第二十六話 千四百年の名を騙る
高々と上げられた夢喰みの、白くほっそりとした手に、空也はスッと目を細める。
背後にいた真広は、思わず口角が吊り上がったのを一瞬で抑え、神妙な表情を作り直した。
「天狐さま、どうか発言をお許しください。」
自信に満ちた笑みを湛え、ゆっくりと頭を下げた夢喰みを、隣の天眼は驚いたような、おぞましいものを見るような、おびえ切った目で見つめている。
彼女の口が何か言いたげに開きかけるが、すんでのところで口を押えて黙り込む。
「――三の姫……許そう。」
空也が許可をすると、夢喰みはずいと膝がしら一つ分、前へ進み出る。
「天狐さま。ご滞在の間、多くの時間をわたくしと過ごしていただき、ありがとうございました。
わたくしの真心は、十二分に伝わっていると信じておりますが……、
まだ、天狐さまに、お伝えしていないお話がございます。」
挑むように笑う夢喰みに、空也は先を続けるようにうなづき返す。
「天狐さま、わたくしには古い古い記憶がございます。
遥かいにしえの昔――そう、今から千四百年ほど前、私は海を隔てた王国の王女でした。」
夢喰みの後ろに座っていた茜の肩が、ビクリと揺れた。
茜は夢喰みを見つめ、それから真広の方へ視線を投げる。
真広は今にも笑い出しそうな表情で夢喰みを見つめていた。
「王都陥落の際、私は父母を失い、倭国へと逃れ――その地で忌部の祖先と婚姻を結びました。
そして、夫に従って赴いた地――この神津毛国にて、若き日の天狐さまと出会ったのです。」
真広の口が、今度こそ、笑みの形に弧を描く。
けれども、それに気が付いたのは茜だけで、空也を見つめている夢喰みは気が付かない。
「天狐さま、わたくしを特別に遇してくださったのは、わたくしが何者かご存じだったからでしょう?
早くたずねて下さったら、わたくしもすぐにお答えできましたのに。
それとも、千四百年の時を経て、わたくしの名を忘れておしまいになられましたか?」
「……」
答えない空也に、夢喰みはもう少しにじり寄り、上目遣いで確信の一言を放つ。
「鹿奈――、百済王女・鹿奈にございます。今は姉妹たちに分かたれた神通力、そのすべてを有していた鹿奈にございます。
そして――、天狐さまに名を与えた者でございます。
ねぇ“真広”さま?」
夢喰みは、まっすぐに“空也”を見て言い放った。
茜の目が見開かれる。
――夢喰みさまが……真広さまの名を知っていた……
それも、天狐さまの真名として。しかも、千四百年前、鹿奈媛として名付けた記憶までも――
指先が、スーッと冷えて、暗い穴に落ちていくような気がした。
――幼い日、恐ろしい悪夢を喰らってもらったことがあった。
茜の脳裏に、長年抱いていた夢喰みへの恩がよみがえる。
しかし、彼女を支え続けていた思いは、今や根底から揺らいでいた。
――あの悪夢こそが、悪夢だと思っていたものこそが……
前世の大切な思い出だったのではないだろうか。
「あのように小さな白狐だったのに、ずいぶん大きくなられましたね。
千四百年――大変長い時間でございます。わたくしのことは分らなくても当然でございます。
けれど、目にかけてくださったのは、前世よりの縁に他なりませんよね?」
夢喰みは、文字はかけない。甘やかされて育って、態度も悪い。
しかし、幼少より彼女の神通力を求める多くの者と接してきたため、外面を取り繕うことは造作ない。
このように、たおやかに他者と接する夢喰みを、茜はずっと一番近くで見てきたはずなのに――
今は何か得体の知れない――、蛇かナメクジのようなバケモノを見ているような気持になる。
――私は夢喰みさまに、空也さまの名も、真広さまの名も教えたことがない。
私や小萩が天狐さまたちの名を口にするのを聞いていた者がいたとしても、夢喰みさまに、それを伝える者はまずいない。
それに……天狐さまである空也さまに向かって、『真広さま』と呼びかけるって……つまりそれは……
ふと、真広に視線を戻すと、彼もまた茜を見ていた。
視線がぶつかると、真広は「大丈夫」とでもいうように、にこりと笑った。
茜の脳裏に、はじめて彼と出会った時の光景がよみがえる。
あの時は射抜くようだった視線が、今は柔らかく、甘さすら混じっている。
――ああ……真広さまは……最初からわかってらっしゃったんだ……
初めて目が合った時から、私が何者か、全部わかってらっしゃって、
その上で、空也さまを前に立て、従者として気安く声をかけてくださっていたんだ。
茜は、感情がこみあげて、真広に抱き着きたいような気持を必死で、侍女の無表情に押し込めた。
「……ああ、やはり鹿奈媛であったか。
間違いないとは思っていたが、その記憶、確かに鹿奈媛のものである。」
空也はまるで、いかにも天狐――天宇根大明神にふさわしい、威厳のある声で告げる。
「千四百年前からの縁により――私は三の姫を、里へ連れてゆく。」
「耀堆にございます。わたくしの真名は、耀堆でございます。」
勝ち誇った顔で夢喰みが告げた。
傍で聞いていた岳彦も、満足げにうなずいている。
「では、天狐さま。我が三女、夢喰みこそが、あなた様の探し求めていたご伴侶でございますな?
