第二十四話 いちばんの宝物
命を失った身体も、周りの景色も、次第に崩れ落ち、辺りは再び暗闇に閉ざされる。
「これで……終わり?」
暗闇の中真広の肩を抱いたまま茜が囁くと、真広はグイッと手の甲で涙をぬぐった。
「うん……」
その時、再びぼんやりと明かりが灯った。
少し離れた中空に、蛍よりは強く、ろうそくよりは柔らかい、薄緑色の明かりが浮かびあがる。
よく見れば、それは一寸ほどの翡翠の勾玉で、
まだ美都香比売に仕立てられる前の、美しかった鹿奈媛が両手で捧げ持っているのだった。
鹿奈媛は、しずしずと二人の前まで来ると、茜の前にひざまずく。
深々と首を垂れて、その勾玉を差し出した。
「私……に?」
茜が戸惑いがちにたずねると、鹿奈媛は無表情のまま、勾玉を受け取るようにと、手を微かに動かし促す。
「どうしよう、真広さま……」
困った茜が真広に振り向くと、真広は少し考えてから、縛ったままつないでいる手に力を籠め、ぎゅっと握りしめる。
「――悪い気配はしない。受け取ってあげて。」
「わかった。」
そろそろと手を伸ばし、茜の指が勾玉に触れた瞬間――
一気に新たな光景が広がった。
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『真広や――』
あの離れの庭先。
鹿奈媛は白狐の若い真広を呼んでいた。
ほどなくして、草陰から白狐が現れる。
『おいで、ほら。』
鹿奈媛がしゃがみ込んで目線を合わせ、両手を広げると、その腕の中に白狐が飛び込んでくる。
『ああ、かわいい子……』
鹿奈媛は目を細めて真広を撫でまわし、真広も幸せそうに彼女の胸に顔を擦り付けた。
しばらくそうして撫でた後、鹿奈媛は真広を地面に降ろして、脇に置いてあったカゴに手を入れる。
『今日はね、おまえに、とても大切なお役目を託そうと思うの。
“おまえはとても賢いから、きっとやり遂げられる。”』
鹿奈媛の言葉に、圧が乗ったのが、茜にもわかった。
「真広さま、あの力……」
「ああ。“言の葉”の力だね。本来はああやって暗示をかけて、持っている力を十二分に発揮できるようにするんだよ。」
目の前で、若い真広の目に青い燐光が灯り、尾の先が青々と燃え出す。
その様子を満足げに見て、鹿奈媛はカゴから小さな包みを取り出した。
『これを、大和の橿原にいる私の兄王子・斯麻さまに届けてほしいの。
母は違うけれど、よく似ているからすぐにわかるわ。
兄もおまえを見ればすぐに私の使いだとわかるはずよ。』
そう言うと、その包みを若い真広の背に括り付ける。
不安そうに見上げる真広に、鹿奈媛はいつものように干し肉を差し出し、儚げに笑った。
『大丈夫。私には、あなたがちゃんと兄に書簡を届けている姿が見えているわ。
でも、旅は思いがけず長くなって――神津毛に帰るのは……ずいぶん先になると思う。』
真広は鹿奈媛の膝がしらに顔や身体を擦り付ける。
それはまるで、離れたくないと言っているようだった。
『ああ……おまえが大好きよ。私だって離れたくない。
私に身分が無ければ――、ただの女子だったなら……。
だけど、これを託せるのはお前だけなの。だから――さぁ、行って……』
鹿奈媛はもう一度、わしゃわしゃと真広を撫でまわし、その鼻先に軽く口づけを落とす。
そして、そっと真広から身を引いた。
真広はしばらく名残惜しそうにもじもじとその場にいたが、やがて何度も振り返っては立ち止まり、鹿奈媛の前を後にする。
「――結局ね、大和に着くまで三年。それから、斯麻に会うまで一年かかったんだ。
僕はすぐに帰りたかったんだけどね、鹿奈媛は書簡に僕のことも書いてあって、しばらくはあいつの隠密みたいなことをさせられてた。」
真広は去ってゆくかつての自分を見送りながら、ぽつぽつと語る。
「『鹿奈は元気だから』なんて言いやがって、十年くらいこき使われていたけど――今思うと、鹿奈媛は最期の姿を僕に見せたくなかったんだろうね。それに、その後、風の噂で神津毛が噴火で滅びたって聞いた。慌てて帰ったけど、館も何もかも、砂に埋まってわからなくなっていたよ。」
「そんな……」
「何とか鹿奈媛の消息を探って、ずっと前に亡くなっていたのを知って……
斯麻に文句を言おうとしても、奴は百済に帰っちゃったし、天足も百済へ着いて行っちゃった。
結局、忌部の縁者が神津毛に帰って来たのは、天足の孫の代だったしね。」
