第三話 今度の名は、茜
その日の午後、女中部屋のすぐ外にある井戸端で、
茜は着物をはだけ、同僚の小萩に背中を見てもらっていた。
「うわぁ……今度は一体何をぶつけられたの?」
小萩は冷たい井戸水で絞った手ぬぐいを、痛々しい青あざにそっと押し当て、表情を歪める。
「文箱。でも大丈夫だったのよ? 箱も硯も無傷だったし――」
「そうじゃない。あんたが無事じゃないじゃない……」
「あー……私なんて、ほっときゃ治る――」
カラカラと笑う茜に、小萩はますます顔をゆがめた。
「茜はなんで耐えてるのよ……、夢喰みさまが苛烈すぎるのは、旦那様だって重々承知。
配置換えを申し出たって、むしろ今までよく耐えたって、褒めこそすれ悪し様になんて言えやしないわよ。」
「さぁ――なんでだろうねぇ。恩義――だとは思うんだけど……」
茜は遠くを見ながら、ぶたれた頬に手をあてる。
「恩義って、例の悪夢を喰らってもらったってやつ?
でもだって、茜はその悪夢も何だったか覚えていないんでしょう?」
背中を何度かぬぐって、小萩は今度は壺から軟膏を指ですくい、青あざに塗り付ける。
薄荷の香りが鼻孔をくすぐり、スッとした独特の涼しさに、茜の肩から力が抜けた。
「うん。でも、助けてもらったのは確かだし……
私、そんなにあの方が嫌いではないし、怖くもないもの。
小萩も夢喰みさまに仕えてみる? 言の葉さまとはまた違った魅力が――」
「勘弁してよ。私は物投げられたくない。」
小萩は心底嫌そうな顔をして、麻布で軟膏を覆った。
そのままサラシで固定してもらい、茜はそっと着物を羽織る。
「――顔、腫れてる? 目立つかな。」
押さえていた頬から手を離し、小萩に向ける。
「うん、赤くなってる――そっちも薬、塗ろうか?」
「いや、いい。目立つし。」
茜は立ち上がると、着物の襟を正し、裾をはらう。
ふと、視界の隅に人影を捕らえた。
慌ててそちらに顔を向けると、茜と同じくらいの年若い――
白い装束、白い耳に豊かな尻尾を持った天狐のあの従者が、じっとこちらを見つめている。
「――っ……従者さま……いつから――」
茜は思わず口走る。が、ハッと口元を押さえ、その場にひざまずく。
「お見苦しいところをお見せして、申し訳ございませんっ!」
茜に遅れること一拍、小萩もその場に平伏する。
「こちらは私ども奉公人の控えでございます。お客様のいらっしゃるべき場所では――」
小萩の言葉を手で制し、従者はまっすぐに茜のもとまで歩いてくる。
「君――その頬……」
あっという間に彼は茜の前に立ち、彼女の前へしゃがみ込むとその頬に指を伸ばした。
「っ――」
指が触れる直前、茜は反射的に顔を背けて指から逃げる。
けれども、従者は身を乗り出し手を伸ばし、彼女の頬を捕らえた。
「誰にされた」
指が触れた瞬間、茜の脳裏に、先ほど、夢喰みに叩かれた時の光景が駆け抜けた。
「ふぅん……あの女、ね。」
従者の目が細められる。
その視線にからめとられて、茜は彼の金の瞳から、目をそらすことができなかった。
止めていた息がとうとう続かず、短く吐き出して、従者も茜も我に返る。
従者がパッと身を引いた。
「ごめんごめん、怖がらせちゃったかなぁ。」
「い……いえ……」
茜は無意識に胸に手を当て、しりもちをつく。
心臓がバクバク、鳴っていた。
従者はくすりと笑って立ち上がると、茜に向かって手を差し出した。
茜は絶句して、その手と従者の顔を見比べる。
「手。」
従者はもう一度改めて笑顔を作ると、茜の手を引いてその場に立たせる。
「僕は、真広。君の名前は?」
「あ……茜、です。」
反射的に茜が答えると、真広は、
「あかね……茜、ね」
と彼女の名を口の中で転がして、こぼれる笑みが抑えきれないとばかりに俯いた。
「えっと……従者さま……」
茜がとまどって声をかければ、真広は勢いよく顔を上げる。
「まひろ。真広って呼んで!」
「は……はぁ……? 真広さま?」
「うん、それでいい。」