おめでとうございます。早速、嫁入りの準備を進めましょう。」
「婚礼に必要なものはこちらで用意する。
なるべく早く帰還したい。里をずいぶん空けていたからな。」
空也が横目で見れば、岳彦はさらに強欲に食い下がる。
「おお、それはありがたい――。しかし、夢喰みは、我が娘たちの中でも飛び抜けて稼ぎ頭でしてね。
それなりの誠意を、期待しておりますぞ?」
「……もちろんだ。」
空也はとうとう不快を隠さず答えた。
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「……真広さま」
天狐の部屋に引き下がった後、襖が閉まると同時に、茜がじとりと真広に呼びかける。
空也や他の従者の狐、小萩まで固唾を呑んで二人を見守っていた。
「……ん――ごめんっ、茜ごめんっ。だますつもりはなかったんだよ。
ほら、従者として入り込んだほうが、素の君たちを観察できるっていうか――
でも、まあ、結果としてだますことになった。怒って当然だよっ、ごめんっ。」
まるで、さっきまでの威厳も余裕も、微塵も残っていない。
真広は情けなく茜にすがり、許しを乞うていた。
「――怒っていませんよ。ちょっと驚いただけです。
いえ――、途中から、もしかしたらって思っていましたが、改めて本当に真広さまこそ天狐さまなんだと思ったら、驚いてしまいました。」
「……怒らないの?」
真広が不安げに茜をのぞき込む。
茜はあきれたように笑いながら、真広の肩へと手を伸ばした。
「ええ。少し考えればわかる事です。
真広さまたち、この里のこと、何も調べないでおこしになったんじゃないのでしょう?
これが最善だと思われたから、そうなさった。私も同じ立場ならそうすると思いますし。」
肩から腕へ、そして手の甲から指先へ、
茜は手のひらを滑らせると、真広の手を握りしめた。
「うん。だいたいはね。でも、茜がそうだって確実にわかったのは、顔を合わせたときだよ?
それは本当だからね?」
真広は耐えきれず、ふるりと身を振るうと、大きな天狐の姿に戻って茜に頭を擦り付ける。
その姿は、もう狐神ではなく、大型犬だった。
「もう――私がこのモフモフに弱いって知ってて、わざとやってるでしょ……」
茜が苦笑して彼の首に抱き着きモフモフし始めると、
固唾を飲んで見守っていた狐たちや小萩の肩から力が抜ける。
いつの間にか空也をはじめ他の従者たちも狐の姿へ戻っていた。
大きな狐の姿に戻った空也は、小萩の前へ座り込んで首を垂れた。
「小萩殿、真実を告げず申し訳なかった。私は天狐ではあるのだが、真広さまの従者で――
“天宇根大明神”ではない。でも、それでもよければ、私と連れ添ってもらえないだろうか……」
「空也さまが、従者様……。いえ、私もその方が願ったりかなったりです。
あなた様に惹かれておりましたが、たかが女中の身の上の人間と、神様ではあまりにも格が違うと。
いえ、空也さまも天狐さまで、十分神格を持ってらっしゃるのは分ってるんですがね。」
小萩が頬を染めて、そっと手を伸ばすと、空也はその手に頬ずりする。
「ふふ、私、ちょっと茜がうらやましかったんですよね。真広さまのモフモフできていいなあって。
空也さま、いっぱいモフモフさせてくださいね?」
「あ……ああ。おまえなら、尻尾だろうが腹だろうが好きに触っていい。まあ……できれば腹は二人っきりの時にしてほしいが……」
照れた空也をひとしきり笑って、小萩はハッと気が付いた。
「あれ? でも、“天狐さま”は夢喰みさまをお嫁様に迎えるんですよね?
真広さまが茜を、空也さまと私がくっついたら――、夢喰みさまはどうなさるんですか?」
「あ――それなんだけどさぁ。」
茜の腕の下から答えたのは真広だった。
「小萩、もう少しだけ我慢してくれる? 里に着いたら空也の伴侶として正式に迎えるから、それまでは“天狐”の伴侶は三の姫ってことで、空也の隣に立たせることを許しいてほしい。」
「……それは構いませんけれど……、天狐さまのお里に着いたら、夢喰みさまをどうなさるおつもりで?」
小萩が首をかしげると、茜も少し不安気に真広を見つめる。
真広はもう一回、頭を茜に擦り付けてから、雰囲気を引き締めた。
「あの子は、完全に僕たちを謀って、嘘をつき通したからね。
それなりの報いを受けてもらうよ。神をだましたことの罪深さを知ってもらう。」
「……」
小萩も茜も、何か言いたげに口を開きかけた。
しかし、真広は言葉を被せて有無を言わせない。
「きっと君たちはやりすぎだとか引くかもしれない。
だけどね、これが神の理だよ。僕は落とし前をつけなければならない。
偉大なる僕の名付け親を騙った罪はそれくらい重いんだ。」