鹿奈媛は白狐の真広が見えなくなった後も、しばらく彼が行った方を見つめていたが、
やがてため息をついて高床の建物へと戻って行った。
それと共に、景色も暗転する。
次に見えてきたのは、室内――
時刻は夜分で、窓から月明かりが煌々と差し込んでいた。
文机のような低い机の前に、鹿奈媛が座り込んで何やら握りしめて、一心不乱に祈りを捧げていた。
『私の真広が――無事に辿り着きますよう――』
鹿奈媛の心の声が、茜と真広にも届いてくる。
やがて手を開くと、握っていた物を机の上へコトリと置いた。
それは、先ほど鹿奈媛が茜に差し出した勾玉と同じもので、しばらく淡く光っていたが、やがて光が失せてゆく。
『――この玉に全部入れた。私の力も、願いも、幸せだった思い出も……。
この身が滅び、心が壊れても、これは無くならない。』
鹿奈媛はかすかに笑みを浮かべると、光を失った玉にそっと触れる。
『もし――いつになるかわからないけれど、お役目が終わったその時は――
真広が迎えに来てくれるような、そんな気がするわ……。
あの子、きっと長生きするもの……』
笑みを浮かべたまま、頬に涙が一筋伝う。
『次に生まれるなら――私も狐に生まれたい。真広と同じ、白狐が良いな……』
月が雲に隠れ、辺りが闇に包まれる。
それきり、景色は戻らなかった。
+++++
ふっと意識が戻った。
茜と真広は、固く抱き合ったまま、元の座敷の布団の上で身を横たえていた。
「真広さま……」
茜は、呆然と呼びかける。
「茜……泣いてるの?」
真広が心配そうに顔をのぞき込み、頬をぬぐう。
「え……? あ……あぁ、私……」
茜は、自分が泣いているのに気づいていなかった。
――鹿奈媛の記憶を見ても、自分のことのようには思えないけれど……
胸が苦しい。すごく切ない……
「やっぱり、全部記憶が無くなっても、魂は覚えているんじゃないかな。
もし覚えていなくても――、消せないものってあると思うんだ……」
真広は少し嬉しそうに、茜を強く抱きしめながら言う。
「でもやっぱり……私、何も覚えてないんです。
私、本当に、あの方だったのでしょうか……?」
茜も真広の背に回した手に力を込めながら、震える声で囁く。
真広は少し身を起し、茜の顔を再びまじまじと見つめて、それから何度も、何度も口づける。
頬に、額に、まぶたに、鼻先に――、そして、最後に唇へ。
「うん……君の魂は、確かにあの人と同じだよ。僕が見間違えるわけがない。
でも――」
口づけの合間に、真広がぽつぽつと告げる。
「覚えてなくていい。鹿奈媛も、茜も――僕が全部覚えてるから。
理屈じゃないんだ……、僕は君の魂にしか魅かれないし――
それに、茜は、茜として、僕が幸せにしたい。僕は君が好きなんだよ。」
「でも、私……真広さま……」
それでも茜は戸惑う。
けれど、その戸惑いも、真広の唇にふさがれ、吸い込まれていった。
しばらく抱き合い、口づけを交わし、気恥ずかしげに身体を離した頃、
真広はようやく手を縛っていた紐を外し、茜の横にごろんと寝ころんだ。
「僕さ、なんで忘れてたんだろう……」
「真広さま?」
突然深刻な声音で話し始めた真広に、茜は彼の方に顔を向けた。
「あの、鹿奈媛が最後に差し出した勾玉。あれさ、鹿奈媛がいつも身に着けていた首飾りの玉だよ。」
「首飾り?」
「うん、昔の倭国の貴人はみんな、ああいう玉が付いた首飾りをしていたんだ。男も女もね。
鹿奈媛も、百済の姫だけど天足の妻だったから、日本式の首飾りをしていたんだ。」
真広は自分の首を指して言う。
「貴人たちにとって大切なものでさ、死んだときには必ず一緒に葬る。
でも思い出してごらんよ。忌み宮から引き揚げた物の中に、勾玉も首飾りもなかっただろ?」
茜は記憶を手繰り、首をかしげる。
「確かになかったですが――墓を暴いた人が、拾い忘れた……とか?」
「いや、ありえないね。神器の一つに勾玉が含まれるほど、呪的な品と認識されているし、今でも神社に奉納されたりする“力ある宝物”だから、見逃すはずがないんだよ。」
「そういえば……最後の記憶で、鹿奈媛は勾玉に、力も、願いも、思い出も、全部込めてましたよね?」
「うん……」
真広はしばらく考え込み、やがて目を見開いた。
「ああ……そういうことか……。
忌部成親だっけ?! 南北朝の墓あばき!
あいつが、勾玉を壊したんだよ。だから、四姫に力が分け与えられたんだ。」




