第二十七話 魂へ贈る名
まもなく天狐一行が桧ヶ瀬村を発つ日が迫ったある午後、
御座の居室に真広と茜、それから空也と小萩、そして天眼が顔をそろえていた。
ぼんやりと虚空を見つめる御座の脇には、八束も控えている。
「……天狐さま、いかがでしょう。御座はやはり……。」
天眼が不安そうに真広にたずねると、彼はうなだれて首を横に振った。
「――この子の真名、柏醒だっけ……もうさ、名が食い荒らされて空洞化してるんだよね。
このままじゃ、このまま……だと思う。このまま、意思もなくぼんやりと命が尽きてゆくだけだ。」
「……何か、手はありませんか?我が妹ながら、哀れにございます。」
「うーん、手がないわけじゃないよ。ないわけじゃないんだけど……
これは僕一人では決められないかなぁ……」
真広は腕組みをして唸りながら、やがてちらりと茜を見る。
「新しい、この子に縁のある強い名を与えたら、多分生き直せると思う。
今までの記憶とか、もともとの人格が引き継がれる可能性はないけど、魂は救われる。」
「それでも、構わないと私は思います。
せっかくこの世に生を受けたのです。このまま生きた屍でいるよりも、喜怒哀楽を知る人として生きてほしい。」
天眼が真広に迫ると、彼は少し困ったように首を傾げる。
「うん、僕もそれには賛成だよ。まあ、この子には元の記憶も人格も、無いに等しいからね。
ただねぇ、問題はそこじゃなくて――
この子に人格を与える程の強い力をもった、ふさわしい名前に、たった一つ、心当たりはあるんだけどねぇ……」
「……真広さま、さっきから私を見て意味深ですが――、私に関係があるのですか?」
茜が不審そうにたずねると、真広はこくりとうなづいた。
「うん――
ねぇ、茜……僕にとって、自分の名と、茜という名と、
――その二つと同じくらい大切な名前なんだけど……この子にあげていいかな――君の前の名前……」
「……“鹿奈”ですか?」
真広はもう一度こくりとうなづいた。
茜はホッとため息をつき、表情を和らげると肩をすくめた。
「別に構いませんよ? 私には“茜”という名がありますし。名をあげたからといって、私が何か失くすわけではないので。」
「そっか……、ふふ、そうだね。確かにそうだよ。
名を分け与えたくらいで、茜の魂が揺らぐなんてありえない。
だって――僕に名をくれた人の魂だもの。」
真広は一人でくすくすと笑うと、やがて表情を改めて御座へと向き直る。
御座の前へ移動すると、彼女の頬を両手で挟んで、言い聞かせるように言った。
「四の姫――君の名は、今この時から、“鹿奈”だ。
いにしえの偉大な巫女の名だよ。大切に使ってほしい。」
「か……な……」
御座の唇が震え、声がこぼれた。
その刹那、彼女の目に光が宿る。
「そう、鹿奈だ。」
真広の顔が泣きそうに歪んだ。
「鹿奈……」
御座はもう一度、噛みしめるように名を繰り返す。
真広はそっと手を離して、身を引いた。
元の席に戻った彼に、茜が寄り添う。
「今考えるとさぁ、鹿奈媛ってすごかったよねぇ。
名前一つで僕に神格を与えて、長寿まで与えたんだもん……。
僕は、あの子に千四百年は与えられないよ。」
少しおどけて言った真広の肩を茜が抱くと、彼は頭を預けてくる。
「まあ、千四百年も寿命をいただいたら、御座さま、お困りになられると思いますよ?
別に神様になりたいわけではないと思いますし――、ただの人として天命を全うしたいと思います。」
「……彼女の気持ちがわかるの?」
「まあ、なんとなく――。」
二人が言葉を交わしている間にも、御座の様子はみるみる変わり、
周りにいる八束や天眼にも興味を示し始める。
「ばあば。ねぇね。」
幼い表情ながらも、彼女の顔に初めて笑みが浮かんでいた。
八束は彼女を抱きしめると、やさしい、でも少し悲しげに微笑む。
「天狐さま――、ありがとうございます。
妹をありがとうございます。」
天眼が涙を浮かべながら言うと、真広はスッと表情を引き締める。
「茜とも話し合ったんだけどね、おまえの『遠見』の力は、しばらく――
おまえの一生涯の間、おまえに預けておこうってことになったんだ。
その子を守り、養うためには必要な力だろうって。」
「――天狐さまは、何でもお見通し、なのでございますね……。」
「まあね、これでも僕、神様だし。
それにおまえも、岳彦や篤彦には思う所もあるだろう?
手は貸してやるから安心しろ。」
天眼は答えず、深々と頭を下げた。
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「でも、岳彦は四姫を素直に手放しますかね?」
天狐たちの部屋に戻り、最後の荷造りを始めながら、空也は少し不安気にたずねた。
「さあね。でも、それにあいつの大好きな金はほら、この通り置いてゆくんだ。
後は一の姫が上手いことやればいい。」
真広はついさっき用意した小さなつづらを顎でしゃくる。
その中に、小判がぎっしり詰まっていることを、座敷の皆が知っていたし、
それを真広が榊の枝から作り出したことももちろん知っていた。
「……真広さま。葉っぱのお金は使ってはならないとあれほど――」
茜が説教する態勢で苦言を呈すれば、真広はしれっと言い返す。
「だーかーら、大丈夫なんだって。
僕がさ、生きている間は、僕が願わなければ、葉っぱから作り出したものは元には戻らない。
鋳溶かしたって本物の金ときれいに混ざるよ?
そして僕はこの先何千年も生きて、空狐を目指す予定だし――、まあ、妖術が解けて困るのは、だいぶ未来の話かな。」
「……それなら、良いんでしょうか……、良いんでしょうか……ね?」
茜は首をかしげたが、空也はまだ納得いかないと食い下がる。
「しかし、あの強欲な岳彦が、大金を得たからとていって金の成る木の娘たちを易々と手放しますかね。
あの三の姫だって、簡単に輿入れを許していたのには驚いたのに――」
「あー、それは問題ないと思いますよ?」
こそっと手をあげて会話に入ってきたのは小萩だった。
「そもそも、忌部のお嬢様方の神通力は、生涯あるものじゃないんです。
二十歳過ぎ――少なくとも三十路に差し掛かるまでには必ずなくなりますし、
新たな当主が定まって、奥方でも迎えれば、それはますます早まります。
神通力は、次の当主の娘たちに現れ、他家に出ることはないですから、幼いうちから稼がせて、年頃になったら高く嫁がせようって算段なんですよ。」
「……なるほど、それはえげつない。」
空也が唸ると、真広がニヤリと笑った。
「でも、それも今代限りだ。
四姫の力は遅かれ早かれ、全部僕が回収する。たとえ、吉彦が娘をもうけようとも、神通力は授からない。
そう考えると、一の姫に一生涯の『遠見』の貸与は破格だよね。」
「天眼さまも全部わかっておいでですから、うまく役立てられることでしょうね。」
小萩も満足げに頷いた。
そんな小萩を見つめて、茜は彼女が共に天狐の里へ行くことを心強く思ったのだった。
そして、それから数日後――
天狐たちが、桧ヶ瀬村を発つ日がやって来た。




