第7話 絶望のその先で
「……も、もう妻ではない……ですって……!?」
オフィス中に響き渡った私の叫びに、エレノア夫人は耳を疑うように絶句し、それから顔を真っ赤にして扇子をバチンと叩き閉じた。
「なんてはしたない! 公爵家の元妻という自覚を持ちなさい! 離婚届が受理されたから何だというの!? ウィリアムが戻ってこいと言っているのだから、黙って従えばいいものを……! 」
「――そこまでに、してください。」
ヒステリックに響き渡る夫人の罵声を遮ったのは、低く、けれど芯の通った同期の声だった。
驚いて振り返ると、そこには先ほどまで絶望に顔を青ざめさせていたはずのアレクセイが立っていた。
その大きな身体は、ショックのあまりまだ微かに震えている。
大好きな女性が、実は雲の上の存在の近衛隊長の元妻だった――その事実が、彼の心をどれほど傷つけたかは想像に難くない。
けれど、アレクセイは逃げなかった。
彼は一歩前へ出ると、私の前に立ちはだかるようにして、公爵夫人をその碧の瞳で真っ直ぐに見据えた。
「な、何よ貴方は……! 部外者はすっこんでいなさい!」
息子と同じ言葉で威嚇する夫人に、アレクセイは臆することなく、深く、綺麗な一礼をした。
「第一部隊の騎士、アレクセイ・ノードンと申します。部外者ではありません。ここは私たちが職務に励むオフィスであり、公爵夫人が私情で一人の女性を、我が隊の仲間を侮辱していい場所ではありません。」
「な……ッ! 私に口を出すの!?」
「エリーゼ嬢がどのような過去を持っていようと、彼女がこの職場で誰よりも誠実に、立派に働いている事実は変わりません。過去を理由に彼女を傷つける権利は、たとえ公爵夫人であっても、誰にもないはずです。」
私のために、また震えながら戦ってくれている。
オフィスの同僚たちも、アレクセイの命がけの直言に、息を呑んで見守っている。
「もういいわ! どいつもこいつも、どこの馬の骨ともしれない男にそそくさと担がれて……っ! エリーゼ、今日のところは引き下がってあげるけれど、近いうちに必ずアスラント家へ連れ戻しますからね!」
エレノア夫人はこれ以上ないほど不愉快そうに顔を歪めると、嵐のようにオフィスを立ち去っていった。
高級な香水の残臭だけが漂うオフィスに、重苦しい沈黙が降りる。
周囲の同僚たちの、憐れみと好奇の混ざった視線が痛い。
「……アレクセイ。」
私は、震える声で彼の背中に呼びかけた。
私は過去を隠しており、騙されていたと思われても仕方がないことなのかもしれない。
もう、彼から幻滅されて嫌われて当然だ。
そう思って、私はぎゅっと目を閉じたけれど――。
「エリーゼ嬢。」
振り返ったアレクセイの顔には、怒りも、軽蔑もなかった。
ただ、今にも泣き出しそうなほど切なげで、けれど、痛いほどの純愛が宿った瞳が私を見つめていた。
「……驚いた。本当に、頭が真っ白になった。」
「……ごめんなさい。」
「でも、俺がショックだったのは……エリーゼが近衛隊長の奥様だったことでも、ましてや離婚歴があったことでも無い。……俺自分が不甲斐なくて許せない。」
アレクセイは私との距離を詰めると、そっと私の震える手を、両手で優しく包み込んだ。
「アスラント隊長があんなに酷い女性関係で……エリーゼの心を、何度も何度もズタズタに傷つけていたというのに。何も知らなかったとはいえ、俺はその傷にお構いなく、自分の気持ちばかりを押し付けて、アプローチしてしまった……!」
「アレクセイ、それは違うわ。貴方は何も悪く……」
「悪いのは俺だ! 貴女がどれほど傷ついていたかも気づかずに、俺は……っ。」
アレクセイの碧の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出す。
泣きたいのは私の方なのに、彼はまるで自分の心が引き裂かれたかのようにボロボロと涙を流し、私の手をさらに強く握りしめた。
「……それでも、もし、許されるなら」
アレクセイは涙で濡れた目で私を見つめたまま、必死に言葉を紡ぐ。
「俺……エリーゼに『恋なんてするつもりはない』って言われた時、諦めるフリをしようと思った。でも、嘘でも恋心が無かったなんて、俺には言えない。今だって大好きだ。」
直球すぎる言葉に、私の心臓がドクリと跳ねる。
「だけど、もう誰のことも好きになりたくないなら、無理に俺の気持ちを押し付けるようなことは、絶対にしない。だから……まずはこれまで通り、よき友達として、仲良くして欲しい。」
「友達、として……?」
「ただの同僚でも、友達でもいいから、近くで俺に支えさせて欲しい。……あ、でも、あの。」
そこでアレクセイは、急にハッとしたように顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。
「俺、自分で言うのもアレだけど、結構欲張りなだから……友達として一緒にいるうちに、その、いつか俺のことを『いいな』って……あわよくば好きになってくれたらいいなって、下心もある……かも。」
最後の方は、消え入りそうなほど小さな声だった。
けれど、オフィス中が静まり返っているせいが、彼の不器用な本音は、周囲にも丸聞こえだった。
「ぷっ……。」
張り詰めていたオフィスのあちこちから、堪えきれないといった風な同僚たちの吹き出し笑いが漏れ聞こえる。
さっきまであんなに絶望の淵にいたというのに。
私のために泣き、自分を責め、それでも恋心を諦めきれずに「あわよくば」なんて素直に白状してしまうこの不器用な同僚が、愛おしくて、おかしくて。
「ふふふふっ。」
気づけば私は、数ヶ月ぶりに、心の底から声を上げて笑っていた。
「エリーゼ……?」
ポカンと固まるアレクセイの手を、今度は私の方から、少しだけ強めに握り返す。
「いいわよ。これからもよろしくね。……でも、私の心を動かすの、結構大変だと思うけれど。」
「――っ 死ぬ気で頑張ります!!」
涙を流したまま、ひまわりが咲いたような満面の笑みを浮かべるアレクセイ。
ウィリアムと過ごした結婚生活、私の世界はいつも灰色で息が詰まりそうだった。
けれど、この誠実な同期の隣なら、もう一度、前を向いて歩けるかもしれない。
元夫の母親によって過去を暴かれた最悪の一日は、アレクセイのあまりにも真っ直ぐな、そして少し欲張りな優しさによって、温かな光で満たされたのだった。




