第二十三話 見ていない茜でいてほしい
『……有馬村のアカナは……やはりだめだったか……。有力な巫女だと聞いていたのに。
黒根村のオヤネの具合も芳しくない……、どいつもこいつも、情けないことよ。』
吐き捨てるような、中年の男の声が闇の中から聞こえてくる。
『天足殿、やはり東国の田舎巫女などでは、神の器など務まらないのではございませぬか?』
若い男の声が答える。
『都理伎殿、“妻神・美都香比売”の器は、本来土地の女から選ばれるもの……。
土地の巫女にこそ、適性があると私は思っているのだが――、今回ばかりは、貴殿の考えが正しいやも――。
やはり理を曲げるとなると、相応の力が必要なのやもしれん。』
不意に視界が明るくなった。
真広と茜は、いつの間にか薄暗い建物の中にいて、目の前では、両耳の脇に髪を結った男が数人、何やら深刻そうな話し込んでいる。
茜は、いつか目にした日本神話の髪型のようだと思った。
視界は次第に明瞭になり、男たちの周りの様子もだんだん明らかになる。
男たちの足元には、一人の女が横たわり、生きているのか死んでいるのかもわからない。
『さっさと先代の“美都香比売”を常世へ返し、新たなる“美都香比売”を簒奪すればよろしいのではないですかな?』
今度は武人風の男が横から口を挟む。
天足は首を横に振った。
『それでは意味がない。ただの因習の繰り返しだ。
この女を手中にするまで、どれほどの犠牲を払ったか――貴殿はもうお忘れか?』
天足が静かに手を上げ、上座を示した。
視界がさらに開ける。
茜と真広にも、上座に座るモノが目に入った。
「ヒッ……な……なに、あれ……!」
茜は悲鳴をあげ、真広にすがる。
それはまるで、干からびた流木に似た、茶色いモノだった。
だが、その形は確かに人で――
頭からは黒く長い髪がまばらに垂れ、眼窩は深く落ち窪んでいる。
叫びの形で固まった口には、妙に白い歯だけが生々しく並んでいた。
身体には幾重にも荒縄が巻かれ、その上から無数の呪符が貼られている。
「……あれが、君たちが“ミトノカサマ”と呼んでいるモノ、かな。」
「そんな……」
茜が絶句している間にも、男たちは話を進めている。
『改めて古事を調べたが、アレですら、本式の“美都香比売”の儀を経たものではない。
かと言って、本式の儀式を行おうとしたところで、その支度にすら耐えきった娘は未だにいない……
天足殿、やはり今が鹿奈媛殿の使い時ではございませぬか。』
都理伎が上座の女を指し、再び天足に迫る。
『――惜しいのぅ……。あれは、蝦夷どもの鎮圧にも使えると思っていたが――
この東国には代えがたいか……。
妻神から引きはがした“夫神”の力を、我が忌部がいただけるというのなら――あの姫巫女を出してもよかろう……。』
言葉とは裏腹に、天足の口元には、望んだ返答を得た者の笑みが浮かんでいた。
「ねぇ……真広さま……これは一体、どういうことなのですか?」
茜はガタガタ震えながら、真広の袖を引く。
恐ろしくて――、上座の女から視線を外したいのに、外すことができない。
「……こいつらは、海の向こうから渡ってきて、この辺りに牧を拓こうとしていた連中だね。ここら一帯を治める夫婦神を引き離して、土地ごと奪うつもりなんだ。
そして、あの男が大和から派遣された呪術師・忌部天足……忌部家の先祖だよ。」
真広は忌々し気に答えた。
が――、茜の頭に、ふと疑問が灯る。
「真広さま? これ、“鹿奈媛さまの記憶”なのですよね?
でも、この場には鹿奈姫様はいないし、こんな話、本人に聞かせるとも思えませんが――
どうして、こんな場面まで記憶にあるんですか?」
「それもそうだね……。」
真広が首をかしげると、また景色が流れて、男たちも、上座の恐ろしい女も、闇に溶けるように消えていった。
次に光が戻った時――、二人はまたあの離れの庭にいた。
目の前の軒先には、鹿奈媛が一巻の竹簡を抱え、思いつめた顔でたたずんでいる。
やがて、先ほどの天足が鹿奈媛の元へとやってくる。
鹿奈媛は彼に深く一礼すると、はっきりと告げた。
『“妻神・美都香比売”から、“夫神・戸神名神”を引き離したいのでしょう?
