……何だ?」
ウィリアムが眉をひそめた、次の瞬間だった。
空気が、爆ぜた。
アレクセイの身体が、肉眼では捉えきれないほどの速度で踏み込まれる。
士官学校を首席で卒業した天才の、本気の踏み込み。
「っな――!?」
ウィリアムが反射的に剣を構えようとしたが、それよりも遥かに早く、激しい衝撃と共にウィリアムの持つ木剣が手元から弾き飛ばされ、宙を舞った。
ガラン、と音を立てて木剣が遠くの地面に転がる。
次の瞬間、ウィリアムの喉元には、アレクセイの放った木剣の切っ先が、寸止めでピタリと突きつけられていた。
静まり返る訓練場。
最強と謳われた近衛隊長が、同じ木剣を持った新兵に、一瞬で武器を奪われ、完全に喉元を取られたのだ。
誰もが息を呑み、動けない。
アレクセイは、喉元に木剣を突きつけたまま、感情の消えた冷ややかな声で言った。
「――あ、申し訳ありません。手が滑りました。学校を出たばかりの未熟者ですので、偉大な近衛隊長の、あまりに素晴らしいご指導に、つい身体が過剰に反応してしまいまして……。以後、気をつけます。」
ゾッとするほどの威圧感を放ちながら、アレクセイは綺麗な所作で木剣を引き、肩に担ぐと完璧な、そして大層不遜な一礼をして見せた。
ウィリアムの顔は、驚愕と、傷一つない木剣で完全に敗北させられた屈辱で、見たこともないほど醜く歪んでいた。
私は訓練場を見下ろしながら、胸がすくような想いと同時に、確信していた。
もう、私の心はあの灰色の場所にはない。私を心の底から怒り、護ろうとしてくれる、あの頼もしい同期の側にあるのだと。