真広は満足げに頷くと、もう一度茜の頬に手を当てて、
「また来る。」
と言い残し、踵を返し駆けていった。
茜と小萩はその背中が見えなくなるまで見送って、顔を見合わせる。
「……従者さま、何だったのかしら……」
「さぁ? って……茜、ほっぺた! 赤みがすっかり引いてるわよ」
小萩が目を見開いて、無遠慮に茜の顔を指さした。
茜もハッとして頬に手を這わせると、先ほどまでの痛みがない。
気が付けば、背中の痛みも無くなっていた。
「真広さま……治してくれた?」
呆然と茜がつぶやくと、小萩が目を細める。
「……あんた、完全に目を付けられたわね……。覚悟、した方がいいわよ……」
「……覚悟って、なにを……」
茜は理解を拒んで、引きつった笑みを浮かべた。
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「会って来た。今度の名前は、茜だ。」
真広は天狐に用意された座敷に入るなり言い放った。
座敷で控えていた空也はじめ従者たちが一斉に彼を見る。
「――茜さま、ですか。やはり、あの三番目の姫の侍女でしたか?」
「ああ――」
空也に応えながら、真広はどっかりと上座に座り込む。
「空っぽだった。」
真広は表情の抜け落ちた顔で、空也を見る。
言葉足らずの主に、空也は眉をひそめ首をかしげた。
「空っぽ? それは、神通力が奪われている、という意味で?」
「いや、本当に空っぽなんだ。
魂のかたちは確かにあの子なのに、何にもなかった。
力も、魂に刻まれてるはずの記憶も、何にもなかったんだ。」
「……つまり、茜さまは、本当にまっさらに、普通のおなごとして生まれ変わった、と?」
空也が探るように言うと、真広は視線を畳へと落とす。
「そうかもしれない。あの子の望みは、そうだったから。
だけど、何か引っかかる。あまりにもまっさらで――まるで……」
真広が言い淀み、座敷にシンッと静寂が落ちる。
「――やはり、茜さまだけお連れして、早々に引き上げますか?」
空也が沈黙を破ると、真広は首を横に振った。
「いや、ここは慎重に行こう。計画は当初の通り。
空也、おまえは四姫に探りを入れろ。僕は明日にでも村をまわってみようと思う。」
「承知いたしまし――」
空也が頭を下げかけた時、障子に影が差した。
「天狐さま。岳彦にございます。
ぜひ、お目通り願いたい者が――」
障子には、三人の男の影。
真広と空也は音もなく席を入れ替わる。
「――入れ」
空也が天狐の威厳を纏い発声した。
入って来たのは、岳彦と、二人の若い男だった。
一人は背の高いがっしりとした体つきで、質の良い上等の着物を着こんでいた。
もう一人は青白いやせた男で、洋装に眼鏡をかけていた。
「天狐さま、こちらわたくしめの息子たちでございまして、
二人とも東都へ出ておりますゆえ、お出迎えには間に合わず失礼をいたしましたが、
先ほどようやく到着いたしました。」
岳彦は揉み手でニヤニヤとしながら言った。
「こちらは長男の篤彦。東都で我が家の商店を切り盛りしております。
いずれは、この忌部家を継がせようと思っております。」
がっしりした体つきの方、篤彦が頭を下げた。
「そしてこちらが次男の吉彦、帝国大学で学んでおり、古事にも精通しております。」
やせた青白い方、吉彦がぺこりと頭を下げた。
岳彦は、息子二人を満足げに眺めてうなづくと、空也に向かって深々と頭を下げる。
「どうか天狐さま、姫たちのみならず、我が息子たちもお見知りおきくださいますよう、
なにとぞ、なにとぞ、ご加護を、よろしくお願いいたしまする。」
「……相分った。」
平伏した三人の頭を睥睨して、空也が仰々しくうなづいて見せれば、
岳彦はますます笑みを浮かべて揉み手を速める。
篤彦は自信に満ちた顔でにやりと口端を上げ、
吉彦は眼鏡の奥からキラキラと純粋な好奇心を向けた。
そんな三人を、真広は横合いから無表情で眺め、やがて目を細く細くすがめるのだった。