そして、戸神名神の力を、得たいのでしょう?』
『……そなたは、なぜ、それを知っている……』
天足が警戒を強めるが、鹿奈媛も動じない。
『わたくしには、天眼がございます。近くの事、少し先の事、少し前の事を、見ることができます。』
それから、彼女は持っていた竹簡を、震える手で天足へ差し出した。
『ここに、わたくしが遠見しました“美都香比売を仕立てる古式”をしたためました。
この通りに、わたくしを“美都香比売”へ仕立てれば、“夫神・戸神名神”を封じることができましょう。
その力を、天足さまと、その子々孫々が使役する術も、記してございます。』
天足は竹簡を受け取ると、おもむろに開いて一瞥する。
『――なぜ、これほどの過酷な儀式に臨む気になったのだ?
何か、交換条件があるのか?』
天足は疑り深く鹿奈媛を見やる。
鹿奈媛はごくりとつばを飲み込むと、両手を握り締める。
『はい。わたくしの命と引き換えに、我が兄、斯麻さまをお支え下さい。
兄は、いずれ百済の王となりましょう。その時まで、そしてその時に、お力をお貸しください。
戸神名神の力を、我が王統のために、お貸しください――』
『……私が約束を違えるとは思わないのか?』
天足の言葉に、鹿奈媛は初めて表情を緩めた。
『――違えられませぬ。神威を得ましたら、すぐに大和へお戻りください。
そして、兄をお支え下さい。そうしなければ、貴方は全てを失います。
じきに分かります。すべてが終わりましたら、神津毛にお戻りください。その方が、封印には都合がよろしゅうございます。』
『……天眼で視たのだな……。ならば真であろう。
約束は違えぬ。そなたもこの儀、耐えきってみせよ。』
天足は、竹簡を巻き直すと、踵を返して去ってゆく。
鹿奈媛はその背が見えなくなるまで見送ると、急に身体がガタガタと震え出す。
両手で自分を抱きしめて、その場にしゃがみ込んだ。
『……ぅ……うぅ…………うぁぁ……』
嗚咽が漏れる。
そこで泣いていたのは、百済王女でも、霊験あらたかな姫巫女でもなく、
一人のただの少女だった。
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暗転した後、鹿奈媛は数か月がかりで厳しい潔斎を経て、身を清めていった。
日々を祈りに過ごし、やがて儀式の支度に入る。
「ここから先は、見ない方が良い。
茜は見なくても――良いと思うんだ……」
真広は茜を袖の中へと抱き寄せ、その顔を自分の胸に押し付けた。
「で……でも、私も知らなきゃ……
真広さまは知っているんでしょ?」
茜が抜け出そうともがく。
けれども真広は頑なに、彼女の視界を閉ざした。
「うん、僕は知ってる。
知ってるから、見てほしくない。
そして、多分、鹿奈媛も、見せたくないと思うよ?」
「なんでそんなことわかるんですか?」
茜はようやく胸元から顔を出し、食い下がった。
「四の姫から抜き出した、赤い石――、あれが別になっていただろう?
あれは、このあと彼女に施された儀式の記憶――、筆舌に尽くしがたい、凌辱と尊厳の蹂躙の記憶だよ。
鹿奈媛自身も、やっぱり耐えきれなかったんだと思う。
だからああやって、別にしたんだ。」
「……でも――」
「おねがい。見ないで。
僕が全部見る。だから、茜は見ないで。見ていない茜でいてほしい。」
真広は泣きそうな声で言うと、もう一度茜を強く抱きしめた。
ほどなく、儀式が始まった。
塞がれた視界の中で、茜は耳をそばだてる。
『あ゛……うぅ…………』
最初は小さなうめき声だった。
『ああ……あああああっ!』
時折、耐えきれず、叫び声が上がる。
真広は力いっぱい茜を抱きしめた。
抱きしめることで、飛び出していきそうな自分を抑えていた。
鹿奈媛の意識は、次第に途切れがちになっていった。
それでも、断片的に戻る声だけで、儀式がより凄惨な段階へ進んでいることは分かった。
『いやぁぁぁっっ、ああああっっ、やだぁっ、やぁ……』
とうとう拒絶の声が混じり……
『あ゛あ゛あ゛あ゛……』
とうとう、理性の灯が消えた。
そして、ついにはすべての音が消え、真広はゆっくりと茜を離す。
「……三年も……三年……」
全てを見届けた真広は、噛みしめた唇から血を滴らせ、あふれる涙をぬぐいもせず、その場に膝をつく。
「そんなに、君は、苦しんだんだね……」
真広と茜の前には、変わり果てた鹿奈媛が横たわっていた。
かつて艶やかだった髪はバサバサに傷み、刺青を全身に施された身体は枯れ木のようにやせ細っていた。
眼窩に眼球はなく、耳からも膿が流れている。歯も一本も残っておらず、口元は老婆のようだった。
だが、息絶え、苦痛から解放されたその顔はどこか安らかで、事切れたその口元には淡く笑みすら浮かんでいた。
「真広さま……」
鹿奈媛の前でひざまずき、泣きじゃくる真広に、茜はかける言葉もなかった。
ただ、その肩を抱きしめるほかなかった。




